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Channel: CULTURE FEATURE(カルチャー特集) | HOUYHNHNM(フイナム)
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フイナムテレビ ドラマのものさし『若者たち 2014』

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ドラマから流行語が生まれたり、なにやらテレビドラマの周辺が騒がしい。実際見応えのあるものも多く、「映画は観るけどドラマはちょっと...」なんて言って食わず嫌いしているのはもったいない。でも、すべての連ドラをチェックするのは物理的に無理。しかも、高視聴率だから面白いかといえば、実はそうでもなかったりするから話はややこしい。そこで、ほんとうに面白い、いま見ておくべきドラマを独自の視点で採り上げていくのがこのコーナー。ブッタ斬りでもメッタ斬りでも重箱の隅つつき系のツッコミ芸でもなく。そのドラマの「何がどう面白いのか」「どこをどう面白がるべきか」をふんわり提示する、普段ドラマを見ないひとにこそ読んで欲しいドラマ・ウォッチ・ナビ!

Text_Shin Sakurai
Design_Shogo Kosakai[siun]

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『若者たち 2014』フジテレビ 水曜22時 7月9日スタート
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公式HPより
「君の行く道は 果てしなく遠い」......。 2014年7月30日公開
1966年に放送されたドラマ『若者たち』の主題歌は、ドラマを見ていない世代でも聴き覚えがあるほどよく知られた歌だ。その名曲が、リメイクドラマの挿入歌として48年ぶりに森山直太郎の歌唱で甦った。
妻夫木聡、瑛太、満島ひかり、蒼井優、長澤まさみ、橋本愛など、今をときめく若手俳優が結集し、『北の国から』の杉田成道が20年ぶりに連続ドラマのメイン演出を手掛ける『若者たち2014』が、7月9日からスタートしている。
ところが、フタを開けてみると、初回放送時から賛否両論が巻き起こった。賛否というか、ネットの感想などを見ると圧倒的に「否」が多く、視聴率も初回こそ12.7%だったが、2話、3話は7.8%とひとケタ台に。これだけのメンツを揃えて、なぜこんなことになってしまったのだろうか。
1966年の『若者たち』は、当初数字は低かったものの、若者が抱えるさまざまな社会的な問題を描き、じわじわと人気が上がっていったことで伝説化したドラマだ。テレビ局の上層部は「予算がかかり過ぎるわりに数字が良くない」との理由から打ち切りを検討(実際には内容が局の意向に沿わなかったらしい)、予定よりも短い本数で放送は終了し、かつ第33話が朝鮮人差別を促すとのことで放送中止になるなど、さまざまな逸話があることも伝説化に一役かっているのだろう。当時、放送継続を願う視聴者からの署名が局に殺到したというから、その人気のほどがうかがえる。ちなみに、江口洋介が「あんちゃん」を演じたドラマ『ひとつ屋根の下』(93年)は、この『若者たち』が元ネタだ。
まさに66年の放送当時「若者たち」だった杉田成道は、今回のリメイクを熱望し、自ら企画したというが、豪華俳優陣とベテラン演出家による珠玉のドラマを期待して見始めた2014年の視聴者は、初回の冒頭でいきなり面食らうことになる。
物語の中心である佐藤家の朝食の風景を捉えたシーンでは、長男・旭(妻夫木聡)の大仰なセリフ回し(『するってぇと何かい』『てやんでぃ』的なべらんめえ調)と、それを受ける三男・陽(柄本祐)の妙に芝居がかった説明口調の応酬に、「なんだ、この時代錯誤感は」と開始5分にして頭を抱えてしまったひとも多かったようだ。
しかし、録画したこのシーンを見返すと、これは意図的に芝居がかっているのだ、ということがわかる。妙齢にも関わらず独身の長女・ひかり(満島ひかり)を心配した兄たちが見合い話を切り出すために小芝居をしているという設定なので、長男も三男もいつも以上に大仰で芝居がかった物言いになっているのだろうし、三男は演劇をやっているという設定から、より芝居口調が強調されている、という演出上の意図が(おそらく)あったに違いない。違いないのだが、演出や芝居のトーンが、あまりにも現在放送されている他のドラマと違いすぎるため、おそらく皆ギョッとしたのではないか。それくらい、冒頭の食卓のシーンの異物感は強烈だった。
が、こういうシーンを冒頭に置くことによって、「これはこういう世界観の話です」ということを明確に打ち出したのは案外良かったのかもしれないな、とも思う。コンサート会場の入口に「森進一ショー」という看板が出ていれば、「なんでこの歌手の声はこんなにしゃがれているの?」「ビブラートをきかせすぎているのはなぜ?」とは誰も思わないだろう。なぜなら、それが「森進一の歌」だからだ。『若者たち2014』は、しょっぱなから「これは2014年の社会をリアルに描くような話ではありません。自分の歌を歌いたいように歌います」と作り手が宣言しているようなものだ。
もっとも、それはあくまでも演出のトーンの話であって、「童貞は黙ってろ」とか「軽部さん、何気にディスられてるしね」などというセリフがあったり、言葉だけを抽出すると、実は意外と今っぽさが採り入れられていることがわかる。あまりにも演出と芝居が時代がかっていたせいで、セリフが耳に入ってこなかったという問題はあったにせよ。
そうしたマイナス点があったとはいえ、簡単に全否定してしまうにはあまりにももったいないというほど、このドラマには「ドラマ的な幸福感」というべき時間が流れている。ドラマ的な幸福感というのは説明が難しいのだが、「ああ、今ドラマを見ているなぁ」としみじみと思える瞬間とでも言えばいいのか。
たとえば山田太一脚本の『ふぞろいの林檎たち』や倉本總脚本の『前略おふくろ様』『北の国から』でも何でもいいのだが、ある期間、ひとつのドラマに寄り添うようにして見続けた体験が見る者のベースにあるかどうかが問われるような気もする。「ドラマ的な幸福感」を体験したことのないひとに濃密なドラマ的な時間が流れるドラマを見せるのは、ふだんジャーマンテクノしか聴かないひとを森進一のコンサート会場にいきなりぶち込むようなものだろう(森進一に深い意味はありません)。
1話で、何かやらかして刑務所に入っていた瑛太演じる次男の暁が出所するシーンが描かれ、2話では、暁が「何をやらかしたのか」を中心に描くのだが、高齢者相手の詐欺という現代的な犯罪をモチーフに、被害者家族の希薄になった親子関係が描かれる。3話は、瑛太が主演したドラマ『それでも、生きてゆく』『最高の離婚』を手掛けた並木道子が演出したこともあって、1、2話と比べてかなり抑制の効いた画面づくりで瑛太の持ち味を引き出していた。
考えてみれば、暑苦しい演出と芝居は長男・旭というキャラクターの前時代的な暑苦しさとリンクしていたともいえる。そこに、ある一件で旭と対立して家を飛び出した次男の暁が佐藤家に戻ってくることでトーンが一変し、暑苦しさが緩和されていく。さながら旭が熱を帯びた泥臭い昭和を体現し、暁が体温の低い醒めた平成を体現するかのように。これが狙いだとしたら、それはそれで巧妙な演出プランではないだろうか。
三男の陽は学生演劇の劇団を運営していて、つかこうへいの戯曲『飛龍伝』を稽古をしていたりするのだが、『飛龍伝』といえば、全共闘の女リーダー・神林美智子を富田靖子、牧瀬里穂、石田ひかり、内田有紀、広末涼子、黒木メイサが歴代演じ、今年10年ぶりの復活作では桐谷美玲がそのバトンを受け取る。いわば若手女優が実力派へと成長するための登竜門的役柄なのだが、ドラマ内ではその役を橋本愛が演じることになるらしい。1960年代と2014年を接続するために間に『飛龍伝』を置く、というのはある意味で正解なのだろう。芝居がかった演出は、芝居というジャンル自体がもつ熱を描くためにも必要だったのかもしれない。ダサい、暑苦しいと忌み嫌われ、今や失われつつある「かつての若者たち」の熱を受け継ぐものとして。
しかし、連続ドラマは1話の評価が肝心なので、そこでつまづいた視聴者はなかなか戻ってきてはくれないのがイタいところだ。実力派若手俳優たちのもつ画力(えぢから)だけでも十分に見る価値があるのだから、何とかして戻ってきてほしいと思う。おそらく「果てしなく遠い」とこへ行ってしまった若者たちにも。
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2014 April-June vol.04 7/8up
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公式HPより
『続・最後から二番目の恋』フジテレビ 木曜22時 第9~10話(終了)
『続・最後から二番目の恋』が全10話で最終回を迎えた。人によっては「毎回だらだらと同じような話を繰り返してるだけで、ちっともドラマチックじゃないな」と思うかもしれないが、そういう人には「ドラマチックじゃない。これがドラマだ」と言おう。
まあ、あまりにも歳が若い人(とお酒を飲まない人)にはこのドラマの本質は理解できないのではないか、などと言いたくなるほど、オトナのせつなさ、やるせなさ、おかしさに満ちていたわけだが、第9話で長倉和平(中井貴一)と吉野千明(小泉今日子)が一緒に人間ドックに行くエピソードには、そこはかとなく「老い/死」の気配が漂っていた。
健康には自信があったものの検査結果が思ったほど芳しくなく、もう若くはないことを自覚せざるを得ない和平52歳。一方、不摂生な生活から検査にビビりまくっていた千明48歳はいたって健康という皮肉。鎌倉に住むようになって健康的になったのかもしれないと思い当たる千明は、和平の体を心配し、「人の痛みとかわがままとか吸収して受け止め過ぎなんじゃないですか」とたしなめる。「さみしい人を吸い寄せちゃうんですよ、あなたも鎌倉も。優しいんですよね。だから、みんな好きになっちゃうんです。鎌倉も長倉も。カマクラ、ナガクラ。似てません?」
この連載のvol.2で書いた「カマクラとナガクラの類似」について千明が指摘していて思わず「よし!」とうなづいたのだが、よそから来た縁もゆかりもない千明にとって、カマクラもナガクラも、自分を家族のように受け入れてくれる居心地のいい場所だったのだ。人間ドックのあと、海を見渡す清々しいレストランでビールを飲んだふたりは、「こんな健康的なところにいると、そろそろ不健康なところに行きたくなりますね」という千明の提案から、行きがかり上「昼キャバ」に行くはめになるのだが、お気づきのように、カマクラ、ナガクラときて、キャバクラというオチがついているのである。
さらに9話の終盤では、和平が死別した妻との過去の記憶を「成仏」させるくだりがある。和平が毎朝海辺を歩き、桜貝を拾うのは亡き妻の習慣を引き継いだからなのだが、妻の目的は、拾った貝殻で「喫茶ナガクラ」の看板に装飾を施すためだったということがわかる。長倉家の面々に千明も混ざり、和平の妻ができなかったことを代わりに成し遂げるのだが、これによって、和平は妻との思い出にようやくカタをつけることができたのだろう。千明が亡き妻の願いをともに叶えてくれたのである。それは、和平が千明を長倉家に迎え入れるために必要な儀式だったのだ。
最終話は、全編長倉家のリビングと庭しか映らないという斬新な展開だったが、単に奇をてらっているわけでも、ロケに出る時間がなかったからでも(おそらく)なく、これにはちゃんと意味がある。第9話の「儀式」によって長倉家に迎えられることになった千明が、本当の意味で長倉の「家」の一員になっていく話なので、長倉家しか映らないのはなんら不思議ではない。言ってみれば、スティーブン・キングの『シャイニング』の主役がホテルそのものだったように、ここでは長倉家がひとつの人格をもった主役になっているともいえる。あるいは保坂和志の小説『カンバセイション・ピース』の舞台となる、かつて主人公の伯父が住んでいた過去の記憶が渦巻く民家を連想したりもする。
冒頭、カメラは長倉家のリビングの隅に置かれたソファから、まるで空間をいつくしむようにゆっくりと右方向へパンしていく。ここでまずソファが映ることにも意味があって、それは終盤、和平が語る両親の記憶とリンクしている。
長倉家の各部屋はそれほど広くないのにリビングだけがやたらと広いのは、「家族や家族じゃない人たちが、まるで家族のように常に集まってわいわいやっている」のが、この家を建てた和平の父親の理想だったからだ。和平が小さい頃、夜中に起きてリビングの前を通った時、父と母がソファで寄り添って寝ている光景を目にしたことがあるという。「笑っているように寝ていた」両親の顔を見て、「子どもながらにふたりがすごく幸せそうに見えた」光景を、和平はいまでも忘れられずにいる。
やがて、両親が亡くなり、金銭的に困って家を売ろうと思ったこともあった和平だったが、そんな時、いつもエサを上げていた通い猫を見て、家がなくなったらこの猫ももう来られなくなると思い、「ここにいるのは家族だけじゃない」と気づき、家を手離すのを思いとどまったのだ。
その話を、膝に通い猫を乗せた千明が聞いている。ここで、千明もまた長倉家に居ついた猫なのだということがわかる。毎朝、長倉家で朝食を食べる千明は、かつてここに通い、エサをもらい、長倉家の売却を思いとどまらせた猫の生まれ変わりなのかもしれない。
そんな長倉家のリビングでは、べろべろに酔っぱらった和平と千明の「酔いどれプロポーズ」へとなだれ込むのだが、やがて朝日に包まれ寄り添うようにして眠る和平と千明の姿をカメラは捉える。そう、和平の両親が幸せそうに寄り添って寝ていた、あのソファで。こうして家族の幸せな記憶は受け継がれ、リビングはふたたびあたらしい歴史を紡いでゆく。
もし続編があるのならぜひ楽しみにしたいところだが、『続々・最後から二番目の恋』というのもヘンだし、『続・最後から二番目の恋season2』『新・最後から二番目の恋』になると、もはやその恋が最後から何番目なのかよくわからなくなる。
連ドラは無理でも、年1回のスペシャルででも、このふたりと長倉家の面々の成長を見続けたいと思う。さながら「歳をとるサザエさん一家」のように。「また彼らに会いたい」と思わせるドラマほど、強いものはない。還暦の和平さんを見てみたい。
さて、そんなことを書いているうちに早7月も第2週、新ドラマがスタートする時期になってしまった(すでに始まっているものもある)。
今期の注目は、何はさておき『おやじの背中』だろう。「ドラマは脚本家で見ろ」を実証するように、10人の脚本家が1話完結のドラマを書く、脚本家バトルともいえる異例の企画だ。
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公式HPより
『おやじの背中』TBS 日曜21時 7月13日スタート
集められた脚本家は、『続・最後から二番目の恋』も手掛けた岡田恵和をはじめ、映画『復讐するは我にあり』の池端俊策、『GOOD LUCK!!』の井上由美子、『金曜日の妻たちへ』の鎌田敏夫、『すいか』の木皿泉、『北の国から』の倉本聰、『最高の離婚』の坂元裕二、『僕の生きる道』の橋部敦子、『古畑任三郎』の三谷幸喜、『ふぞろいの林檎たち』の山田太一という錚々たるメンツ。
日曜21時という、『華麗なる一族』『半沢直樹』のヒットを生んだ時間帯だが、かつては1話完結ドラマの『東芝日曜劇場』を放送していた枠なので、むしろ先祖がえりをしたと言っていい。7月13日放送の第1話は、岡田惠和脚本、田村正和、松たか子が父と娘を演じる『圭さんと瞳子さん』。嫁にいかない娘をもつ父親という小津安二郎風な王道の設定らしいが、果たしてどうひねりを効かせるのか。
つづく第2話は、役所広司がボクシングコーチの父、満島ひかりが選手である娘を演じる『ウェディング・マッチ』。坂元裕二の脚本と役所・満島の画づらから、イーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』を思わず想像するが、あんなにヘビーな話ではないのだろうな、おそらく。
第3話は倉本聰脚本の『なごり雪』。主演・西田敏行、演出・石橋冠は、あの名作ドラマ『池中玄太80キロ』のコンビだ。
今のところ詳細が発表されているのはここまで。が、放送日は未定ながら、山田太一脚本の『よろしくな。息子』では渡辺謙と東出昌大が共演、これって渡辺の娘・杏と熱愛中の東出に対しての「娘をよろしくな」なんだろうか、などと、期待はふくらむばかり。
まあ、「東芝日曜劇場」を思い出すと、1話完結というスタイルは結構食い足りない印象もあるので、過度な期待をせずに、うすぼんやりと楽しみにしていたい。
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公式HPより
『若者たち 2014』フジテレビ 水曜22時 7月9日スタート
今期注目のもう1本は、これはもうキャストからして「見なきゃ損でしょ」なドラマ『若者たち 2014』。
1966年に放送された大ヒットしたドラマ『若者たち』を、『北の国から』や映画『最後の忠臣蔵』を演出した杉田成道がリメイクするのだが、杉田の呼びかけに集まったのが妻夫木聡、瑛太、満島ひかり、蒼井優、長澤まさみ、橋本愛ら人気若手俳優たち。オリジナルは、江口洋介主演のドラマ『ひとつ屋根の下』の元ネタになった名作ドラマだが、高度成長期の若者たちの苦悩をどう現代に変換するのかが見ものだろう。案外、若者をめぐる問題は過去と地続きなのか、あるいは「今どきそんな奴いねーよ」になるのか。
テレ東深夜は『孤独のグルメseason4』(7月9日~)や人気コミックのドラマ化『アラサーちゃん 無修正』(7月25日~)などに食指をそそられるが、このあたりはドラマというよりバラエティに近いつくり方、見方をされる路線なので、あまりここで採り上げてとやかく言うこともないだろう。
島本和彦の自伝的マンガを、島本を師匠と呼び、そのイズムを継承すると公言する福田雄一がドラマ化する『アオイホノオ』(テレビ東京・7月18日~)、『モテキ』の久保ミツロウが原作、映画『デトロイト・メタル・シティ』の李闘士男が演出を手掛け、久保が大ファンという早見あかりが主演する『アゲイン!!』(TBS・7月22日)あたりも注目作ではあるが、はてさて。
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2014 April-June vol.03 6/18up
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公式HPより
『BORDER ボーダー』 テレビ朝日 木曜21時~ 8~9話(終了)
今期のドラマのなかで、予想を超えて面白く見ていたのが『BORDER』だった。
もはやさんざんやり尽くされたと思える刑事・事件ものにあたらしい質感をもたらした功績は大きい。小説『GO』やドラマ『SP』で知られる作家・金城一紀の原案・脚本、『相棒』や映画『探偵はBARにいる』の橋本一がメイン演出というふれこみから、ある程度のクオリティは保証されていたものの、こればかりは実際に見るまでわからない。
小栗旬が演じる刑事・石川安吾は、ある事件で頭に弾丸を撃ち込まれ、死の恐怖に直面したからか、頭に残ったままの弾が脳の神経のどこかに作用したのか、それをきっかけに死者と会話ができるようになる...というアイデアの大元は、おそらく死者と話すことができる少年が登場する映画『シックスセンス』(99年)に由来するのだろう。ところが、その設定を刑事・事件ものに投入することで、生と死の境界、ひいては正義と悪の境界の話になっていくため、もちろん物語自体はまるで異なった色を帯びる。
9話とややショートに終了してしまったが、この設定ならいくらでも(というのは言い過ぎにせよ)エピソードがつくれるだろうし、最終話は続編を匂わせる終わり方だったし、ましてや視聴率も良かったとなれば、パート2がつくられることはほぼ間違いない。
※初回視聴率9.7%からスタートし、宮藤官九郎がゲスト出演した5話が13.1%、7話が16.7%、最終話は14.4%と大健闘した。逆に開始前は下馬評が高かった裏 場組の『MOZU』は13.3%からスタートし、9話では7.7%にまで落ち込んだ(最終話は13.8%)。
終盤の8話では、石川が頭を撃たれた事件の真相が明らかになる。話自体は、昨年放送された「3億円事件=警察内部の犯行説」をとなえたドラマ『クロコーチ』(TBS)を思わせる警察組織の暗部を描いていたものの、石川が上司である監理官に「おまえも遅かれ早かれ正義の階段を踏み外すことになる。その時、ひどい転げ落ち方をしないように下で受け止めてやる人間が必要だ。俺がその役目を果たしてやるよ」という予言めいたことを言われ、「俺は絶対に正義の階段を踏み外さない」と反発するくだりが、そのまま最終話のエピソードへと連なるという展開が巧みだった。
死者(望まずして命を絶たれた者)と対話ができるようになった石川には、彼らの無念が痛いほど分かる。そして、殺された者から誰が犯人なのかを教えられることによって、何が何でも自分が犯人を逮捕しなければならないという正義に駆り立てられるわけだが、暴走する正義は悪と紙一重なのだということを明示するのが最終話「越境」だ。
大森南朋が演じる安藤という男は、絶対的な悪を実現するためにさまざまな研究を重ね、職業をも変えていく。おもちゃメーカーの社員としてショッピングモールに出入りし、おもちゃで子どもの気を惹き、誘拐・殺害する卑劣な人物だが、用意周到に計画された犯行に一切の証拠は残っておらず、殺された子どもから犯人だと教えられた石川をイラつかせる。こいつが犯人だと分かっているにも関わらず捕まるこずとが出来ず、その男が引き続き惨たらしい事件を起こすのを指を咥えて眺めるしかないのか。
石川の特殊な能力は、もちろん他言していないため、同僚や上司はそのことを知らない。波瑠演じる検視官の比嘉だけがうすうす感付いているのだが、誰にも相談することなく、石川はひとりで犯人と対峙することになる。これが最終的に大きな悲劇を生む、というのが最終話なのだが、「越境」というサブタイトルからも分かるように、まさに石川は最後にボーダーを越えてしまうのだった。
大森南朋は、淡々とした態度で平然と殺人を繰り返す男・安藤を不気味に演じていた。いわゆる「狂気を内包した」といった分かりやすい芝居ではなく、何を考えているのか分からない体温の低い佇まいだからこそ、見る者はゾッとするのだ(どことなくTBSの安住アナを思わせるキャラクターだった。かねてから安住アナが殺人犯を演じたら最高だと思っているのだが、これはまったくの余談)。
安藤の持論は、どこにでもいる平凡な子どもを殺すことで、「私があの子に光を与え、世の親たちにモラルを与えた」という理不尽極まりないものだ。「闇があるからこそ光がある。悪があって正義がある。どちらか一方しかない世界なんてつまらないですよ。私がいるからこそ、あなたは輝けるんです。もしそれが気に入らないなら、あなたもこちら側にくるといい」と石川を挑発する安藤。「いつから悪に染まった? 何がきっかけだ」と問い詰める石川に、「さあ、いつからでしょう。ところで、あなたが正義に染まったのはいつからですか。何がきっかけですか? 分かったでしょう。実は正義と悪に大した違いはないんです」
悪と正義はコインの裏表、合わせ鏡だという話は古今数多く見られ、バットマンとジョーカーの例を持ち出すまでもなく、特別目新しいものではない。「私は悪を成すためなら人を殺せます。でも、あなたは(正義のために人を)殺せないでしょう。この差は永遠に縮まらないんです」と安藤が言うように、悪よりも正義を成すことのほうが難しい。なぜなら、正義のために行動を起こすことは、容易に悪へと転ぶ危険をはらんでいるからだ。
絶対的な悪は存在しても、絶対的な正義はあり得るのか。そうした問いが、ドラマの終盤で見る者に突き付けられる。そして、答えのないままエンディングを迎えた。問いは問いのまま、見る者のなかにあり続ける。靴に入った小石のように。
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公式HPより
『続・最後から二番目の恋』フジテレビ 木曜22時~ 7~9話
「鎌倉を舞台にしたスローライフなオトナの恋愛劇」という入れ物のなかに、仕事論・ドラマ論をも盛り込みつつ、多彩な世代の登場人物それぞれの「しあわせのありよう」を見つめていくという、じつに複雑なことをさらりとやり遂げているのがこのドラマ。
いや、「さらり」というのは見ているほうの勝手な言い分であって、作り手は四苦八苦かもしれないが、そのくらい「いい風が吹いている」ドラマであることは間違いない。
恋愛ドラマではあるものの、ここで提示されているのは「あたらしいホームドラマ」でもある。中井貴一演じる長倉和平を主とする長倉家のリビングダイニングには、家族はもちろん、隣に住む吉野千明(小泉今日子)が毎朝、朝食を食べにやって来るし、嫁いだはずの長女・典子(飯島直子)も何かとやってくる。昼間はカフェとして営業し、和平の娘・えりな(白本彩奈)のボーイフレンドの母親・薫子(長谷川京子)が手伝いに来たりもする。つまり、長倉家のリビングダイニングは内と外がゆるやかに連なる縁側であり、「あたらしいお茶の間」なのだ。
かつて、向田邦子が脚本を書いた『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』などに登場したお茶の間。家族ですらバラバラに食事をすることが当たり前のようになった現代、向田邦子的お茶の間空間はもはや幻想に過ぎないのかもしれないが、バラバラの人間がかろうじてひとまとりになれる空間が、長倉家の食卓にはある。
7話では、長倉家の面々がリビングダイニングで親戚の叔母さんのエピソードを延々と語り合うシーンがあった。若い頃、長髪にした和平を見て、床屋に行く金がないのかと憐れんだ叔母さんが泣きながら5千円札を握らせてくれた、という話から叔母さんの家で食べたカレーがおいしかった、というエピソードに着地する、とりとめのない話を、家族でも親戚でもない千明が同じテーブルで笑いながら聞いている。
カメラは、家族の思い出を懐かしそうに語る長倉家の面々から、次第にそれを聞く千明の顔を捉えていく。「なんだよ、そのいい話は。サザエさんか? ちびまる子ちゃんか、あんたたちは。何、日曜日の夕方感出してんだよ。まだ午前中だよ」などとツッコむ千明だが、「くだらない話を懐かしんだり笑い合える家族っていいよな」と思っているでろあろうことが、その表情からくみ取れる。
庭でまったりする千明が、隣に来た和平に向かって、「私がおばあちゃんになった時、日曜日の夕方にどんな顔してサザエさん見てるんでしょうね。笑ってますかね。笑っていたいな。っていうか、やってますかね、サザエさん、その頃」とつぶやくと、「きっと、あなたは笑って見てますよ」と和平が答える。じいさん、ばあさんになった時、サザエさんを笑って見ている自分でありたい。それは、日本に住む者にとって、いわば究極的な意味で理想の老後の姿かもしれない。そして、「あなたはおばあさんになった時、きっと笑ってサザエさんを見ていますよ」と言うのは、究極の愛情表現ではなかろうか。こんなことをさらりと言える和平は、大人の男だと思う。
とにかく、どれほどすったもんだがあろうとも、いや、あればあるだけ、和平と千明がふたりでしっぽりと語るシーンの良さが際立つのだ。
8話では、「またまだ分からないことだらけ、探してるものだらけ。そのほうが前に進めるというか、この先、もうちょっとだけ成長できる気がしません? でも、まだまだなのに、残された時間はどんどん少なくなっていく。やれやれですよ(和平)」「歳をとるのも面白いなと思って。分からなかったことが分かるようになって、分かったと思ったことがまた分からなくなって。まだまだですね、私たち(千明)」なんていう会話もあった。
9話では、「男の前で泣くくらいなら切腹する」とまで言っていた千明が、和平とサシ飲みしながら思わず泣いてしまう。ツラいことがあった千明の話をずっと黙ってうなずきながら聞いていた和平が、ぽつりと言う「私は好きですけどね。吉野さんみたいな、泣けない、系?」のひと言で千明の涙腺が決壊。ここでは、千明の愚痴とも心情吐露ともつかない話を和平が黙って聞くのがポイントなのだ。普段はああ言えばこう言うのふたりでも、いざという時にはじっくりと相手の話を聞く。ほんと、大人げないのに大人なのである。長倉和平って男は。
毎回書き起こしたくなるような珠玉のセリフの数々だが、きりがないのであとは本編をご覧いただくとして、「大人げないままこんな大人になりました」と歌い出す横山剣作詞・作曲のエンディングテーマ「T字路」(貴一・キョンキョンのデュエット)の通り、いつまでも大人になりきれない大人たちのしあわせの行方を見守りたい。
それにしても、鎌倉市の市長(柴田理恵)が市長秘書の和平に恋するエピソードは誰得なのだろう。美男美女のすったもんだだけだと視聴者が感情移入できないから、という理由なのだろうか。そこだけは謎。
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公式HPより
『リバースエッジ 大川端探偵社』 テレビ東京 金曜0時12分~ 7~9話
何かに囚われて生きている男たちがいる。それは、過去に出会った自分の人生を変えたある女だったり、一度も姿を見たことはない声の持ち主だったりするのだが、そのひとを探してほしいと探偵社に依頼を持ちかける男たちの物語が7話から9話とつづく。
7話「夏の雪女」の依頼者は、20年前の夏の夜、白いワンピースを来た若い女(國武綾)にいきなり路上で「助けてください」と懇願され、自分のアパートにかくまった経験がある中年男・蓑田(田窪一世)。仕事から帰ると、「冷蔵庫にあるものだけで作ったんですけど」と言って女は手料理を作って甲斐甲斐しく待っていた。今まで女性とそんな時間を過ごしたことのない男は、この突然の押しかけ女房的存在に心酔する。
3日目の夜、女は「抱いてください」と男に体を預けて...という、実にありえへん性的ファンタジーが繰り広げられるわけだが、この夜を最後に突然女は去っていく。そりゃあ、こんなことがあれば、男はこの女のことがずっと忘れられなくなるかもしれず、ある意味で人生を狂わされてしまうことにもなろう。この男は20年もの間、どこの誰かも分からない白い服を着た雪女のような女の幻とともに生きてきたのである。原作のマンガでは、この依頼者はその後結婚して子どももいるということになっているが、ドラマでは今も独身のさえない中年男として描かれる。明らかに過去の時間に囚われたままなのだ。
大川端探偵社の村木(オダギリジョー)は、依頼者の持参したバーのマッチを頼りに女の居所を探そうとするが、そのマッチを擦ろうとするとしけっていてうまく点かないことで20年の時間の経過を示す演出が冴える。
結局、依頼者がたまたまテレビで見た女優がその「雪女」だということに気づき、村木は女優と会う機会を得て過去について問いただすも、女優は否定。原作のマンガでは、村木が女優の脇の下にほくろがあることに気づく、という結末だったが、ドラマでは脇の下のくだりはナシ。その代わり、かつて女が男の部屋で最後の夜にすき焼きを食べるくだりで、「私、すき焼きだと卵たくさん食べちゃうんです」と言いながら生卵を6個も食べるというシーンがあるのだが、村木の前で女優が生卵の乗ったタルトだかパンケーキだかを食べることによって、やはり雪女はこの女優だったのか、と見る者が気づく仕掛けになっている。さらに、最後に女優が村木の元をもう一度訪ねて来ることで、依頼者だけでなく、女もまた過去の出来事に囚われていることが分かるというオチも。
8話の「女番長」では、空手の師範・梶原(橋本じゅん)が、かつて荒んだ高校で不良のいじめに遭っていた少年時代、女番長(吉倉あおい)に救われたことで強い男になる決意したことから、その人生の恩人に会ってあらためて礼が言いたいと願う。中年になった元・女番長はかつての梶原少年のことを良く覚えていないというあたりが切ないが、人生を変えた出会いなんて案外そんなものかもしれない。変えられたほうはいつまでもそのひとのことを憶え、囚われているが、変えたほうはすっかり忘れてしまっている、というような。
9話の「命もらいます」の依頼者は、遊園地の場内アナウンスの「声」に囚われ、その主に会いたいと渇望するオタク男(ボブ鈴木)だ。探偵社の村木と秘書のメグミ(小泉麻耶)の電話攻勢でアナウンスを担当した声優を突き止めるが、当然キモいオタクに会う理由などなく面会を断られてしまう。村木らは苦肉の策で替え玉の老婆を用意し、「あのアナウンスは60年前に録音したものだった」と言い張ってごまかそうとする。原作では、依頼者はこの作戦にまんまと引っかかるのだが、ドラマでは、アナウンスのあるフレーズが60年前に流通しているはずがないことを依頼者が見抜き、嘘が見破られてしまうのだった。
結局、依頼者は声の主に会いたいというリアルな欲望より、これまで通り遊園地に通ってアナウンスの声に繰り返しうっとりと陶酔することを選ぶ。生身の声優は年老いていくが、録音された声は永遠に若いまま。ここにもまた、幻とともに生きようとする男のいびつな姿がある。
過去の時間を巻き戻そうとする者、あるいは、ある時間のなかに永遠にとどまろうとする者。いずれもまた、同じくらい切なく、もの悲しいのである。
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2014 April-June vol.02
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公式HPより
『続・最後から二番目の恋』フジテレビ 木曜22時~ 4~6話
「鎌倉を舞台にしたアラフィフの恋愛ドラマ」という設定を借りつつも、さまざまな世代の恋愛や仕事、すなわち人生を複層的に描く本作。2012年のファーストシーズンからスペシャル版、そして今シーズンと見続けてきた者としては、時間経過とともに歳を重ねる登場人物たちに対してもはや奇妙な愛着が生まれているわけだが、思えばそれは同局の長寿ドラマ『北の国から』をも彷彿とさせる。朝ドラや大河ドラマは別にして、基本3ヶ月で切り替わってしまう連ドラではなかなかここまで辿りつけるものではないが、海外ドラマを見れば分かる通り、長く続けることで生まれる愛着というものは確かにあるのだ(もちろんその一方でマンネリの危険も)。
さて、テレビプロデューサー千明(小泉今日子)の元に舞い戻ってきた年下の元カレで「食えない脚本家」の涼太(加瀬亮)。千明の大抜擢で新作ドラマのホンを任されたまでは良かったものの、出来上がったのは「死ぬほどつまらないホン(by千明)」だったという笑えない展開に。クリエイティヴな仕事をしている恋人同士、あるいは夫婦にも当てはまる、「もしパートナーがヒドいものをつくってしまった時に何と言えばいいのか問題」がここで浮上する。はっきりと言うのが愛情なのか、否定せず励まして奮い立たせるのがやさしさなのか。迷う千明の気配を察し、涼太はみずから口を開く。
「つまんないよね。ひとりよがりでどうにもならない、チラシの裏にでも書いてろって感じ。恋愛ドラマとか言ってるのにドキドキもなければキュンともこない。セリフに魅力もないし、意味ありげなかっこつけたセリフが続いてるだけで、陳腐だしイライラするよね。それに登場人物全員トラウマだらけでトラウマ頼りかよ、みたいな。自分で読み直して、こいつ辞めたほうがいいなって」
そんなにヒドいのか? 長年温めてた話とか言ってたのに!? と思わずズッコケてしまったが、まあ「俺まだ本気出してないだけ」と思うのは自由でも、実際に本気出した結果がヒドかった場合、果たしてどうなるのか。涼太の場合、若くしてシナリオ大賞を受賞してデビューという華々しい過去があるだけに、自分の書いたものがつまらないと認めるのはかなりしんどいことだったに違いない。
しかし、早朝の海を眺めながら千明の元を去る涼太の姿は、どこか吹っ切れたようにも見える。海岸でたまたま出くわした鎌倉市役所勤務の長倉和平(中井貴一)は、海に向かって手を広げながら「鎌倉は、いつまでもこのままで待ってますから」と涼太を見送る。鎌倉に来ておのれの才能のなさと向き合うことになった涼太は、それでも鎌倉という街と人に少しだけ癒されて去って行ったのだろう。「本当に疲れたら、また来ます」と言い残して。
このドラマは、鎌倉という街と、和平を主(あるじ)とした長倉家とその隣にたまたま住む千明を含めた疑似家族の小さなコミュニティの話でもある。そういえば、カマクラとナガクラは似ている。長倉家と千明の家は、もはや別棟のシェアハウスのようだ。
和平は妻に先立たれた独身の52歳、千明は「未婚のプロ(byジェーン・スー)」の48歳。職場や男女間のすったもんだがあっても、家に帰るとすぐ隣に同世代の異性の飲み友だちがいるというのは案外悪くないものかもしれない。ふだんは言い合いが絶えない和平と千明がしっぽりサシ飲みするシーンには、毎度しみじみとした雰囲気が漂う。
今後、このふたりが結婚するのかしないのかは分からない。が、仮に千明が急に家で倒れても絶対に孤独死にはならないだろうな、と考えると、こうした血縁なきコミュニティはこれからあちこちで増えていくのかもしれないし、そうしたとき、長倉家と千明の関係性は一種のロールモデルになり得るのかもしれない。まあ、現実には恋愛が絡むともっとドロドロするのだろうが。
第6話では、長倉家の二男・真平(坂口憲二)と和平の部下・知美(佐津川愛美)の結婚式が描かれていたが、さながら友だちや知り合いの結婚式を見ているような幸福な気分に包まれるドラマ前半のクライマックスといえる回だった。新婦が長倉家の女性陣たちと女子版バチェラーパーティーで盛り上がるなか、真平が兄の和平に「今までありがとうごさいました」と涙ながらに感謝のことばを告げるという男女逆転の構図もおかしかった。
○歳で結婚して○歳で子どもが生まれて〇歳で子どもが独立して...などというイメージ通りにいかないのもまた人生だったりするわけだが、本作は「人生はこうでなければいけない」という既存の価値観とは別の「もうひとつの価値観」の尺度を提示しながら、家族とも会社とも異なる「もうひとつの場所」のありようを示しているようにも思える。
大人のファンタジーかもしれないが、どこかリアルでもある。
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公式HPより
『リバースエッジ 大川端探偵社』 テレビ東京 金曜 0時12分~ 4~6話
「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」とはチャップリンのことばだったろうか。このドラマの真骨頂は、悲劇と喜劇が表裏一体となった世界観にある。
たとえば、4話「アイドル・桃ノ木マリン」、5話「怖い顔グランプリ」、6話「がんばれ弁当」に漂うおかしみと哀しみはどうだろう。
昔、ナマで見て以来ファンになったアイドルにどうしてももう一度会って人生をやり直したいと願うリストラされた中年男、顔が怖すぎてテロリスト呼ばわりされる手作りパン屋さん、留守中に弁当を届けるファンとあわよくばヤリたい売れない芸人。事件でも何でもない珍奇な依頼を持ちかける者ばかりが大川端探偵社を訪れるのだが、いずれも笑えるのに、どこか哀しくて切ない。まるで上質の落語を聴いたあとのようなじんわりとした余韻が残るのだ。無理に笑わせるでも無理に感動させるでもない、「そこはかとなく」の塩梅がいい。
基本ワンアイデアといえる1話完結の原作マンガ(作・ひじかた憂峰、画・たなか亜希夫)のどこを膨らませ、どう改変したのかを原作と照らし合わせながら見ていくのもひとつの楽しみ方といえるだろう。脚本・演出の大根仁はディープなマンガ読みとしても知られ、『モテキ』等のマンガ原作の映像化が多いこともあり、原作のテイストを最大限に活かしたうえで映像として立体化させる手さばきには唸るしかない。
たとえば、「アイドル・桃ノ木マリン」は、原作では離婚したばかりの中年男が現在のマリンと再会してただ茫然とするところで終わるのだが、ドラマでは設定をリストラされた中年男(マキタスポーツ)に変え、マリンとの再会だけでなく、その後の第2の人生をも見届けようとするやさしさが光る。
「怖い顔グランプリ」は、原作では秘書・メグミ(小泉麻耶)の付けているウサ耳に特に意味はないのだが、ドラマではメグミのいたずらでウサ耳を付けられた所長(石橋蓮司)と村木(オダギリジョー)が「かわいいー」とからかわれていると、とてつもなく怖い顔の依頼者が訪ねてくるというツカミになっている。「かわいい」から「怖い」への対比が一瞬にして鮮やかに描かれ、メグミがバニーガールの店で働いているエピソードへと連なり、そのバニーの衣装がクライマックスの怖い顔グランプリのステージで活かされることになる。しかも、メグミから怖い顔のパン屋への贈り物もカブリもの(自分をキャラ化するアイテム)つながりになっているという巧妙さ。
上手い! おーい山田くん、座布団やってくれ。である。
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公式HPより
『BORDER ボーダー』 テレビ朝日 木曜21時~ 5~7話
刑事もの・事件もののドラマが乱立するなか、俄然本作が面白い。仕事が生きがいの刑事・石川安吾(小栗旬)は、事件発生の連絡を心待ちにするようなワーカホリックゆえ、友人や恋人と疎遠になってもさして気にしない人間味の薄い男だった。ところが、ある事件をきっかけに死者と話すことができる能力を身に付けてしまったことで、次第に人間としての感情を取り戻していくのだが、それが正義という名の暴走と化していく辺りがこのドラマの面白さであり恐ろしさだ。行き過ぎた正義は悪とイコールという危うさもきっちり描いている。
脚本家の宮藤官九郎が死者の役でゲスト出演した5話は、これまでの流れからすればやや異色のコメディタッチの回だったが、ここでは石川と死者の岡部はさながらバディのように事件の真相を追うことになる。石川は死者の姿が見え、話すことが出来るが、岡部は死んだ瞬間に頭を打って記憶喪失になってしまったため、なぜ自分が死んだのかが分からない。そもそも自分がどこの誰だかすら分からないのだから、死者と対話が出来てもただちに真相には辿り着けない、というなんとも皮肉な展開に。
「コンビニをあたってくれ」との班長(遠藤憲一)の指令に、石川らと交じって神妙な面持ちで「はい」と返事をして走り出す岡部。完全に捜査班の一員のつもりなのがおかしいが、究明しようとしているのは他でもない自分の死なのだ。結局、岡部が死んだのは思わずズッコケるような理由によってなのだが、しかし、案外人間はこんなことで死ぬこともあるのではないかとも思える不思議な説得力がある。そして、実は岡部が死んだ理由の伏線となるシーンが前半の石川のあるアクションに隠されいるのは決して偶然ではないだろう。このドラマでは、伏線や裏の意図があちこちに仕込まれているからあなどれないのだ。
なにより、「死者と会話が出来る」という設定を毎回手を変え品を変え多面的に転がしていく金城一紀の脚本がすばらしい。1話完結のなかに2時間ドラマか1本の映画でも使えそうなプロットを惜し気もなく投入し、「そうか、こういう展開の仕方もあるのか!」と驚かせる辺り、まだまだアイデアは尽きそうにない。
抑制のなかに感情の起伏を覗かせる小栗旬のたたずまい、検視官を演じるクールビューティー波瑠の意志を感じさせるまなざし。気が早いかもしれないが、ぜひともシリーズ化を期待したい。
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公式HPより
『ロング・グッドバイ』NHK 1~5話
土曜ドラマ枠の『ロング・グッドバイ』は5月17日に全5話の放送が終了してしまったが、今期の注目作のひとつだったこともあり、少し触れておきたい。
「ハードボイルドの金字塔」といわれるレイモンド・チャンドラーの小説『長いお別れ』(1953年発表)を、舞台を戦後の日本に置き換えてドラマ化すると知ったときには驚いた。しかし、脚本を映画『ジョゼと虎と魚たち』や『メゾン・ド・ヒミコ』、朝ドラ『カーネーション』などで知られる渡辺あやが手掛けるというのでかなりの期待をもって見始めたのだが、1話を見た時点で少々面食らってしまったのも事実だった。
私立探偵フィリップ・マーロウは増沢磐二、富豪の娘のヒモ亭主テリー・レノックスは原田保など、登場人物はすべて日本人に置き換えられてはいるものの、ストーリーはほぼ原作に忠実。面食らったのは、まず、増沢がある事件と深く関わるきっかけになる、保との出会いのシーンだ。保が上半身裸の上にシャツを羽織る背中をカメラがスローモーションで捉え、その姿をねっとりとしたまなざしで増沢が見つめるのである。原作では、探偵と「憎みきれないろくでなし」のテリーとの奇妙な友情が描かれ、マーロウはテリーとの友情のために事件に深く関わることになるのだが、ドラマでの描写では、友情というよりもむしろ性的なニュアンスが濃厚だったのだ(少なくともそう見える演出になっていた)。
いや、そもそも原作にもそうしたニュアンス(今でいうBL的な)があるという意見もあるかもしれないし、なぜマーロウがほんの数回会っただけのテリーにそこまで肩入れするのかという理由も、「惚れたから」といわれれば済む話なのかもしれないが、「え? そういう話だったっけ?」というのが1話を見た正直な感想だった。女性脚本家がハードボイルドを描くとBLになるのか。自身のフェティッシュな欲望を解放するためにチャンドラーが引用されているのではないか、とすら思えた。
思い出したのは、ジュリーこと沢田研二が3億円事件の犯人を演じたドラマ『悪魔のようなあいつ』(1975年)だ。超絶美青年だった頃のジュリーが演じる可門は3億円強奪犯の男娼で、その仕事をあっせんするバーの経営者・野々村(藤竜也)は可門に惚れているというとてつもない設定のドラマだった。スタッフ、キャスト全員が何らかの物質をキメて撮影に臨んでいるのではないかと思うほどドラッギーかつダウナーなドラマなのだが、どうもそれと同じようなスメルを嗅ぎ取ったりもした(あくまでもイメージです)。という目で見ると、綾野剛がジュリーに、浅野忠信が藤竜也に見えてくるから不思議だ。
もっとも、話が進むうちに、事件のカギを握る流行作家の美人妻・上井戸亜以子(小雪)に増沢が魅了されるようになるので、どうやらゲイではないらしいことは分かるのだが、1話の耽美的ともいえるトーンはそのまま踏襲されているので、なかなか当初のイメージから抜け出せずにいた。物語のテイストは、実業家・原田平蔵(柄本明)が増沢と対峙する辺りで変わり始める。新聞社と出版社を持ち、テレビ局をつくり、政界にも進出しようと目論む原田のキャラクター設定は、どこから見ても読売新聞とジャイアンツと日テレをつくり原発を推進した正力松太郎を連想させる。街頭テレビをスタートさせた原田は、増沢を前にこう持論を展開する。
「戦争でこの国にはどでかい穴が開いた。それをこれからこのテレビジョンが埋めるのだ。かつて信じられていた仁義、礼節、忠誠は戦争によって灰になった。大衆はそれで不安になっている。それは一種の癖だ。みんな血眼になるものを探しているが、その癖そのものを直せばいい。せんないことに思いわずらうことをやめ、ただテレビジョンを見る。プロレスに興奮し、音楽とともに踊り、落語に笑い、頭をただからっぽにするのだ。そこにテレビジョンという風が流れていく。悩みを忘れ、笑いと興奮に満たされる。ゴミが詰まるよりは、からっぽのほうがずっとマシなんだよ」
メディアによる大衆洗脳論を得意げに披露する原田に、増沢は噛みつく。「それが自分の使命だなんて正気ですか? 飢えた子どもに酒を与えるようなものですよ。それは人間にとってもこの国にとっても最も大事なものを奪い取るのと同じだ」と。
この辺りでようやくこのドラマがハードボイルドという入れ物を使って何を言おうとしているのかが見えてくる。戦争という国家による「右向け右」の時代が終結したと思ったら、今度はテレビジョンというあたらしいメディアを携えた巨大な権力が台頭して大衆を洗脳し始める。長く大きなものに巻かれ、「豊かさ」「明るい未来」という名の夢に希望を託し、頭をからっぽにして突き進もうとする国民たち。過去の教訓は活かされず、宗教的な熱狂は何度でも繰り返される。
最終話、街角に貼られた原田平蔵の選挙ポスターには「原子力」の文字が躍り、東京オリンピック開催決定に大衆が浮かれる。映像はそのまま一気に50年もの時を超え、カメラは2020年の東京オリンピック開催告知を映し出す。問題は解決されず、大衆は何も変わらない。戦後と今はそのまま地続きなのだ。
時代の波に翻弄され、押しつぶされる者もいれば、その波をかいくぐり、したたかにサヴァイヴする者もいる。翻弄され、押しつぶされる者の象徴が上井戸亜以子だろうか。ちなみに彼女が握りしめていた蘭の花言葉は「変わらぬ愛」だ。つまり、この物語は「誰かが誰かに対する思いを貫き通す」という意味で純愛の物語だともいえる。
増沢磐二という男は、そのいずれにも属さず、あくまでも「個」として得体の知れぬ薄気味悪い巨大な何かに抗おうとしている。その結果、時代からスポイルされたとしても、損得ではなく、個としての生き方を貫く。つまり、ハードボイルドとはそうした生き方のことであり、言ってみれば「やせ我慢の美学」なのだ。
というメッセージは、全5話を通して見るとヒシヒシと感じることはできるし、
これをテレビで言うのは勇気のいることだろう。日テレだったらこの脚本は通らなかったかもしれない。だが、どうしてもメッセージだけが浮いているというか、すんなり物語のなかに溶け込んでいないようにも思えるのだ。チャンドラー風の比喩を使えば、まるで鍋のなかでカレーのルーが溶けずに欠片が残っているかのようだ。←違う気がする。
ハゲタカ』『外事警察』を演出した堀切園健太郎による凝りまくった映像は見応え十分だし、ただそのフェティッシュな画面に浸っていればいいのかもしれないが、見ていて増沢磐二という男の人物像にあまりかっこよさが見出せなかったのは、包容力やユーモアが希薄だったせいだろうか。どんな客にも(招かれざる客にも)必ずコーヒー豆を挽いて出す増沢の流儀は、とても良かったが。
そして、『あまちゃん』の音楽で大人気となった大友良英も、プッチーニのオペラから映画『タクシードライバー』まで、さまざまなオマージュを散りばめた劇伴で今回もいい仕事をしていた。それにしても、戦後の闇市を舞台にした黒澤明の映画『酔いどれ天使』の挿入歌『ジャングル・ブギー』(作詞・黒澤明、作曲・服部良一、歌・笠置シヅ子)を使うのは誰のアイデアだったのだろう。
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2014 April-June vol.01
4月スタートのドラマについて、4月半ばには第1弾を書くはずが出遅れてしまったのは、何を採り上げるべきか今ひとつ決めかねていたからだ。『モテキ』『まほろ駅前番外地』の大根仁が脚本・演出を務めるテレ東深夜の『リバースエッジ 大川端探偵社』、前シリーズも面白く見ていた小泉今日子・中井貴一共演のドラマの続編『続・最後から二番目の恋』の2本はすぐに決まったのだが、あと1本が難しい。とりあえず、ほぼすべてのドラマの初回をチェックしたが、ドラマとしては面白く見たものの、ここでわざわざ掘り下げるべき何かが足りない気もしつつ、2話、3話と回を重ねていくうちにこんな時期になってしまった。
視聴率的には、朝ドラ『花子とアン』も絶好調だし、『半沢直樹』の池井戸潤原作、杏主演の『花咲舞が黙ってない』(日本テレビ・水曜22時)も好成績、『半沢』と前期朝ドラ『ごちそうそん』の余波はいまだに続いているようだ。あるいは、「脱のだめ化」に苦戦している感のあった上野樹里主演の『アリスの棘』(TBS・金曜22時)も、私怨をはらすために組織内部に入り込み復讐を目論む主人公という、これまた『半沢』路線と言うべき設定で高視聴率をマーク。
が、当初から宣言している通り、ここで採り上げるドラマは視聴率の高さや話題性というよりは、語るべき意味のある(と思われる)ドラマについて語ることを旨としている。「俳優の〇〇さんかっこいいー」「続きが気になるー」といった見方こそが純粋なドラマの楽しみ方なのかもしれないが、時には深読みをしたり、裏の意図を読み解いたり、ディティールを楽しむこともまたドラマ視聴の醍醐味でもあるのだから。
といったことをひっくるめて、今期は次のようなラインナップになった。結果的に、数字も評価もそれなりに高いドラマになったのは偶然ではなく、今のテレビドラマの充実ぶりを示す証拠だろう。
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公式HPより
『リバースエッジ 大川端探偵社』金曜0時12分~ 1~3話
むかし食べたワンタンの味が忘れられず、どうしてももう一度食べたいと願うヤクザの組長。昭和50年代ごろ、浅草界隈にあったという「鏡越しに隣の部屋のセックスが覗けるラブホテル」を探している変態夫婦。自分を指名するものの一切プレイはせず、ある日いきなりプロポーズをしてきたエリートサラリーマンの身辺調査をしてほしいと言うデリヘル嬢......。
東京・浅草、隅田川沿いに事務所を構える「大川端探偵社」には、普通の探偵社や興信所にはまず来ないであろう、一癖も二癖もある依頼者が日々おとずれ、奇妙な依頼ごとを持ちかける。
脚本・演出は深夜ドラマ界で異彩を放ちつつ、2011年の『モテキ』以降は映画にも進出している大根仁。(※大根監督にこちらでインタビューをしているので、ドラマのお供に、ぜひ)。
裏社会に精通しているらしい所長(石橋蓮司)は持ち前の情報網を駆使し、調査員の村木(オダギリジョー)はひたすら街を歩き聞き込みをする。受付嬢のメグミ(小泉麻耶)はセクシーな衣装でウロウロし......いや、依頼者にお茶も出すし、時には調査のサポートもする。
事務所のメンバーはこの3人のみ。「お互いのことは干渉しないことにしている」と所長が言うとおり、彼らにどのような背景があるのかは、ほぼ描かれない。かつて所長が裏社会に人脈を持つきっかけになった仕事に就いていたらしいことや、メグミが探偵社の仕事の他に夜は風俗嬢をしていることが分かるくらいだ。その代わり、依頼者の側の奇妙で、おかしくて、そして哀しい人生が色濃く起ち上がってくる。主役はむしろ依頼者側と言っても良い。
しかし、一通り調査が終了し、EGO-WRAPPIN'が奏でるメロウなエンディング曲が流れる頃には、依頼人の人生が、所長や村木、メグミという3人を通して切り取られ、一瞬だけあぶり出されていることに気づく。この3人なくして、この話は成立しなかったのだ、と。『探偵ナイトスクープ』でいえば、依頼の内容も重要だが、誰が調査するのかもまた重要なのだ。
第1話の「最後の晩餐」は、原作コミックではFile.06にあたるが、この話を初っ端にもってきたところに、大根監督の「このドラマはこういう話です」という意図を明確に感じる。
浅草に進出した関西の大規模なヤクザ組織に、もはや組長と組員2人きりになった地元の弱小組が殴り込みに行く。その最後の晩餐にどうしても忘れられない味のワンタンを食べたいと組長は願う。
ところが、そのワンタンは、高級食材を駆使したものでもなければ一流シェフの手によるものでもなく......おっと、ここから先はオチになるので避けるが、そのワンタンこそが『リバースエッジ』というドラマの象徴であり、深夜ドラマのありようだといえる。絢爛たる高級感で勝負するわけではないのに、人々の記憶に残るフックのある味わい。
さらに、巨大組織にたった2人で殴り込みをかける組長と組員の姿は、プライムタイムに対する深夜ドラマの立ち位置そのものではないか、などと深読みすらしたくなるのだ。
プライムタイムの枠組みから解き放たれたオダギリジョーは、大根監督が用意した世界を実に気持ち良さそうにたゆたっているように見える。所長を演じる石橋蓮司の含蓄ある物言いにもシビれるし、小泉麻耶ののびやかな肢体はドラマに躍動を与えている。各話のゲストも絶妙な配役がなされ、申し分ない。
深夜ドラマのひとつの到達点を示す快作だ。
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公式HPより
『続・最後から二番目の恋』木曜22時~ 1~3話
2012年1月期に連続ドラマが放送され、同年11月には単発のスペシャルドラマとして復活、この度めでたく続編の放送がスタート。この流れからしても、本作がいかに数字的にも内容的にも好調なのかがわかるだろう。連ドラの初回から欠かさず見ていた筆者も、続編決定の報を知り小躍りした。
設定としては「アラフィフの恋愛ドラマ」ではあるものの、多種多様な登場人物のすったもんだが繰り広げられるため、幅広い世代が楽しめるつくりになっている。脚本は、『ビーチボーイズ』や『ちゅらさん』、最近では『泣くな、はらちゃん』も記憶に新しい岡田惠和、演出は『風のガーデン』などの倉本總ドラマの演出や『それでも、生きてゆく』『最高の離婚』などで知られる宮本里江子(ご存じのひとも多いだろうが脚本家・山田太一の娘である)。おそらく、このドラマの発想の原型はビリー・クリスタルとメグ・ライアンが出演した映画『恋人たちの予感』(1989年、ロブ・ライナー監督)だと思うが、エピソードを重ねることで、もはや別の次元に辿り着いていると言えるだろう。
テレビドラマのプロデューサー千明(小泉今日子)は、仕事仕事で生きてきて、気づいたらアラフィフのおひとりさまになっていた。「老後」なんぞも頭をよぎり、憧れの鎌倉の古民家でひとり暮らしを始めることにする。隣家の長倉家には、鎌倉市観光課に勤務する堅物の長男の和平(中井貴一)、寂しそうな女性を見るとつい相手をしてしまうことから「天使」と呼ばれる次男の真平(坂口憲二)、コミュ障気味の真平の双子の姉・万里子(内田有紀)など、個性的な面々が暮らしている。アラフィフ同士の千明と和平は顔を合せれば口論ばかりだが、どこかシンパシィを感じ合う同志のようでもある。
というのが物語の入口なのだが、とにかく千明と和平の減らず口合戦が最高におかしい。中井貴一と小泉今日子だから成立するであろう小気味いい掛け合いのテンポ、アドリブではないかと思われるフレーズの応酬など、たかが「おとなのけんか」がエンターテインメントに昇華されていることに毎度感心させられる。
続編の第1話でも、初っ端からおよそ15分にわたって千明と和平の口論が描かれていた。
結婚が決まった真平の引き出物を決めるために本人の代理で千明と和平が式場を訪れる。名前入りの鎌倉彫はもらっても邪魔になるし実用的じゃないと文句を言う千明に、「思い出であり、縁を再び結びつけるもの」と主張する和平。裏に名前が掘ってあるからこそ、もらったひとは何年もしてからその結婚式のことをなつかしく思い出すのだ、と。あるいは、仕事に疲れたサラリーマンが引き出物を下げた集団とすれ違う。そうか、今日は日がよかったのか。大安かな。俺はこんなに疲れてるけど、今日幸せな日を迎えた人がいたんだ......。「そういうささやかなことが日本人のもっている情緒なんじゃないですかね」と鼻息を荒くする和平に、「向田邦子か!?」「昭和を懐かしむ、ちょっといい話のエッセイかっつってんですよ」とツッコむ千明。
このやりとりがおかしいのは、小泉今日子自身は向田邦子ファンを公言しており、かつて向田ドラマの演出で知られる久世光彦作品にも出演したことがあるからだ。こんなセリフをキョンキョンに言わせるとは、なんという皮肉!
続編では、千明は管理職となり、現場から離脱。和平は鎌倉市が世界遺産登録を逃した懲罰人事(?)で観光課と市長秘書を兼任させられるハメに。前シリーズでは45歳だった千明は48歳に、50歳だった和平は52歳となり、もはやふたり合せて100歳になってしまったわけだが、登場人物が時間の経過とともにきちんと歳を重ねていくところがこのドラマの良さでもある。もちろん、視聴者も彼らと同じように歳をとっているわけだが。
第1話では、千明のこんなモノローグもある。
「人が大人になるということは、それだけ多くの選択をしてきたということだ。何かを選ぶということは、その分、違う何かを失うということだ。大人になって何かを掴んだよろこびは、ここまでやったという思いと、ここまでしかやらなかったという思いを同時に知ることでもある。だからこそ、人は自分の選んだ小さな世界を守り続けるしかない。選択が間違っていると認めてしまったら、何も残らないから」
大人になることで、何を得て、何を失ったのか。アラフィフでなくとも、思わず自分の胸に問い掛けてしまう言葉ではなかろうか。このドラマでは、時おりこちらの人生を問うようなシリアスなモノローグが聞こえてきてハッとさせられる。
第2話で、かつて千明をポストイットに書いたメモ一枚でフッた男・涼太(加瀬亮)が千明の前に舞い戻ってくる。千明が務めるテレビ局の脚本コンテストで大賞をとったものの、その後はくすぶっている「書けない脚本家」だ。千明をサポートしたい一心で脚本家になる決意をした万里子ともども、彼らにまつわるエピソードは明確なドラマ論、ドラマ脚本論になっていて興味深い。ドラマが「ドラマづくり」を描くなると、ともすれば内輪受けというか楽屋落ち的になりがちなところ、そこは岡田惠和、物語の中に実に巧みに持論を落とし込んでいる。
第3話では、千明の隣の班が進めていた次クールの連ドラが主役の都合で飛び、その空白を千明たちが埋めることになる。放送日が迫っているため、企画、役者ゼロの段階で急遽つくらねばならず、急場の仕事ゆえ、管理職の千明がプロデューサーに復帰。何やら最近実際にあった件を連想させるエピソードでもあるが、事故処理みたい形でつくらなければならないドラマも実際にあるんだろうな。
千明が脚本に抜擢したのは、涼太と万里子だった。ふたりを前にして千明は言う。
「万里子は構成力があってストーリーを緻密に組み立てるのが得意。いろんな意見を臨機応変に採り入れてつくり上げる力がある。ただ、最初から現場に必要なホンを提供してきたから自分から発信したことがない。高山涼太は、ゼロから自分の書きたいものを書いて認められたひと。でも、それだけ。最初は書きたいものがいっぱいあったけど、これは嫌だ、こういうのは好きじゃない、ありがちだ、くだらない、大衆に迎合し過ぎだと言って、やりたくないものが増えて、何が書きたいのか分からなくなってしまった。ドラマは、万里子的なものと高山涼太的なものの両方がないとつまらない」
千明が、自分から逃げて行った涼太をふたたび受け入れ、仕事に抜擢したのは、過去の痛い記憶を新しい思い出で塗り替えようという意志の表れでもあった。ツラい、痛い過去の記憶を上書きすることで、それを克服しようとしているのだ。
ところで、高山涼太がコンテストで大賞をとった脚本のタイトルが『絶望の国の恋人たち』で、その後自分で何が書きたいのか分からなくなったという設定は某脚本家を連想させもするのだが、考え過ぎだろうか。
しかし、本筋とは関係がない部分でのくすぐりもまた、このドラマの魅力だ。たとえば、第3話では、和平がなかなか昼飯にありつけない様子が繰り返し描かれていたのだが、あれはサラリーマンの昼飯を取材する番組『サラメシ』(NHK)のナレーターを中井貴一が務めている前提があってのことだろう。こうした遊びを入れる余裕があるのも、ドラマづくりがうまくいっている証かもしれない。
クレイジーケン バンドの横山剣が作詞・作曲し、小泉今日子と中井貴一がデュエットする『T字路』をバックに出演者がミュージカル風に踊るエンドタイトルも実に楽しい。
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公式HPより
『BORDER ボーダー』 木曜21時~ 1~4話
今期もあいかわらず刑事物、事件物のドラマは多く、若干食傷気味な視聴者も多いかもしれないが、丁寧に見ていけば、そうしたカテゴリーの中でもちょっと変わったことをやっていたり、「お!?」と思わず前のめりになるドラマもあるからあなどれない。今期でいえば本作がまさにそう。テレ朝の木曜21時という鉄板の『相棒』枠で「あたらしいこと」をやろうとしている感がビシビシと伝わってくる。
原案・脚本は作家の金城一紀。直木賞受賞作『GO』は2000年に窪塚洋介主演で映画化され、当時の映画賞を総なめにし、ここ最近ではヒットシリーズになった『SP 警視庁警備部警護課第四係』の原案・脚本を手掛けたことでもおなじみだ。
メイン演出は、ドラマ『相棒』シリーズや映画『探偵はBARにいる』などの橋本一が手掛けている。第1話から、予定調和的ではない練られたセリフとモノローグ、映像の緊張感でグイグイと物語を引っ張っていく。
ある事件で犯人に銃で撃たれたものの、奇跡的に命をとりとめた刑事・石川安吾(小栗旬)は、これをきっかけに死者との対話ができるという不思議な能力が備わってしまう。果たして本当に石川には死者の声が聞こえているのか、はたまた頭に撃ち込まれたままの弾丸が脳の何かを刺激して幻覚を見せているだけなのか、真相はわからない。
1話では、殺された一家と対話することで速やかな犯人逮捕に成功した石川だったが、2話では石川らに踏み込まれた監禁殺人事件の犯人が目の前で自殺、石川の前にだけ死んだ犯人が姿を見せ、まだ殺していない被害者がいると挑発してくるというトリッキーな展開となる。
死者と対話ができるということは、殺された被害者に「あなたを殺したのは誰ですか」と直接聞くことができるということに他ならない。だったら話は早いでしょ、すぐに犯人を捕まればいいんだし......と考えるのは性急過ぎる。もちろん確固たる証拠がなければ逮捕には踏み切れないし、「証拠はないけど俺には犯人がわかってるんです」と周囲に訴えたところで頭がいかれたと思われるだけだ。ここから、石川のジレンマがはじまる。
死者と対話ができるようになって以来、最短距離で犯人を逮捕したい一心の石川の捜査は、怪しげな情報屋やハッカーなど、裏社会に生きる者たちに接近するヤバいものになっていく。死の恐怖を目の当たりにし、そこから再び生還したものの、頭に弾丸を抱え、いつ死ぬかもしれない恐怖と隣り合わせの石川にとって、人の命を奪う者は何があっても許さないという純粋な正義が芽生える一方、その手法はダークサイドに足を突っ込む違法なものになっていくという矛盾が面白い。生と死のボーダーをさまよった男が、善と悪のボーダーをもさまようことになるのだ。
ともすれば、警察の活躍をヒロイックに描こうとするあまり、段取り的に次から次へと人が殺されていく刑事ドラマがはびこる中、本作が異色なのは、殺人という絶対悪を死者の無念を通して掘り下げようとしている点だろう。「人が人を殺すというのはどういうことなのか」「人は死んだらどうなるのか」という大前提を、一見トリッキーな設定の物語に落とし込むことに成功している。
「個人的にはあまり親切に何でも説明し過ぎるのはどうかと思うんです。観終わった後に異物感が残るというか、ドラマを見てベッドで眠りに落ちるまでストーリーに描かれなかった部分をずっと想像してしまうような、余韻のあるラストを残しておきたい」と金城一紀は番組公式サイト内の「BORDERの作り方」で述べている。単に「はい殺人事件です、はい警察が活躍します、犯人捕まりました、めでたしめでたし」という勧善懲悪とは一線を画す、まさにボーダーを行き来するスリリングなドラマだといえる。
2話から登場する石川が捜査の協力を仰ぐ2人組のハッカー、サイモン&ガーファンクルのキャラクターもユニークだ。演じるのは浜野謙太と野間口徹(お互いをサイ君、ガー君と呼び合う)。サイモン&ガーファンクルのアルバム『ブックエンド』でお馴染みの黒のタートルネックを着用し、事務所にはジャケットを模した2人の写真が飾られていたりする。
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金城いわく、「ハッカーっていうと、美少年か太っているか、みたいな定番があるじゃないですか。それはやめようと」(公式サイトより)ということだが、確かに銀縁メガネのいかにもオタク然としたハッカーというステレオタイプを覆すキャラクター設計だ。こういう細かいディティールが予定調和的ではないところも好感が持てる。
他にも特別検死官・比嘉ミカ(波瑠)は沖縄出身で祖母はユタ(巫女)という裏設定などもあるらしい。だから、比嘉だけが石川の死者と対話できる力に唯一気づいていて、しかもどこか羨ましくも思っているのだという。こうした物語上では直接描かれない背景がしっかりあるからこそ、各々のキャラクターに厚みが出るのだろう。
「また刑事物か」と言って見過ごすには実に惜しいドラマであることは間違いがない。
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2014 January-March vol.05
2014年1月スタートのドラマが3月で軒並み最終回を迎えた。本稿は、最終話の結末にも触れているので、各ドラマを録画したまま見ていないひとや、今後DVDなどで視聴するつもりのひとは注意されたし。ただし、結末が分かったからといって面白さが半減するわけではないと思う。筆者はこの原稿を書くにあたって録画したものを各話2、3回繰り返して見ているが、初回よりも筋を知っている2回目以降のほうが、より深く内容を理解することができた(大抵の場合、初回は展開を追うことに終始する)。ここで採り上げたドラマは、いずれもリピート視聴に十分耐え得る良作揃いである。
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『明日、ママがいない』8~9話  日本テレビ 水曜22:00~
このドラマでは、登場人物たちの本音や本心はなかなか表面には表れない。象徴的なのが、児童養護施設「コガモの家」の子どもたちが里親候補の家に行く、いわゆる「お試し」のくだりだろう。子どもは理想的な子どもを演じようとし、里親になるつもりの大人たちもまた、理想的な親を演じようとする。いわば、お互いが共同でフィクションをつくり上げようとするわけだが、そこに果たして一筋の真実は生まれるのかどうか、というのが本作の重要なテーマでもあった。
8話で、里親候補の川島(松重豊)と美鈴(大塚寧々)のもとへお試しに行ったドンキ(鈴木梨央)は、美鈴に向かって「ねえ、私を産んだとき、痛かった?」と聞く。もちろん、美鈴はドンキを産んではいないから痛いはずはないのだが、話を合せて、いかにも本当の親が幸せな思い出を語るようにふるまう。つまり、両者とも芝居をしているのだが、こうしたやりとりは、逆にドンキを不安にさせる。「幸せすぎて、いつかそれがまた壊れるんじゃないか」と。
コガモの家では、ピアノの腕前が天才的なピア美(桜田ひより)が、ピアノコンクールの全国大会への出場を控えていた。「ピアノの腕前とこの美貌で美人ピアニストとしてデビューして...」と夢想するピア美だが、本音はそんなことより、自分を見捨てた父親とたとえ貧乏でもいいから一緒に暮らしたいと願っている。その思いがコンクール当日、ステージの上で爆発、こっそり会場に来ていた父親の胸を激しく揺さぶることになる。
そうこうするうちに、里親が決まりかけたドンキのもとに実の母親がふらりとやってきて連れて帰ると言い出す。話を聞きつけ、里親候補の川島夫妻も慌てて施設を訪れ、実の親とドンキの手を引っ張り合う格好になるが、痛がるドンキの声を聞いて里親候補の美鈴は思わず手を離す。ようするに、『大岡越前』で有名な「大岡裁き」の「子争い」(『本当の親なら痛がる子の手を離すものだ』)が展開するわけだが、そこで魔王こと施設長(三上博史)はこう言い放つ。
「産んだのが親ではありません。いっぱいの愛情で育て上げるのが親なんです。事実の親と、真実の親は違うんです。」 そして、突然地べたに頭をこすりつけ、「私はコウノトリです。」と言いながら、「時々間違えて赤ちゃんを別の人の所へ届けてしまうんです。そこであなたにもう一度、本当のママを選び直していただきたいんです。」と、ドンキに向かってほんとうの親はどちらなのか、選択をうながす。
実の母親の手を振り切り、里親のもとへ駆け寄るドンキに母親は激昂し、「なんて子なの!誰が産んであけだと思ってるのよ。恩知らずにもほどかあるわ!」となじるが、里親はその罵声がドンキに聞こえないようにそっと耳をふさぐ。その様子を見て、「勝手にすればいいわ。どうせ私の足手まといになるだけなんだから」と捨て台詞を吐いて母親は去っていく。
昨年ヒットした『そして父になる』という映画もあったが、ひとは最初から親として存在するわけではなく、時間をかけて、愛情を注いでようやく「親になっていく」のだ。血がつながっていない里親も、そこに愛情があれば「親になる」ことはできる。
本来「虚」であるはずの里親の愛情が実の親に勝利し、「虚構が現実を上書きし、嘘が真になる瞬間」を捉えた本作のピークとも言える圧巻のシーンだった。
こうして、ピア美は本来の名前である直美へ、ドンキは真希へ、ボンビは優衣子へと戻っていく。
残されたポスト(芦田愛菜)は、学校の先生・朝倉の家に通い、ポストのことを事故で亡くした娘・愛だと思い込む朝倉の妻・瞳(安達祐実)の前で娘になりきろうとしていた。現在の天才子役が元・天才子役の前で巧みな芝居を打つという何重にもアイロニカルなシーンだが、果たしてここでも虚構が現実を上書きし、嘘が真になるのか、と思いきや、かりそめの母子の関係は魔王の声で一蹴されてしまう。
結局、生まれてすぐに赤ちゃんポストに預けられたポストを事実上親代わりでずっと育ててきた魔王がほんとうの父親になる決意をするのだが、魔王がポストに言う「一度しか言わないからよく聞け。さびしい。おまえがいなくなると、俺がさびしいんんだ。」の台詞は完全に愛の告白めいていた。
この台詞を口にするのはオレンジ色に染まる夕日の中なのだが、これにはちゃんと理由がある。魔王が、別れた妻・香織(鈴木砂羽)と初めて会ったとき、結婚式帰りの香織は夕日のようなオレンジ色のドレスを着ていて、そのとき魔王は「夕日に染める」と「見初める」を掛けて口説いたらしい。8話で語られたこの何気ないエピソードがまさか最終話のクライマックスで効いてくるとは思わなかった。つまり、魔王はふたたび「夕日に染める」と「(自分の娘として)見初める」を掛けてポストに告白したのだ。
色彩に着目すると、他にも、瞳の娘・愛が事故に遭って亡くなった踏切のランプの赤、線路に転がる靴の赤、ポストが愛用していた髪留めの赤との対比など、実は効果的な設計がなされていたことが分かる。
そして、ラストにポストの本当の名前がはじめて視聴者に知らされるところで物語は終わる。本作は、親に捨てられた子どもたちが、親から付けられた名前を自らの意志で捨てることによって強く生きていこうとする態度を表明し、もう一度、自分たちの意志によって本当の名前を取り戻すまでの物語だ。
当初、各方面から問題視されたポストやドンキといったあだ名が物語上きわめて重要な意味をもっていたため、制作側もここだけは何があっても変更したくなかったのだろう。
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『失恋ショコラティエ』9~11話 フジテレビ 月曜21:00~
旦那と揉めた人妻・紗絵子(石原さとみ)が仕事場の2階に転がり込んでくるという怒涛の展開によって、ショコラティエ・爽太(松本潤)の片思いは突如として両想いに。ベッドをともにしながら、相変わらず「バックバック食べられて気分が良くなるチョコレート、つくってくださいな。」と甘ったるい声でに爽太におねだりする紗絵子は自身の欲望に忠実な魔物だ。もはや爽太も紗絵子に対して無駄な駆け引きをしたり、わざと冷たいそぶりをする必要もない。あれだけ手に入れたかったものが、やっと手に入ったのだ。
しかし、紗絵子がよろこぶショコラをイメージし、それに追い付こうと躍起になってきた爽太にとって、遠くにあったはずのあこがれの存在に手が届いてしまったことによって、不思議なことにショコラづくりのインスピレーションが湧かなくなってしまうという皮肉な事態が起こる。手に入ったと思ったが、結局何もわからない。どこまでいっても、紗絵子という女を知り尽くすことなどできないのだ。
「正も誤もない。これが恋だ。」と突き進もうとする爽太だが、依然としてショコラのインスピレーションは湧かず、紗絵子との未来も思い描けなくなった矢先、紗絵子に夫との間に子どもができたことを知らされる。ふたりにとって、帰るべき場所へ帰るリミットが迫っていたのだ。
「爽太君が好きだったのは本当の私じゃなくて、ただの幻想だったんだよね。だから、私たち帰らなきゃ。いつまでも幻想の中では生きられないよ。」
紗絵子にそう言われた爽太は、ようやく気づく。「あのとき、俺は紗絵子さんを手に入れたんじゃない。失ったんだ。ショコラがつくれなくなったのは、あのときからだったんだ。」 つまり、いま手のなかにいる紗絵子ではなく、幻想のなかの紗絵子こそが、爽太のインスピレーションの源だったのだ。爽太は、未知のショコラをつくるために、幻想を愛しつづけていたのである。
爽太と紗絵子が現実の時間へと戻ろうとするなか、爽太に片思いする同僚・薫子(水川あさみ)と紗絵子の間に奇妙な友情が芽生えはじめる辺りも面白い。
「結局、ずうずうしい女が勝つんだって。」と悪態をつきながら紗絵子をDisっていた薫子だったが、男からのメールの返信について紗絵子に相談した際、的確なアドバイスに思わずうなってしまう。
「お菓子だって、味がいいだけで十分なのに、それでも売るためには形や色をかわいくしたり、愛される努力が必要なんだなって思うし、意識的にでも無意識的にでも、人の気を惹く努力をしている人が好かれてるんだと思うんですよね。」と実体験に基づく恋愛論を展開する紗絵子に、「しごくまっとうだわ」と内心うなずく薫子。「少なくともこの女は、私よりは確実に前や上を向いている人だわ。」と。
石原さとみの説得力のあるビジュアルと相まって、紗絵子が単なるヒールではなく、同性から「好きじゃないけど分かる」あるいは「私もこんな風に振る舞えたら」と思わせるキャラクターとして描かれている点は、本作の大きな特徴だろう。ツッコミ要員として視聴者目線に最も近い立ち位置の薫子、モデルという華やかな仕事をしているにも関わらず好きな男の本命になれない哀しい女・えれな(水原希子)など、女性は誰かしらに自分を投影しながら見ることができたのではないだろうか。
今度こそ紗絵子にちゃんと失恋した爽太は、幻想と決別し、新しい自分を見つけるために旅立つ。勢いで爽太に思いを伝えてしまった薫子は、「初めてちょっとだけ自分を好きになれた気がする」と清々しい顔をしている。爽太との関係にケリをつけたえれなは、まっすぐ前を見てランウェイを颯爽と闊歩する。それぞれにとって、現実と向き合うための第二幕が開いたのである。
恋愛とクリエイションの親密な関係に迫った良作だった。
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『なぞの転校生』9~12話 テレビ東京 金曜24:12~
私たちのいるこの世界だけが、世界のすべてではない。これは、フィクション、とりわけSF(サイエンスフィクション)と呼ばれるジャンルにおける最も重要なテーゼだ。
それを現実逃避と言うのは簡単だが、のっぴきならない現実を生きるひとびとにとって、逃避も時には必要なのである。かつて中学生の殺伐としたいじめを題材にした映画『リリイ・シュシュのすべて』を撮った岩井俊二がこのドラマで描こうとしたのは、「君のいるその小さな世界だけが世界のすべてではない。世界はもっと複雑で、多様で、無限に広がり、つながっている」というメッセージだろう。
そこに「高度に進んだ文明の滅亡」「放射能による被ばく」「行き場をなくし次元をさまよう民」という原作小説&オリジナルドラマのモチーフを引用し、3.11以降の物語として読み替えようとした点が、宮城県出身でNHK東日本大震災復興プロジェクトソング『花は咲く』の作詞も手掛けた岩井ならではといえる。
最終話、SF研の面々がつくる自主映画『なぞの転校生』の撮影で、D‐8世界からやってきた姫のアスカ(杉咲花)は、広一(中村蒼)に向かってシナリオにはないこんな台詞をしゃべる。
「文明とは、人類とは、思っているよりも、もろいものなのだ。この世界の人類も、いつかはこの星から消えることもあろう。だからこそ、大切にしてほしい。この星を、仲間を、友だちを。」
ふつうのドラマや映画では青臭く思えることばがじんわりと胸に響くのは、劇中劇の台詞というかたちを借りて登場人物が「ほんとうの気持ち」を語っているからだろう。
それは、そのシーンの前に置かれた転校生・典夫(本郷奏多)とみどり(桜井美南)のやりとりにも表れる。典夫は、「日曜日に君から花をもらったときから、君のことが忘れられなかったよ。」と告白するも、「ああ、だめだ。結局、ぼくは君のことばを聞いて、こういう風に答えるようにしかできていないのです。」と嘆く。
「モノリオ」と呼ばれる感情をもたないヒューマノイドである典夫が、相手ののことばに反応するかたちでしかコミュニケーションできないことを告げると、みどりは「私だって、あなたにそんな風に言われたら、こんな気持ちになるようにしかできてません。」と、なぞの転校生への淡い恋心を吐露するシーンは、ぎこちなさの残る桜井美南(本ドラマがデビュー作となる)の佇まいと相まって、大林宣彦版『時をかける少女』を彷彿とさせるリリシズムに満ちていた。
「異なる世界で営まれる、もうひとつの可能性」について象徴的に描写されるのが「アイデンティカ」だ。それは、別の次元にある一定の確率で存在するとされる「自分の分身」。D‐8世界からやってきた王家に仕えるアゼガミ(中野裕太)とスズシロ(佐藤乃莉)のアイデンティカがD‐12世界では仲のいい夫婦だったことを彼らが知るシーンはグッとくる。ありえたかもしれない、もうひとつの可能性。
広一たちのいるD‐12世界には「ショパンがいない」ことから、我々の住むこの世界ではないことが早い段階で示されていたわけだが、かといって王妃やアスカの住んでいた滅亡の道を辿ったD‐8世界もこの世界ではない、となると、一体このドラマを見ている我々の世界はどこにあるのか、と思いながら迎えた最終話で、ようやくそのなぞに対する答えが用意される。
「我々の知るこの世界」はD‐15世界と呼ばれ、広一とみどりのアイデンティカはかつてそこで異次元人の典夫と出会っている。やがて広一のアイデンティカは異次元調査団の隊長となる。おそらく、D‐15世界で広一とみどりのアイデンティカが典夫と出会ったのは1975年。つまり、眉村卓の小説『なぞの転校生』がNHK少年ドラマシリーズで映像化された年に違いない。
訳が分からないって? まあ、早い話が、自分たちの分身であるアイデンティカが住む異次元の世界の側から物語を描いておいて、そこを最後にぐるっと反転させるという「めくるめく感」をやりたかったのだと想像する。これもまた、「いまいる世界が世界のすべてではない」というメッセージの表れだろう。
そして、D‐15世界では、広一とみどりのアイデンティカは夫婦となり、みどりと瓜二つの娘を授かっていることもわかる。D‐12世界のみどりとD‐15世界の広一とみどりの娘・みゆきが握手をした瞬間、世界が一直線につながる。
それは、39年の時を超え、伝説のドラマのリメイクがこれ以上ない形で見事に達成されたことを示す瞬間でもあった。
それにしても、11話の王妃が崩御するシーンで、それまで何度も流してきたラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』を流さないどころか、テーマ曲以外、いっさい劇伴を流さない演出にも震えた。そして、岩井俊二、桑原まこ、椎名琴音(SF研のメガネのコ。要注目!)からなるユニット・ヘクとパスカルの『風が吹いてる』も、心の琴線をぶるぶる振るわせた。
というわけで、2014年の1月から3月末までのドラマを3カ月にわたって追ってきたわけだが、世間的には『あまちゃん』『半沢直樹』が当たった2013年と比較して「ドラマ不調」などといわれたものの、当然ながら、きちんと見ていけば見応えのあるものも少なくなかった。視聴率的にはNHKの朝ドラ『ごちそうさん』やテレ朝『相棒』枠の『緊急取調室』などが良かったのだが、このコーナーでは数字が高い=いいドラマとは考えない。もちろん、数字のいいドラマが悪いというわけでもない(実際、『ごちそうさん』は全話面白く見ていた)。ようするに、数字の心配など局のひとたちや広告代理店に任せておけばいいのだ。4月スタートのドラマもなかなか粒ぞろいのようなので、レコーダーのHDをパンパンにして見まくる所存であります。このコーナーも、引き続きごひいきに。
では、いいドラマを。
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2014 January-March vol.04
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『失恋ショコラティエ』6~8話 フジテレビ 月曜21:00~
人妻になった紗絵子(石原さとみ)にずるずると思いを寄せる爽太(松本潤)の妄想恋愛は、セフレ・えれな(水原希子)の行動によって別の文脈へと移行する。えれなは、片思いの相手・倉科に告白し、あっけなくフラれたことで相手への思いを断ち切ろうとする。片思い中は「実在しないファンタジーの世界のひと」のように思えた倉科が、告白してはっきりフラれたことではじめて現実に存在するひとに思えたと、えれなは言う。
その姿を見た爽太も、ずっと自分のなかの「妖精さん」だった紗絵子に「ちゃんと告白して、ちゃんとフラれるんだ」と誓う。バレンタインデーにこれまでの紗絵子への思いのすべてを注ぎ込んだチョコをつくり、真正面から告白して玉砕し、吹っ切ろうと決意した爽太の表情はいっそ清々しい。爽太にとって紗絵子はインスピレーションの源であり、クリエイションの源泉なのだ。バレンタイン用のチョコをつくりながら爽太はこうつぶやく。
「まるでパックリ開いた傷口からひらめきが溢れ出すみたいだ。滲みないわけじゃない。でも、それよりうれしい。何かを生み出せる力が沸くことがうれしい。」
妖精さんに告白してちゃんとフラれることで、紗絵子という現実に存在するひととして捉えて脳内から追いやり、次へ行こうとする爽太のもくろみは、しかし幸か不幸か叶わない。なぜなら、冷酷で、ときに暴力的になる夫との関係に嫌気がさした紗絵子は、爽太のつくったチョコをうっとりと口にしながら爽太への思いを募らせていたのだから。
ファンタジーと決別しようと思ったら、そのファンタジーがあっさりと現実のものになってしまう戸惑い。もちろん、そのままで済むはずもなく...。
と、筋を追いながら書いていると、「恋愛ってたいへんだな」とつくづく思う。恋愛とは、食べ物や飲み物のようになくても困るものではないが、あることで人生に彩りや華やぎがもたらされるという意味では、まさにこのドラマで扱われるスイーツのような嗜好品に近い。そして、一度その甘美なる世界に触れた者は、中毒になる可能性がある。
紗絵子のような女性は、同性からすれば「ブリッコ」「つくってる」などと言われ忌み嫌われる存在の典型のはずなのだが、本ドラマにおける石原さとみの圧倒的な女子度の高さも手伝ってか、同性の視聴者からも支持されている点は興味深い。爽太に片思いしている地味系女子(酒癖悪し)の薫子(水川あさみ)には自分に近い親近感を抱きつつも、注視すべきなのは紗絵子だ、ということか。
女性が女性アイドルのディープなファンになることもごく当たり前の時代、男心を自在に転がす紗絵子を否定するのではなく、むしろその技に学ぼうという姿勢の表れなのかもしれない。それは昨今の若い女性の貧困問題などとも実は密接な関係があり...などと言い出すと話がややこしくなりそうなのでやめておく。
それにしても、嵐ファンの小学生も見ている時間帯でこれだけ「セフレ」というワードが頻出するのもすごい。「ママ、セフレって何?」「間男って?」と聞かれたら親はどうリアクションするんだろうとも思うが、心配しなくてもイマドキの小学生はとっくに知ってるか。
爽太のやっていることは要するに不倫なのだが、松潤で、月9で、こういうドラマをやってしまうと、もうぬるい恋愛ドラマはつくれなくなるだろう。という意味では、間違いなく『モテキ』以降の恋愛ドラマのひとつの到達点といえる。
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『なぞの転校生』6~8話 テレビ東京 金曜24:12~
4話以降、不良グループの鎌仲(葉山奨之)らが登場し、突如として不良マンガテイストを帯びたが、なぞの転校生・山沢にアステロイドなる特殊なバイオアプリであっけなくコントロールされて骨抜きになり、そうこうするうちに山沢の住むD-8世界から容体の悪化した王妃一行が時空を超えてやって来て...と、見ていないひとには何のことやらさっぱり分からないであろう怒涛の展開が繰り広げられている。テレビドラマの枠でできるSFの限界に挑戦したともいえる、実に見応えのある野心作だ。
我々の良く知るこの世界のすぐ横に「平行世界」なるものがあり、良く似てはいるが少しだけ違う世界が無数に存在しているというパラレルワールド物の映像化は案外ハードルが高く、下手をするとチープなものになりがちなのだが、本作はカメラワークやライティング、節度あるCGの使い方によって独特の世界観の表出に成功している。ようするに、全編ゾクゾクする「SF的リアリティ」に溢れているのだ。そして、「日常とは何か」について考えさせられる。空が、夕日が、花が、教室が、そこにあることの意味について。
D-8世界からやってきた姫のアスカ(クックドゥのCMで豪快に中華料理を頬張っていた杉崎花)のいかにも超然とした佇まいも「別の世界から来た感」に満ちているし、アイデンティカだのキャトルミューティレーションだのといったよく分からないがソレっぽい用語が飛び交う様もワクワクする。
岩井俊二、長澤雅彦という映画界からの使者によって、従来のテレビドラマでは味わったことのない肌触りを体感させられる。まさにこのドラマ自体が、ドラマ界にやってきた「なぞの転校生」だ。
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『明日、ママがいない』5~7話  日本テレビ 水曜22:00~
『国家なる幻影』とは石原慎太郎の著書のタイトルだが、このドラマを見ていると「家族なる幻影」というフレーズが脳裏をよぎる。親に捨てられた子どもは、どこかにいるかもしれない理想的な親の幻影を追い求め、何らかの事情で子を失った、あるいは子に縁のなかった大人は理想的な子どもの幻影を探しつづける。
放送中止を求める声を受けて、元々の脚本のどこをどう変えたのかは分からないが、たとえば以下のようなくだりは、世間なるものに対する辛辣なアンチテーゼとして逆に付け加えられたのではないかと想像できる。
6話、児童養護施設「コガモの家」の職員・ロッカー(三浦翔平)が暴力沙汰を起こし、施設の子どもたちから拒絶されそうになったとき、施設長(三上博史)は子どもたちを前にこう説く。
「大人の中には、価値観が固定し、自分に受け入れられないものはすべて否定し、自分が正しいと声を荒げて攻撃してくる者もいる。それは胸にクッションを持たないからだ。 そんな大人になったらおしまいだぞ。話し合いすらできないモンスターになる。だが、おまえたちは子どもだ。まだ間に合うんだ。」「つまらん偽善者になるな。」
話し合いすらできないモンスター。「子どもたちがかわいそう」という一見まっとうな意見の裏にある上から目線と差別。そうした世間なるものの見えない暴力に真っ向から立ち向かう反逆性がこのドラマには当初からあったが、それがクレームを受けてより強いものになっているとすれば、むしろそれはドラマの勝ちだろう。キービジュアルでThe Whoをモチーフにしたり(vol.1参照)、芦田愛菜演じるポストがモッズコート風のアウターを着ているのはダテじゃないのだ。
7話では、ついに伝説的ドラマ『家なき子』(脚本は本ドラマ脚本監修の野島伸司)で主演を務めた安達裕実が、子どもを事故で失ったもののいまだに死を受け入れられず精神に変調を来している母親役で登場。かつての名子役と当代の名子役・芦田愛菜の共演が実現した。
野島伸司といえば、初のマンガ原作である『NOBELU-演-』(『少年サンデー』連載中。作画・吉田譲)では、「生きていくために演じる」子役の世界を過激に描いている。当初、『明日ママ』でも児童養護施設を子役の世界のメタファーとして描いているフシがあったが、回が進むごとにその要素は影を潜めていった。ようするに、メタファーなんていうものが通用しないのが世間なのかもしれない。
子どもたちがポスト(赤ちゃんポストに預けられていたから)、ドンキ(母親が恋人を鈍器で殴ったから)、ボンビ(家が貧乏だから)といったあだ名で呼び合うことが問題視されたが、複数の人物が入り乱れる群像劇で視聴者に名前と顔をすみやかに覚えさせるうえで、この手法はとても効果的だった。もしこれがマナミだのユカだのといった名前だったら誰が誰やらという感じだったかもしれない。
たとえば、『ロストデイズ』(フジテレビ 土曜23:10~)では7人の同世代の若者たちの名前と顔が一致するまで時間がかかったことを思えば、あだ名をつけたのは正解だったし、それによって各キャラクター像も明確化された。ピアノがうまいからピア美、とかね。
そういえば、何人もの養子をとっていることで有名なアンジェリーナ・ジョリーとブラッド・ピット夫妻の養子になることを夢見ていたボンビ(渡邊このみ)が「ジョリピ~」と腰をくねらせながら叫ぶのは、『時間ですよ』で樹木希林が沢田研二のポスターの前で「ジュリ~」と叫びながら腰をくねらせる有名なポーズのパロディだと思うのだが、ネタが古すぎて「あのジョリピ~のくだり意味不明」などといわれているらしい。さすがに昭和すぎたか。
では、いいドラマを。
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2014 January-March vol.03
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『なぞの転校生』3~5話 テレビ東京 金曜24:12~
ドラマでも映画でも、どこにでもある風景や何気ない人々の生活が描かれるとき、それを観る者は、「ああ、自分たちの良く知っている日常が描かれている」と思う。いわゆる「淡々とした日常の描写」だと捉えるわけだが、本作も、「ごくありふれた日常」の描写が積み重ねられ、そこにある日突然、別の次元から不思議な転校生がやってくる話として観ていたら、3話で衝撃の事実が明らかに。主人公の岩田広一(中村蒼)らのいる世界のほうが、どうやら別の次元だったらしいのだ。
原作の同名小説では、高度に進んだ文明をもつ別の次元に住む民が、核戦争による放射能汚染でその世界を追われ、「次元ジプシー」として時空をさまよい、並行世界として存在する現代の日本に「避難」してくる、という設定になっている。当然、このドラマでも広一らがいる世界を「我々の知っているこの世界」だと思い込んで観ていたのだが、3話のラスト、音楽室のピアノでショパンの『雨だれ』をつま弾く転校生・山沢典夫(本郷奏多)に向かって、音楽教師がこう言い放つ。「何て曲?」 問われた典夫は「この曲、知らないんですか?」と驚くが、「そうか、ここにはショパンの『雨だれ』がないのか」とつぶやく。
音楽教師が、あまりにも有名なショパンの『雨だれ』を知らないはずがない。我々のよく知っている日常だと思っていた世界が、実は微妙にズレた異世界だったことが明らかになるこのシーンには鳥肌が立った。モーツァルトは存在しても、ショパンはいない世界。しかも、ドラマの第1話から『雨だれ』は劇中で繰り返し流れていて、「いかにも岩井俊二な世界」などと呑気に聴いていたのだが、これがとんだミスリードだったわけだ。
5話の時点ではまだ明らかにされてはいないものの、転校生の典夫たちのいた世界のほうが、実は我々のいるこの世界の未来の姿という設定なのかもしれない。高度に進んだ文明をもち、その結果、核による最終戦争が起こり、放射能汚染されてその世界に住むことができなくなった人々こそが、我々の未来像なのではないか。
原作を反転させたこのアイデアは見事だし、3.11以降の世界の行く末に警鐘を鳴らすメッセージが込められていることはどうやら間違いがない。
単に「少年ドラマシリーズ懐かしいよなあ」でも「岩井俊二観たよなあ。『打ち上げ花火』とか」というノスタルジー目線でもなく、70年代の伝説のドラマを2014年の映像作品としてアップデートする意味がきちんとそこにある、ということが重要だろう。
今期ベストの予感十分だ。
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公式HPより
『失恋ショコラティエ』3~5話 フジテレビ 月曜21:00~
『ハチミツとクローバー』が打ち出した「片思いも立派な恋である」というテーゼに『モテキ』以降の恋愛のリアリティをプラスしたのが本作だといえる。
昨今の「彼氏・彼女ナシの20代が増えている」なんていうマーケティングデータを真に受けるべきではないのは、特定の彼氏・彼女がいないだけで実はセフレはしっかりいたりするという現実があるからだ。セフレがいても、付き合っているひとがいない場合はアンケートで「彼氏・彼女なし」と書くのだから。という意味では、片思い中である、あるいは彼氏・彼女はいないがセフレはいる、という数を足せば、いまの時代もかなりの人数が恋愛しているといえる。
『失恋ショコラティエ』は、そんな時代の恋愛ドラマだ。主人公の爽太(松本潤)は、人妻となった紗江子(石原さとみ)にいまでも片思いをしている。実は紗絵子も冷えた結婚生活に満たされずに爽太への思いを募らせているのだが、その気持ちを爽太は知らない。どうせまたいつものようにもてあそばれているだけなんだ。だから俺は俺でセフレとよろしくやってやるんだと悪ぶって、モデルのえれな(水原希子)の元へ通う爽太なのだが、爽太の店で働く薫子(水川あさみ)はそんな爽太に絶賛片思い中。ほぼすべての登場人物の思いはすれ違うが、何かの拍子にわずかに触れ合う瞬間がある。その瞬間のことを恋とか愛と呼んでもいいんじゃないか。というのがこのドラマの世界観だ。
女子力全開のゆるふわ系・紗絵子、爽太のセフレだが他の男に片思い中のえれな、爽太の成長を見守りながらも恋心を抑え切れない薫子。おそらく一般の女性視聴者にとってもっとも感情移入できるキャラクターが薫子だろう。演じる水川あさみの地味可愛さも相まって、「こういうひと、いるだろうな」という妙な説得力がある。
そして、このドラマがユニークなのは、恋愛物でありながら、シリアスな仕事論がときおり顔を出すところだ。その辺りは脚本家・安達奈緒子カラ―といえるが、越川美埜子が脚本を書いた4話にもこんなやりとりがあった。
ネットで評判が広まった爽太の店に対して父・誠(竹中直人)が言う。「おまえはいい時代に生まれたな。俺がやってた頃は、口コミで評判が広がるまで何年もかかったもんだ。分かるひとにだけ分かってもらえばいいなんて言ってたら、あっという間に店は潰れちまう。でも、いまは違う。大勢の人間に媚びなくても、たった一人の誰かに死ぬほど愛してもらうことができれば、ちゃんと結果につなげることができる。それはすごく幸せで、恵まれた環境だってことだ。」
これに対して爽太は、チョコレートの貴公子と称されるショコラテイエ・六道(佐藤隆太)も同じようなことを言っていたと言い、「さすがに10も歳が上だと言うことが違うなあと思った」と笑うが、そんな爽太を父は一喝する。「それは違うぞ。歳は関係ないだろ」と言い残して去っていく。
10歳上だったら負けてもしかたがない。そう思うことで安心しようしていた爽太は、「でも、それってその時点で勝負に負けてるってことなんじゃないのか」と気づく。六道が、世間に迎合することで「自分自身のビジョンが消えてしまうことのほうが怖い。どんなものをつくりたいのか分からなくなって何もできなくなることが怖い」と語っていたことを思い出し、「あのひとは凄い。完全に自分の世界を構築している。」「俺はあと10年であんな風になれるのか」と自問する。
これは、どんな仕事にも通じる葛藤ではないだろうか。時折、こんなセリフが飛び出すからあなどれないのだ。
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公式HPより
『紙の月』NHK 3~5話 火曜22時~
全5話を通して、勤務先の銀行の金・1億円を横領した梨花(原田知世)はモノローグで何度もこうつぶやく。
「私は何でもできる。どこへでも行ける」
平凡な主婦が大金を自由に扱える立場になったことで手に入れた「万能感」が、人生の歯車を狂わせる。そして、第1話の冒頭、横領が発覚しそうになって逃亡したタイの町をさまよい、梨花は圧倒的な万能感を憶えながらも、「私は何かを得てこんな気分になっているのか、それとも何かを失ってこんな気分になれたんだろうか。」と考える。
顧客の預貯金を横領するという犯罪によって得た大金を湯水のように使いまくる梨花の姿は、しかし決して満たされているようには見えない。若い恋人に好きなように金を使わせ、みずからも高級ブランドを買いまくり、一流レストランで贅沢な食事を満喫しても、心は空洞のままだ。
結局、大金を手にしたことによって「何でもできるし、どこへでも行ける」と思った万能感自体がまさに薄っぺらな紙幣のようなものだったと気づいた梨花は、「誰かに必要とされたい。誰かに愛されたい」と他人に期待するのではなく、自分自身をまるごと認め、愛してあげようと思う。ここではないどこかへ行こうとしたが、いまここにいる、あるがままの自分と向き合うことを決めた彼女の表情はいっそ清々しさに満ちている。そこからが、ほんとうの旅のはじまりなのだ、と。
梨花の女子高時代の同級生だった木綿子(水野真紀)と亜紀(西田尚美)も、実は同じように金に翻弄されていたのだった。専業主婦の木綿子は、スーパーの特売に血眼になり、夕飯のおかずも風呂の湯もケチる「すてきな奥さま」だが、そのギスギスした家庭に息が詰まって旦那は若い部下と浮気をして高級レストランで大盤振る舞いしていたりする。亜紀はバツイチのベテラン編集者だが、実は買い物依存症でカード破産寸前までいったことが原因で離婚、元夫と暮らす娘に見栄を張っているうちに買い物依存症が再発してしまう。
ケチケチした節約主婦と買い物依存症のバツイチ女。金を使わないのか使うのかの違いだけで、いずれにしても金やモノに振り回されていることに変わりはない。梨花の大金横領・逃亡の物語を縦軸に、同級生だった2人が梨花はなぜそんな大それたことをしでかしたのか想像する様が物語の横軸になっている。そして、最初は理解し難かった梨花の行為が、実は自分たちと同じ心持ちに根差したものであることを知るのだ。
梨花が預貯金を横領するのはオレオレ詐欺に騙されるような高齢者ばかりというのもリアル。金はあるが子や孫には渡したくないがめつい老人が、話し相手になり、切れた電球を換えてくれるようなやさしい銀行員のことは疑おうとしない。梨花に対して下心丸出しだった平林(ミッキー・カーチス)は事件発覚後も「金のことなら言ってくれりゃいくらでもやったのに」と言い、認知症が進行する名護(富士眞奈美)は「梨花さんは天使様」とうっとりした表情で答えるあたりはゾッとする。
1話の冒頭が最終話のラストとつながる構造はストーリー的な意外性はないものの(つまり1話の時点で最後が分かっている)、横領~証書偽造のプロセスや若い恋人との次第に変わっていく関係性をじっくり見せることで心理的なサスペンスをうまく成立させていた。
NHKの夜のドラマ枠は、『セカンド・バージン』以降、熟女と若い男の組み合わせが定番化しているが、そのなかでも頭ひとつ抜けた作品だったのではないか。同枠で向田邦子ドラマのリメイク『胡桃の部屋』も手掛けた脚本家・篠崎絵里子はなかなか達者な書き手だと再確認した。
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公式HPより
『明日、ママがいない』2~4話  日本テレビ 水曜22:00~
第1話の冒頭から「これから始まる物語は現実に即したリアルな話とは異なりますよ」という表現をあからさまにしていたにも関わらず、その意図を読み取れないひとが多数いたことによって、本来の物語の主題とは別の文脈で騒動になってしまったある意味不幸なドラマ。
もし、養護施設の子どもたちに対して施設のスタッフや学校の同級生らが「ポスト」だの「ドンキ」だのとあだ名を付けてからかう場面があればそれは確かに問題かもしれないが、ここで重要なのは、親に捨てられた子どもたちがお互いをあだ名で呼び合うのは、親からもらった名前を自らの手で捨て、忌まわしい過去をネタ化した上で乗り越え、助け合って生きていこうという意志の表れだということだ。子どもたちの決意が、そのあだ名には込められている。
芦田愛菜演じるポストの漢気(おとこぎ)と垣間見える母性。各キャラクターの描き分けも明確で、ドンキ役の鈴木奈央、ピア美役の桜田ひより、ボンビ役の渡邊このみら子役陣の芝居も見事。
今となっては、1話で問題になった施設長のセリフ「お前たちはペットショップの犬と同じだ」に代表される、いかにも往年の野島伸司と言うべき挑発的なセリフはなくても十分に成立したのではないかとも思える。ことさら過激さを前面に出すことで余計な物言いがついたのではないかと、その点は残念だ。
『ロストデイズ』(フジテレビ 土曜23:10~)は全10話中5話まで進んだもののサスペンスとしていまだ盛り上がらず。『私の嫌いな探偵』(テレビ朝日 金曜23:15~)は金曜の夜に何も考えずに見る分にはたいへん楽しい。
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公式HPより
『ダークシステム 恋の王座決定戦』(1~4話 TBS 月曜24:28~)は、独特の世界観と脱力系のテンポ感がじわじわくる。が、『時効警察』を手掛けた三木聡のようなシュール演劇テイストではなく、あくまで予算がないがゆえに自ずとシュールになってしまう自主映画のソレ。これは決して批判などではなく、幸修司が手掛けた同名の自主映画が「原作」であり、それに惚れ込みシリーズ構成と監督を買って出た犬童一心と小中和哉は元々自主映画の出身だから、全編に漂う自主映画臭はむしろ確信犯なのだ。
もちろんHey! Say! JUMPの八乙女光の初主演ドラマだし、最近では『のぼうの城』などの大作も手掛けた犬童一心が関わるのだから、それなりに予算はかけているはずなのだが、あくまでもテイストはチープな自主映画然としている。寝起きのようなボサボサ頭に銀縁メガネで主人公・加賀美を演じる八乙女君のイケメンぶらなさ具合にも感心するし、ドラマ初出演の玉城ティナの棒読みのセリフすら好ましい。
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公式HPより
単発だが、2013年1~3月に放送され人気を博したドラマの待望の続編『最高の離婚special 2014』(2月8日 フジテレビ 21:00~)も見応えがあった。一度は離婚したものの、籍は入れずにずるずると一緒に暮らす光生(瑛太)と結夏(尾野真千子)。友人の上原諒(綾野剛)と灯里(真木よう子)夫妻に子どもが生まれ、光生の姉のおめでたを知った結夏は、光生に子どもが欲しいと打ち明ける。
落ち着いたら再び婚姻届を出そうと言う光生は恋人同士のような今の暮らしを維持したいので、「新婚さん始まろうとしてるんだよ。行くならまずIKEAでしょ。IKEA行ってソファ買おうよ、カフェ風のやつ。」と反論。「そんな雑誌に載ってるみたいな生活いらないの。あなたと私の子どもが欲しいの。分かる?女が男の人に思う気持ちにそれ以上はないの」と詰め寄る結夏に、子どもが生きる将来の日本経済を懸念する光生は、「大就職難ですよ。ブラック企業どころじゃないよ。ブラックホール企業に就職することになりますよ」と叫び、「ブラックホール企業って何よ」とツッコまれると「天文学的な残業時間ですよ。うちの子ボロボロになりますよ。吸い込まれますよ。そこに送り出していいものなの!?」と意味不明の理屈をまくし立てる。
この結夏の「子ども、ほしいね」発言に果たして光生は応えることができるのかを主軸に、諒の元カノ(臼田あさ美)との邂逅や結夏の不倫旅行騒ぎ(相手は光生に『ヤング宮崎駿』と茶化される岡田義徳)などを挟んで物語は進んでいく。膨大なダイアローグが浮き彫りにする人生の悲喜劇。まさくし脚本家・坂元裕二の真骨頂だ。連ドラ版は、ウディ・アレンを思わせる瑛太の神経症的な屁理屈トークが笑いを生み(さながら目黒川はアレン映画におけるイーストリバーか)、「毎度ばかばかしいお笑いを」という落語の夫婦(めおと)物のようなテイストを醸しつつ、ラストは桑田圭祐が歌う『Yin Yang(イヤン)』のイントロが流れ「チャンチャン!」というオチで終わる、という趣向だったが、今回はそれを踏襲しつつ、映画『ブルーバレンタイン』のようにヘビーな男女の対峙が真正面から描かれる。
不倫旅行をしかけた結夏に光生は激昂、二人の仲は最悪に。すったもんだの末、仲直りして婚姻届を出そうと歩み寄る光生に対して結夏は涙ぐみながらこう返す。「光生さんはひとりが向いてる。ほら、逆うさぎだよ。寂しくないと死んじゃうの。馬鹿にしてんじゃないよ。そういう光生さんのとこ好きだし、面白いと思うし。そのままでいいの。無理して合せたら駄目なんだよ。合せたら死んでいくもん。私が、あなたの中で好きだったところが、だんだん死んでいくもん。そしたらきっと、いつか私たち駄目になる。」
一見がさつで無神経に見えるズボラ妻の結夏がほんとうは愛に満ちた可愛いひとだったり、神経質で辛辣な光生がほんとうは相手の気持が分かるやさしいひとだったり。このドラマの凄さは、表面からは分からないひとの奥行や多面性がきちんと描かれているところだ。
光生は物語の冒頭で尿管結石を患い、いろいろあった末、その石が尿とともに流れ落ち、係長に昇進し、通院する歯医者の美人助手に言い寄られる。結夏と別れることで肩の荷が降りたのだろうか。けれど、お年玉年賀はがきの2等のふるさと小包が当たってもそのよろこびを分かち合うひとは、もう隣にいない。
ラストに、光生が結夏に宛てて書く長く叙情的な手紙(まるで小沢健二の詞のような)の文面から、光生がいまでも結夏の記憶ととも日々を暮らしていることが分かる。連ドラ版で結夏が光生宛てに書いた手紙は結局渡されることはなかったが、今回、光生の手紙はポストに無事投函された。その返事がどうなるのか、1年後(?)に期待したい。
では、いいドラマを。
BACK NUMBER
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2014 JAN~MAR VOL.02
前回、事前情報と勘でアタリをつけピックアップしたドラマが軒並み放送を開始した。もちろん、それ以外も初回はほぼすべて録画して見まくったのだが、結果的に採り上げたドラマに関してはハズレなし。レコメンドしたはいいが、実際に見たら「違った!」という事態にならずに正直ホッとしている。こればかりは見てみないことにはわからないわけで、そこがまた連続ドラマの面白さでもある。ちなみにここで言うアタリ・ハズレは視聴率とはあまり関係がない。あくまでも内容重視。
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公式HPより
『なぞの転校生』テレビ東京 1~2話 テレビ東京 金曜24:12~
映画『Love Letter』『リリイ・シュシュのすべて』などで知られる岩井俊二監督が企画プロデュースと脚本を、映画『夜のピクニック』の長澤雅彦監督が演出を手掛けるということで映画ファンからも注目が集まった本作。深夜枠のSFいうと、一歩間違えばチープなB級テイストになる可能性もあるが、フタを開けてみれば、まさしく岩井俊二の良さと長澤雅彦の良さの両方が掛け合わされた、みずみずしい青春SFドラマになっていた。
岩井俊二作品は独特のトーンの映像で知られ、特にやわらかい光の処理の仕方に定評がある。これは、岩井作品を初期から手掛けてきた撮影監督・篠田昇(2004年他界)の功績によるところが大きいのだが、本作ではその篠田の弟子筋にあたる神戸千木(かんべちぎ)が撮影を担当。AKB48の『桜の栞』(演出は岩井俊二)のMVやドキュメント映画『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued 10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?』でも、篠田昇直系というべき美麗な映像が印象的だった。
というように、思わず撮影の話から入りたくなるほど、冒頭から他のドラマとは明らかに一線を画す独特のトーンの映像が広がり、そこにショパンの『雨だれ』が流れるという、いかにも岩井俊二!な世界。「映画みたいな映像」だから良い、というわけではなく、映像自体が何かを雄弁に語るドラマを久しぶりに見た、という話。
今回はじめて連続ドラマを手掛ける岩井俊二の実験性と、映画『青空のゆくえ』や『夜のピクニック』で少年少女の群像劇を撮った経験をもつ長澤雅彦のバランスはかなり良いのではないか。
2話でついに登場したなぞの転校生・山沢典夫を演じる本郷奏多の透明感のある浮世離れぶりが見事だし、1975年に放送されたNHK「少年ドラマシリーズ」版で主人公・岩田広一を演じた高野浩幸が中村蒼演じる岩田の父親役として登場するのもオリジナル版のファンへの目配せを感じる。
そして前回、注目すべしと書いた桜井美南はいまのところまだ大きな見せ場はないものの、2話の花屋で山沢典夫とはじめて出会うシーンでさわやかな色気を覗かせるあたり、今後に期待がもてるというもの(ちなみにオープニング曲でもなかなかの美声を響かせている)。
伝説化しているドラマのアップデート版としては大成功といえるのではないか。
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公式HPより
『失恋ショコラティエ』1~2話 フジテレビ 月曜21:00~
2010年のドラマ版と2011年の映画版『モテキ』(大根仁監督)が恋愛物のリアリティを更新して以来、「そんな会話する?」というようなウソ臭いドラマや映画は急速に過去のものになっていった。とはいえ、生々しい現実的な設定や会話を採用するだけではあからさま過ぎるし、場合によってはゲンナリもする。それをどうコーティングして「恋愛の夢(あるいは悪夢)」を提示してくれるのかがカギになる。本作は片思いをこじらせて妄想恋愛へと突き進む男を『モテキ』以降のリアリティで描こうとしている。
「さあ、それじゃあ、ドロドロに汚れましょうか」
パリで修行してショコラティエとなった主人公の爽太(松本潤)は、こうモノローグで宣言する。ドロドロとはいえ、そこはチョコレートの海なので、甘美でほろ苦い。いわば甘い痛みの中へズブズブにはまり込んでいくのだが、ある種の男たちの中には、いい女に振り回されたいという欲求の強いひとがいる。
嘘か本気か分からない思わせぶりな態度に一喜一憂しながらも、それが仕事(爽太の場合チョコレートづくり)への情熱を増幅させていく。金持ちになりたいとか女にモテたいという漠然とした夢ではなく、「あのひとによろこんでもらいたい」というモチベーションのみで突き進めるひとはむしろ幸せだ。「あなたに褒められたくて」とは高倉健の著書のタイトルだが、爽太は紗絵子(石原さとみ)を笑顔にしたい一心でチョコづくりに励む。仕事というものの本質が、案外そこにあったりするのかもしれない。不特定多数に向けるのではなく、誰かのためにする何か。
紗絵子が爽太の学校の先輩だったという設定が思いのほか効いていて、手の届かないミューズを思いながらもつい身近な女に行ってしまうという構図には、夢と生活、アート(チョコづくり)と恋(生き方)の両立は可能かという問いが見え隠れする。
ふだん甘いものに関心のない男(自分のことです)ですら、見終ると無性にチョコレートが食べたくなるのも紗絵子の魔法なのか。 
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公式HPより
『明日、ママがいない』1話  日本テレビ 水曜22:00~
1話の放送直後、赤ちゃんポストを有する病院から「人権侵害」として局側に放送中止を求める物言いがついたことで思わぬ話題になってしまったドラマ。確かに「児童養護施設あたりからクレームが来なければいいが」と思いながら見ていたのだが、あんのじょう、という事態になってしまった。
が、ちょっと冷静に見れば、冒頭のホラー調の展開からして、かなり戯画化された寓話性の高い物語だということはすぐに分かるわけで、同じ枠で放送されていた『Mother』『Woman』のような現実に即したシリアスな路線でないことは一目瞭然なのだが。前回書いたように、親に捨てられた子どもたちが、「捨てられたほうも黙っちゃいないぜ、というタフな生き方」を見せるのがこのドラマのキモなのだからして、現実と乖離しているとか人権侵害といった指摘は当たらないのではないかというのが個人的な意見だ。
物語の設定から『家なき子』リターンズか!?などと前回も書いたのだが、なんと1話のエンドクレジットに「脚本監修・野島伸司」の文字が。そう、『家なき子』を手掛けた張本人が関わっていたのだ。公式サイトで事前に公表されていなかったこともあり、これには驚いた(実はネット上では噂されていたのだが)。あくまでも脚本は松田沙也で、野島は監修ということらしいが、かなり内容にコミットしているのではないかと思われる。
というのも、赤ちゃんポストに預けられていたから「ポスト」、家が貧乏だから「ボンビ」、母親が鈍器で男を殴ったから「ドンキ」というあだ名で子どもたちが呼び合う様子を見て、「昔の野島伸司ドラマみたい」とリアルタイムで放送を見ながらツイートしてしまったくらい、90年代の野島ドラマのフレイバーが濃厚だったからだ。もちろん、盛大なリバイバルというわけではなく、この設定なのに意外にも笑いの要素があったり、野島ドラマにあった、やたらとナイーブな「思いつめた感」のようなものはなく、サバサバとした印象(悪く言えば軽い)を受けるあたりが松田沙也テイストなのだろうか。
グループホーム「コガモの家」で、施設長を演じる三上博史が朝食を前に子どもたちに向かって「泣いてみろ。泣いたやつから食っていい」と鬼のようなことを言い放ち、子どもたちがうまく泣けずにいる中、芦田愛菜演じる「ポスト」が見事に泣いて見せる、というシーンは、明らかに現実の子役の世界を戯画化している。あるいは、理想的な里親に選んでもらえるかどうかを子どもたちが心配するくだりは、さながら「たくさんのオーディションの中からいかにおいしい仕事をゲットできるか」という過酷な子役の世界のメタファーだろう。
こうしたことからも分かるように、このドラマは「親に捨てられ施設で暮らす子どもたちの話」という設定を借りつつ、描こうとしているのは、ダメなオトナたちがつくったダメな社会を子どもたちがいかに自力でサヴァイヴしていくのか、という話なのだ。まさか放送中止などということはないと信じたいが、物言いがついたことで無難な脚本に書き直したりせずに初志貫徹してもらいたいと願うばかり。
そういえば、知人に言われて気がついたのだが、本作のキービジュアル(芦田愛菜たちが毛布にくるまっている写真)は、イギリスのロックバンド、The Whoのドキュメント映画『The Kids Are Alright』の引用だ。まさにこのタイトルが劇中の子どもたちへのメッセージになっているあたりがニクい。
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『紙の月』NHK 1~3話 火曜22時~
若い男に貢ぐために勤務先の銀行の金・1億円を着服する主婦を、いつまでも透明感を失わない原田知世46歳がどう演じるのか。本作への興味はほぼその一点にのみ集約されていたのだが、昼ドラ風の設定にも関わらず、生々しい性欲の話にならずに済んでいるのは(それが見たいというひとには物足りないだろうが)、やはり原田知世のたたずまいがあってこそだろう。
梨花(原田)の夫・正文(光石研)は、妻を傷つけることをポロっと口にするが、おそらく本人に自覚はない。暴力をふるうわけでも、浮気をしているわけでもない、ある意味ごく普通の商社マンなのだが(どうでもいいけど、こういう場合の夫は大抵商社マンだな)、梨花の中にオリのように少しずつ積み重なっていく疎外感が、自分を褒め、認めてくれた若い男・光太(満島真之介)へと向かわせる。
普段は見向きもしない高級化粧品を買おうとするとき、手持ちのお金が財布になかったため、顧客から預かった現金を「あとで返せばいいよね」と手をつけてしまうことから始まる転落。確かに、お金には持ち主の名前が書いてあるわけではいから、ひとから預かったお金を使っても、後で自分のお金で補てんすれば一見問題はないように思えるが、ひとのお金に手をつけ、それで何事もなかったという事実は、そのひとの何かを狂わせるのだろう。怖い。実に怖い。
「ちょっと無神経だけどごく普通の夫がいて、なんで若い男のために他人の金を1億も横領するのか理解できない」という声もあるだろう。それはごく自然な感情だと思うが、梨花は若い男にのめり込んだのでも、大金に目が眩んだのでもなく、「ここではないどこか」へ行くことを欲したのではないだろうか。いわば、遠い国への旅を夢見るように。

「ここではないどこか」への旅のチケットが、梨花にとってお金であり恋愛だったのかもしれない。
前回採り上げたドラマの中では、『ロストデイズ』(フジテレビ 土曜23:10~)が、やや展開がゆるく、いまひとつといった印象。演出は『古畑任三郎』『マルモのおきて』などを手掛けた河野圭太なのだが、サスペンスの演出は不得意なのか。山小屋に泊まる大学のテニスサークルの男女をめぐるサスペンスなのだが、ホラー映画ならば開始10分で殺されるような軽~いノリのリア充男女の恋のかけひきが描かれるのみで、2話の時点でメンバーのうちの誰も死んでいない。人気番組『テラスハウス』みたいなルームシェアドラマを見せられているような気分なのだが、屈託がなさそうに思えた面々の裏の顔が徐々に表れ出したので、これからどう物語が転がるか、もう少し様子を見よう。
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その代わりといっては何だが、期待せずに見た『私の嫌いな探偵』(テレビ朝日 金曜23:15~)が思いのほか楽しかった。原作は『謎解きはディナーのあとで』の東川篤哉による「烏賊川市(いかがわし)シリーズ」なのだが、安定感のある二枚目芝居も堂にいった玉木宏に剛力彩芽が「鳥みたいな顔」といじられたり、『33分探偵』『コドモ警察』を手掛けた福田雄一の脚本がふざけまくっていて痛快だ。これまで剛力ちゃんの代表作はランチパックだと思っていたが、これはハマり役ではなかろうか。
『ダークシステム 恋の王座決定戦』(TBS 月曜24:28~)については初回放送がギリギリ間に合わず、次回あらためて書くことにする。次回は2週間後くらいに更新予定。
では、いいドラマを。
BACK NUMBER
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2014 JAN~MAR VOL.01
通常、テレビドラマは3カ月に一度入れ替わるが、新ドラマの初回を見逃すと、次回以降見る気が失せるのはよくある話。ということで、2014年1月スタートの新ドラマの中から、「とりあえず初回だけでも予約録画しておいたほうがいいドラマ」をセレクトしておく。もちろん、リアルタイムで見ることが可能であればなるべく録画せずに見るべし。録画が溜まるとだんだん見るのが億劫になるものだ。
フタを開けてみないと何とも言えないのがドラマの面白さであり怖さでもあるのだが、事前情報や過去のデータなどから読み解くと、こんな感じになる。
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『なぞの転校生』テレビ東京 1/10スタート 金曜24:12~
原作は1967年発表の眉村卓によるSFジュブナイル小説。1975年、NHKがウイークデイの夕方放送していた帯番組「少年ドラマシリーズ」枠でドラマ化され人気を博した作品なのだが、そんな昔の話をなぜ今? と、まさにクラスに突然なぞの転校生がやってきたかのごとく不思議がっていたら、企画プロデュースと脚本を映画監督の岩井俊二が手掛けると知り、ははーんと腑に落ちた。
岩井俊二はまさにこのドラマをリアルタイムで見ている世代だし、しかも、「高度に進んだ文明を築いたがゆえに核戦争を引き起こし別次元の世界から避難してきた民」という設定は、福島の原発事故とそこから避難した人たちをどうしたって想起する。岩井は宮城県の出身で、NHKの東日本大震災復興支援ソング『花は咲く』の作詞も手掛けている。当然、今この話をやる上で、核に対する危惧を込めるであろうことは想像に難くない。
もちろん原作小説もNHKのドラマも、あからさまな反核思想などではなく、ある日突然やってきた異能者が日常に揺さぶりをかけるという、基本的にはSFやサスペンスのかたちを取りつつ、行き過ぎた現代文明に警鐘を鳴らすというメッセージが背後に置かれている。実は、まさに今描くべきテーマが内包された話だといえる。
主人公・岩田広一に中村蒼、なぞの転校生・山沢典夫に本郷奏多という若いけれどキャリアのある2人を配しているが、注目は岩田と幼なじみの香川みどりを演じる桜井美南(みなみ)。これがドラマ初出演となる桜井は、鈴木杏、北乃きい、南沢奈央を輩出したキットカット受験生応援キャラクターの5代目にあたる16歳(ちなみに4代目は2013年注目を集めた刈谷友衣子)。
しかも岩井俊二といえば、自身の映画で奥菜惠や蒼井優をブレイクさせた「女の子を見る目が確かな」監督。予告動画以外、動いている姿をまともに見たことがないうちからこんなことを言うのもナンだが、おそらく逸材に違いない。
とはいえ、岩井はプロデュースと脚本のみで、演出は『夜のピクニック』などで知られる映画監督の長澤雅彦が手掛ける。これまで大根仁監督の『モテキ』、園子温監督の『みんな!エスパーだよ!』などを放映してきたテレ東深夜の「ドラマ24」枠で岩井俊二&長澤雅彦とくれば映画好きも必見だ。
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『失恋ショコラティエ』 フジテレビ 1/13スタート 月曜21:00~
いわゆる月9。と言っても、最近の月9はかつてのトレンディドラマの流れを汲む王道の恋愛ドラマを放映する枠では既になくなっていて、『鍵のかかった部屋』『ビブリア古書堂の事件手帖』などライトなミステリィ物も多く、バラエティに富んでいる。
2012年夏、この枠で放映された『リッチマン、プアウーマン』(小栗旬、石原さとみ出演)も一見王道の恋愛物のようでいて、「就職が決まらない高学歴女子とIT企業を起ち上げ成功を手にした若き経営者との格差恋愛」を題材にした、恋愛+起業物というあたらしい手触りのドラマだった。Facebookの創業者、マーク・ザッカーバーグをモデルにした映画『ソーシャル・ネットワーク』に韓流ドラマをプラスしたような、と言ってもいい。
とりわけ、一筋縄ではいかない安達奈緒子の脚本が秀逸だったのが、『失恋ショコラティエ』は、その安達が脚本を手掛けていることからも要注目。原作は累計100万部を記録する水城せとなの人気コミックだが、こういう場合、何かと原作ファンからは厳しい声が上がるものと想像される。むしろ原作を未読のひとのほうがすんなり入れるかもしれない。
ある意味ストーカー的な妄想恋愛に邁進する主人公・爽太を嵐の松本潤がどう体現するのか。『リッチマン~』では子犬のような愛らしさ全開だった石原さとみが爽太を思わせぶりに振り回す「性格悪子ちゃん」のサエコをどうリアルに演じるのか。20代男子の4割が恋愛経験ナシといわれる現代において、あからさまにベタな恋愛ドラマをつくるとは思えず、かなりヒネリや毒のある展開になるものと思われる。
原作では爽太のセフレとして描かれる加藤えれな役が水原希子というのもグッとくるし、爽太の妹・まつり役に有村架純が配されているあたりも抜かりがない。
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公式HPより
『明日、ママがいない』 日本テレビ 1/15スタート 水曜22:00~
日テレ水曜10時といえば、芦田愛菜が注目されるきっかけとなった『Mother』や満島ひかりがシングルマザーを演じた『Woman』(いずれも脚本は坂元裕二)など、母と子の葛藤の物語に象徴されるヘビーながらも見応えのあるドラマを放映してきた枠だ。この枠に、ふたたび芦田愛菜が降臨。そして、大河ドラマ『八重の桜』のチビ八重で人気を集め、『Woman』では満島ひかりの娘を演じた鈴木梨央も加わり、何やらまたしても見る者の涙を枯らそうという魂胆らしい。
親の虐待などによって児童養護施設に預けられた子どもたちがサヴァイヴしていく話と知り、安達祐実の『家なき子』リターンズか!? と思ったのだが、予告動画を見たら、「親なき子たちの物語」というフレーズを使っていて納得。施設の子どもたちが「ポスト」だの「ボンビ」だのとあだ名で呼び合うのは、親からもらったものは名前も含めてすべて捨てるためだというからすさまじい。
「親に虐待されてかわいそう」なんていう良識ある視聴者のうわべだけの感傷を吹っ飛ばし、捨てられたほうだって黙っちゃいないぜ、というタフな生き方を見せてもらいたい。はたして「同情するなら金をくれ」に匹敵するキラーフレーズは出るのだろうか。
今のところ公式サイトに脚本家のクレジットはない。普通に考えれば『Mother』『Woman』の坂元裕二なのだろうが、どうやら新海誠のアニメーションの脚本に参加している松田沙也の線が濃厚。未知数のひとだけに期待と不安が入り混じった状態で放映を待つしかなさそうだ。
他には、TBS深夜の「ドラマNEO」枠で放映される『ダークシステム 恋の王座決定戦』(TBS 1/20スタート 月曜24:28~)も、まさにダークホースとして押さえておきたい。何しろ、自主映画でありながら異例の高評価を得た幸修司の映画『ダークシステム』に惚れ込んだ映画監督の犬童一心(『ジョゼと虎と魚たち』『のぼうの城』)が演出を買って出たというのだ。
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公式HPより
好きな女の子を恋敵に奪われた男が手づくりマシンを駆使して反撃に出る...という恋愛バトルコメディだが、『失恋ショコラティエ』がフランスで修行してショコラティエになってあのコを見返してやるんだ!というシャレオツなリベンジであるのに対し、『ダークシステム』の主人公・加賀美はあくまで負のエネルギーをマシンに搭載してライバルに暑苦しく立ち向かう。
加賀美を演じるのは、これがドラマ単独初主演のHey! Say! JUMP・八乙女光。自分勝手で小心者というイケてない主人公をどう演じるのか見ものだが、加賀美が惚れ込むヒロイン・白石ユリを昨年のミスiDグランプリに輝いた玉城ティナが演じるのも大注目。すでにモデルとして各方面から引っ張りだこだが、ファムファタル(運命の女)と言うべき役柄をドラマ初出演の玉城がどう魅せるのか。低予算の自主映画だからこそ生まれる馬鹿馬鹿しい情熱のようなものが映画版の魅力だったが、ドラマ版にもその熱量が受け継がれていることを期待したい。
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公式HPより
他にも、瀬戸康史主演、石橋杏奈、小島藤子、三吉彩花など注目の若手女優が揃い、1日1話、10日間を10話で描くというミステリー『ロストデイズ』(フジテレビ 1/11スタート 土曜23:10~)あたりも初回は押さえておきたい。角田光代の小説のドラマ化で原田知世が主演を務める『紙の月』(NHK 1/7スタート 火曜22時~)も、全5話と短いが、巨額横領して男に貢ぐ女を原田知世がどう演じるのか興味をそそられる。
ということで、1月スタートのドラマをピックアップしてみたが、岩井俊二、長澤雅彦、犬童一心と、複数の映画監督が連続ドラマに進出しているのも今期の特徴のひとつ。ドラマ好きの間ではここしばらく「脚本家は誰か」でドラマを見る傾向があったが、それに加えて今度は「演出は誰か」に注目が集まるとすれば、さらに見方は多角的になる。
『医龍4』がないじゃないか!とか、向井理と綾野剛という当代人気イケメン共演の『S 最後の警官』はどうした!とか、各所からツッコミが聞こえてくるが、まあ気のせいだろう。人気シリーズや人気俳優のドラマは放っておいても見るひとは見るでしょ。というのがこのコーナーのスタンスだ。
次回は、新ドラマの初回が出そろったタイミングで更新する予定なので、ぜひそれまでにおのおの課題(?)をクリアしておいてほしい。
では、いいドラマを。
BACK NUMBER
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ドラマから流行語が生まれたり、なにやらテレビドラマの周辺が騒がしい。実際見応えのあるものも多く、「映画は観るけどドラマはちょっと...」なんて言って食わず嫌いしているのはもったいない。でも、すべての連ドラをチェックするのは物理的に無理。しかも、高視聴率だから面白いかといえば、実はそうでもなかったりするから話はややこしい。そこで、ほんとうに面白い、いま見ておくべきドラマを独自の視点で採り上げていくのがこのコーナー。ブッタ斬りでもメッタ斬りでも重箱の隅つつき系のツッコミ芸でもなく。そのドラマの「何がどう面白いのか」「どこをどう面白がるべきか」をふんわり提示する、普段ドラマを見ないひとにこそ読んで欲しいドラマ・ウォッチ・ナビ!

Text_Shin Sakurai
Design_Shogo Kosakai[siun]

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2014 April-June vol.03 6/18up
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公式HPより
『BORDER ボーダー』 テレビ朝日 木曜21時~ 8~9話(終了)
今期のドラマのなかで、予想を超えて面白く見ていたのが『BORDER』だった。
もはやさんざんやり尽くされたと思える刑事・事件ものにあたらしい質感をもたらした功績は大きい。小説『GO』やドラマ『SP』で知られる作家・金城一紀の原案・脚本、『相棒』や映画『探偵はBARにいる』の橋本一がメイン演出というふれこみから、ある程度のクオリティは保証されていたものの、こればかりは実際に見るまでわからない。
小栗旬が演じる刑事・石川安吾は、ある事件で頭に弾丸を撃ち込まれ、死の恐怖に直面したからか、頭に残ったままの弾が脳の神経のどこかに作用したのか、それをきっかけに死者と会話ができるようになる...というアイデアの大元は、おそらく死者と話すことができる少年が登場する映画『シックスセンス』(99年)に由来するのだろう。ところが、その設定を刑事・事件ものに投入することで、生と死の境界、ひいては正義と悪の境界の話になっていくため、もちろん物語自体はまるで異なった色を帯びる。
9話とややショートに終了してしまったが、この設定ならいくらでも(というのは言い過ぎにせよ)エピソードがつくれるだろうし、最終話は続編を匂わせる終わり方だったし、ましてや視聴率も良かったとなれば、パート2がつくられることはほぼ間違いない。
※初回視聴率9.7%からスタートし、宮藤官九郎がゲスト出演した5話が13.1%、7話が16.7%、最終話は14.4%と大健闘した。逆に開始前は下馬評が高かった裏 場組の『MOZU』は13.3%からスタートし、9話では7.7%にまで落ち込んだ(最終話は13.8%)。
終盤の8話では、石川が頭を撃たれた事件の真相が明らかになる。話自体は、昨年放送された「3億円事件=警察内部の犯行説」をとなえたドラマ『クロコーチ』(TBS)を思わせる警察組織の暗部を描いていたものの、石川が上司である監理官に「おまえも遅かれ早かれ正義の階段を踏み外すことになる。その時、ひどい転げ落ち方をしないように下で受け止めてやる人間が必要だ。俺がその役目を果たしてやるよ」という予言めいたことを言われ、「俺は絶対に正義の階段を踏み外さない」と反発するくだりが、そのまま最終話のエピソードへと連なるという展開が巧みだった。
死者(望まずして命を絶たれた者)と対話ができるようになった石川には、彼らの無念が痛いほど分かる。そして、殺された者から誰が犯人なのかを教えられることによって、何が何でも自分が犯人を逮捕しなければならないという正義に駆り立てられるわけだが、暴走する正義は悪と紙一重なのだということを明示するのが最終話「越境」だ。
大森南朋が演じる安藤という男は、絶対的な悪を実現するためにさまざまな研究を重ね、職業をも変えていく。おもちゃメーカーの社員としてショッピングモールに出入りし、おもちゃで子どもの気を惹き、誘拐・殺害する卑劣な人物だが、用意周到に計画された犯行に一切の証拠は残っておらず、殺された子どもから犯人だと教えられた石川をイラつかせる。こいつが犯人だと分かっているにも関わらず捕まるこずとが出来ず、その男が引き続き惨たらしい事件を起こすのを指を咥えて眺めるしかないのか。
石川の特殊な能力は、もちろん他言していないため、同僚や上司はそのことを知らない。波瑠演じる検視官の比嘉だけがうすうす感付いているのだが、誰にも相談することなく、石川はひとりで犯人と対峙することになる。これが最終的に大きな悲劇を生む、というのが最終話なのだが、「越境」というサブタイトルからも分かるように、まさに石川は最後にボーダーを越えてしまうのだった。
大森南朋は、淡々とした態度で平然と殺人を繰り返す男・安藤を不気味に演じていた。いわゆる「狂気を内包した」といった分かりやすい芝居ではなく、何を考えているのか分からない体温の低い佇まいだからこそ、見る者はゾッとするのだ(どことなくTBSの安住アナを思わせるキャラクターだった。かねてから安住アナが殺人犯を演じたら最高だと思っているのだが、これはまったくの余談)。
安藤の持論は、どこにでもいる平凡な子どもを殺すことで、「私があの子に光を与え、世の親たちにモラルを与えた」という理不尽極まりないものだ。「闇があるからこそ光がある。悪があって正義がある。どちらか一方しかない世界なんてつまらないですよ。私がいるからこそ、あなたは輝けるんです。もしそれが気に入らないなら、あなたもこちら側にくるといい」と石川を挑発する安藤。「いつから悪に染まった? 何がきっかけだ」と問い詰める石川に、「さあ、いつからでしょう。ところで、あなたが正義に染まったのはいつからですか。何がきっかけですか? 分かったでしょう。実は正義と悪に大した違いはないんです」
悪と正義はコインの裏表、合わせ鏡だという話は古今数多く見られ、バットマンとジョーカーの例を持ち出すまでもなく、特別目新しいものではない。「私は悪を成すためなら人を殺せます。でも、あなたは(正義のために人を)殺せないでしょう。この差は永遠に縮まらないんです」と安藤が言うように、悪よりも正義を成すことのほうが難しい。なぜなら、正義のために行動を起こすことは、容易に悪へと転ぶ危険をはらんでいるからだ。
絶対的な悪は存在しても、絶対的な正義はあり得るのか。そうした問いが、ドラマの終盤で見る者に突き付けられる。そして、答えのないままエンディングを迎えた。問いは問いのまま、見る者のなかにあり続ける。靴に入った小石のように。
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公式HPより
『続・最後から二番目の恋』フジテレビ 木曜22時~ 7~9話
「鎌倉を舞台にしたスローライフなオトナの恋愛劇」という入れ物のなかに、仕事論・ドラマ論をも盛り込みつつ、多彩な世代の登場人物それぞれの「しあわせのありよう」を見つめていくという、じつに複雑なことをさらりとやり遂げているのがこのドラマ。
いや、「さらり」というのは見ているほうの勝手な言い分であって、作り手は四苦八苦かもしれないが、そのくらい「いい風が吹いている」ドラマであることは間違いない。
恋愛ドラマではあるものの、ここで提示されているのは「あたらしいホームドラマ」でもある。中井貴一演じる長倉和平を主とする長倉家のリビングダイニングには、家族はもちろん、隣に住む吉野千明(小泉今日子)が毎朝、朝食を食べにやって来るし、嫁いだはずの長女・典子(飯島直子)も何かとやってくる。昼間はカフェとして営業し、和平の娘・えりな(白本彩奈)のボーイフレンドの母親・薫子(長谷川京子)が手伝いに来たりもする。つまり、長倉家のリビングダイニングは内と外がゆるやかに連なる縁側であり、「あたらしいお茶の間」なのだ。
かつて、向田邦子が脚本を書いた『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』などに登場したお茶の間。家族ですらバラバラに食事をすることが当たり前のようになった現代、向田邦子的お茶の間空間はもはや幻想に過ぎないのかもしれないが、バラバラの人間がかろうじてひとまとりになれる空間が、長倉家の食卓にはある。
7話では、長倉家の面々がリビングダイニングで親戚の叔母さんのエピソードを延々と語り合うシーンがあった。若い頃、長髪にした和平を見て、床屋に行く金がないのかと憐れんだ叔母さんが泣きながら5千円札を握らせてくれた、という話から叔母さんの家で食べたカレーがおいしかった、というエピソードに着地する、とりとめのない話を、家族でも親戚でもない千明が同じテーブルで笑いながら聞いている。
カメラは、家族の思い出を懐かしそうに語る長倉家の面々から、次第にそれを聞く千明の顔を捉えていく。「なんだよ、そのいい話は。サザエさんか? ちびまる子ちゃんか、あんたたちは。何、日曜日の夕方感出してんだよ。まだ午前中だよ」などとツッコむ千明だが、「くだらない話を懐かしんだり笑い合える家族っていいよな」と思っているでろあろうことが、その表情からくみ取れる。
庭でまったりする千明が、隣に来た和平に向かって、「私がおばあちゃんになった時、日曜日の夕方にどんな顔してサザエさん見てるんでしょうね。笑ってますかね。笑っていたいな。っていうか、やってますかね、サザエさん、その頃」とつぶやくと、「きっと、あなたは笑って見てますよ」と和平が答える。じいさん、ばあさんになった時、サザエさんを笑って見ている自分でありたい。それは、日本に住む者にとって、いわば究極的な意味で理想の老後の姿かもしれない。そして、「あなたはおばあさんになった時、きっと笑ってサザエさんを見ていますよ」と言うのは、究極の愛情表現ではなかろうか。こんなことをさらりと言える和平は、大人の男だと思う。
とにかく、どれほどすったもんだがあろうとも、いや、あればあるだけ、和平と千明がふたりでしっぽりと語るシーンの良さが際立つのだ。
8話では、「またまだ分からないことだらけ、探してるものだらけ。そのほうが前に進めるというか、この先、もうちょっとだけ成長できる気がしません? でも、まだまだなのに、残された時間はどんどん少なくなっていく。やれやれですよ(和平)」「歳をとるのも面白いなと思って。分からなかったことが分かるようになって、分かったと思ったことがまた分からなくなって。まだまだですね、私たち(千明)」なんていう会話もあった。
9話では、「男の前で泣くくらいなら切腹する」とまで言っていた千明が、和平とサシ飲みしながら思わず泣いてしまう。ツラいことがあった千明の話をずっと黙ってうなずきながら聞いていた和平が、ぽつりと言う「私は好きですけどね。吉野さんみたいな、泣けない、系?」のひと言で千明の涙腺が決壊。ここでは、千明の愚痴とも心情吐露ともつかない話を和平が黙って聞くのがポイントなのだ。普段はああ言えばこう言うのふたりでも、いざという時にはじっくりと相手の話を聞く。ほんと、大人げないのに大人なのである。長倉和平って男は。
毎回書き起こしたくなるような珠玉のセリフの数々だが、きりがないのであとは本編をご覧いただくとして、「大人げないままこんな大人になりました」と歌い出す横山剣作詞・作曲のエンディングテーマ「T字路」(貴一・キョンキョンのデュエット)の通り、いつまでも大人になりきれない大人たちのしあわせの行方を見守りたい。
それにしても、鎌倉市の市長(柴田理恵)が市長秘書の和平に恋するエピソードは誰得なのだろう。美男美女のすったもんだだけだと視聴者が感情移入できないから、という理由なのだろうか。そこだけは謎。
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公式HPより
『リバースエッジ 大川端探偵社』 テレビ東京 金曜0時12分~ 7~9話
何かに囚われて生きている男たちがいる。それは、過去に出会った自分の人生を変えたある女だったり、一度も姿を見たことはない声の持ち主だったりするのだが、そのひとを探してほしいと探偵社に依頼を持ちかける男たちの物語が7話から9話とつづく。
7話「夏の雪女」の依頼者は、20年前の夏の夜、白いワンピースを来た若い女(國武綾)にいきなり路上で「助けてください」と懇願され、自分のアパートにかくまった経験がある中年男・蓑田(田窪一世)。仕事から帰ると、「冷蔵庫にあるものだけで作ったんですけど」と言って女は手料理を作って甲斐甲斐しく待っていた。今まで女性とそんな時間を過ごしたことのない男は、この突然の押しかけ女房的存在に心酔する。
3日目の夜、女は「抱いてください」と男に体を預けて...という、実にありえへん性的ファンタジーが繰り広げられるわけだが、この夜を最後に突然女は去っていく。そりゃあ、こんなことがあれば、男はこの女のことがずっと忘れられなくなるかもしれず、ある意味で人生を狂わされてしまうことにもなろう。この男は20年もの間、どこの誰かも分からない白い服を着た雪女のような女の幻とともに生きてきたのである。原作のマンガでは、この依頼者はその後結婚して子どももいるということになっているが、ドラマでは今も独身のさえない中年男として描かれる。明らかに過去の時間に囚われたままなのだ。
大川端探偵社の村木(オダギリジョー)は、依頼者の持参したバーのマッチを頼りに女の居所を探そうとするが、そのマッチを擦ろうとするとしけっていてうまく点かないことで20年の時間の経過を示す演出が冴える。
結局、依頼者がたまたまテレビで見た女優がその「雪女」だということに気づき、村木は女優と会う機会を得て過去について問いただすも、女優は否定。原作のマンガでは、村木が女優の脇の下にほくろがあることに気づく、という結末だったが、ドラマでは脇の下のくだりはナシ。その代わり、かつて女が男の部屋で最後の夜にすき焼きを食べるくだりで、「私、すき焼きだと卵たくさん食べちゃうんです」と言いながら生卵を6個も食べるというシーンがあるのだが、村木の前で女優が生卵の乗ったタルトだかパンケーキだかを食べることによって、やはり雪女はこの女優だったのか、と見る者が気づく仕掛けになっている。さらに、最後に女優が村木の元をもう一度訪ねて来ることで、依頼者だけでなく、女もまた過去の出来事に囚われていることが分かるというオチも。
8話の「女番長」では、空手の師範・梶原(橋本じゅん)が、かつて荒んだ高校で不良のいじめに遭っていた少年時代、女番長(吉倉あおい)に救われたことで強い男になる決意したことから、その人生の恩人に会ってあらためて礼が言いたいと願う。中年になった元・女番長はかつての梶原少年のことを良く覚えていないというあたりが切ないが、人生を変えた出会いなんて案外そんなものかもしれない。変えられたほうはいつまでもそのひとのことを憶え、囚われているが、変えたほうはすっかり忘れてしまっている、というような。
9話の「命もらいます」の依頼者は、遊園地の場内アナウンスの「声」に囚われ、その主に会いたいと渇望するオタク男(ボブ鈴木)だ。探偵社の村木と秘書のメグミ(小泉麻耶)の電話攻勢でアナウンスを担当した声優を突き止めるが、当然キモいオタクに会う理由などなく面会を断られてしまう。村木らは苦肉の策で替え玉の老婆を用意し、「あのアナウンスは60年前に録音したものだった」と言い張ってごまかそうとする。原作では、依頼者はこの作戦にまんまと引っかかるのだが、ドラマでは、アナウンスのあるフレーズが60年前に流通しているはずがないことを依頼者が見抜き、嘘が見破られてしまうのだった。
結局、依頼者は声の主に会いたいというリアルな欲望より、これまで通り遊園地に通ってアナウンスの声に繰り返しうっとりと陶酔することを選ぶ。生身の声優は年老いていくが、録音された声は永遠に若いまま。ここにもまた、幻とともに生きようとする男のいびつな姿がある。
過去の時間を巻き戻そうとする者、あるいは、ある時間のなかに永遠にとどまろうとする者。いずれもまた、同じくらい切なく、もの悲しいのである。
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2014 April-June vol.02
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『続・最後から二番目の恋』フジテレビ 木曜22時~ 4~6話
「鎌倉を舞台にしたアラフィフの恋愛ドラマ」という設定を借りつつも、さまざまな世代の恋愛や仕事、すなわち人生を複層的に描く本作。2012年のファーストシーズンからスペシャル版、そして今シーズンと見続けてきた者としては、時間経過とともに歳を重ねる登場人物たちに対してもはや奇妙な愛着が生まれているわけだが、思えばそれは同局の長寿ドラマ『北の国から』をも彷彿とさせる。朝ドラや大河ドラマは別にして、基本3ヶ月で切り替わってしまう連ドラではなかなかここまで辿りつけるものではないが、海外ドラマを見れば分かる通り、長く続けることで生まれる愛着というものは確かにあるのだ(もちろんその一方でマンネリの危険も)。
さて、テレビプロデューサー千明(小泉今日子)の元に舞い戻ってきた年下の元カレで「食えない脚本家」の涼太(加瀬亮)。千明の大抜擢で新作ドラマのホンを任されたまでは良かったものの、出来上がったのは「死ぬほどつまらないホン(by千明)」だったという笑えない展開に。クリエイティヴな仕事をしている恋人同士、あるいは夫婦にも当てはまる、「もしパートナーがヒドいものをつくってしまった時に何と言えばいいのか問題」がここで浮上する。はっきりと言うのが愛情なのか、否定せず励まして奮い立たせるのがやさしさなのか。迷う千明の気配を察し、涼太はみずから口を開く。
「つまんないよね。ひとりよがりでどうにもならない、チラシの裏にでも書いてろって感じ。恋愛ドラマとか言ってるのにドキドキもなければキュンともこない。セリフに魅力もないし、意味ありげなかっこつけたセリフが続いてるだけで、陳腐だしイライラするよね。それに登場人物全員トラウマだらけでトラウマ頼りかよ、みたいな。自分で読み直して、こいつ辞めたほうがいいなって」
そんなにヒドいのか? 長年温めてた話とか言ってたのに!? と思わずズッコケてしまったが、まあ「俺まだ本気出してないだけ」と思うのは自由でも、実際に本気出した結果がヒドかった場合、果たしてどうなるのか。涼太の場合、若くしてシナリオ大賞を受賞してデビューという華々しい過去があるだけに、自分の書いたものがつまらないと認めるのはかなりしんどいことだったに違いない。
しかし、早朝の海を眺めながら千明の元を去る涼太の姿は、どこか吹っ切れたようにも見える。海岸でたまたま出くわした鎌倉市役所勤務の長倉和平(中井貴一)は、海に向かって手を広げながら「鎌倉は、いつまでもこのままで待ってますから」と涼太を見送る。鎌倉に来ておのれの才能のなさと向き合うことになった涼太は、それでも鎌倉という街と人に少しだけ癒されて去って行ったのだろう。「本当に疲れたら、また来ます」と言い残して。
このドラマは、鎌倉という街と、和平を主(あるじ)とした長倉家とその隣にたまたま住む千明を含めた疑似家族の小さなコミュニティの話でもある。そういえば、カマクラとナガクラは似ている。長倉家と千明の家は、もはや別棟のシェアハウスのようだ。
和平は妻に先立たれた独身の52歳、千明は「未婚のプロ(byジェーン・スー)」の48歳。職場や男女間のすったもんだがあっても、家に帰るとすぐ隣に同世代の異性の飲み友だちがいるというのは案外悪くないものかもしれない。ふだんは言い合いが絶えない和平と千明がしっぽりサシ飲みするシーンには、毎度しみじみとした雰囲気が漂う。
今後、このふたりが結婚するのかしないのかは分からない。が、仮に千明が急に家で倒れても絶対に孤独死にはならないだろうな、と考えると、こうした血縁なきコミュニティはこれからあちこちで増えていくのかもしれないし、そうしたとき、長倉家と千明の関係性は一種のロールモデルになり得るのかもしれない。まあ、現実には恋愛が絡むともっとドロドロするのだろうが。
第6話では、長倉家の二男・真平(坂口憲二)と和平の部下・知美(佐津川愛美)の結婚式が描かれていたが、さながら友だちや知り合いの結婚式を見ているような幸福な気分に包まれるドラマ前半のクライマックスといえる回だった。新婦が長倉家の女性陣たちと女子版バチェラーパーティーで盛り上がるなか、真平が兄の和平に「今までありがとうごさいました」と涙ながらに感謝のことばを告げるという男女逆転の構図もおかしかった。
○歳で結婚して○歳で子どもが生まれて〇歳で子どもが独立して...などというイメージ通りにいかないのもまた人生だったりするわけだが、本作は「人生はこうでなければいけない」という既存の価値観とは別の「もうひとつの価値観」の尺度を提示しながら、家族とも会社とも異なる「もうひとつの場所」のありようを示しているようにも思える。
大人のファンタジーかもしれないが、どこかリアルでもある。
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公式HPより
『リバースエッジ 大川端探偵社』 テレビ東京 金曜 0時12分~ 4~6話
「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」とはチャップリンのことばだったろうか。このドラマの真骨頂は、悲劇と喜劇が表裏一体となった世界観にある。
たとえば、4話「アイドル・桃ノ木マリン」、5話「怖い顔グランプリ」、6話「がんばれ弁当」に漂うおかしみと哀しみはどうだろう。
昔、ナマで見て以来ファンになったアイドルにどうしてももう一度会って人生をやり直したいと願うリストラされた中年男、顔が怖すぎてテロリスト呼ばわりされる手作りパン屋さん、留守中に弁当を届けるファンとあわよくばヤリたい売れない芸人。事件でも何でもない珍奇な依頼を持ちかける者ばかりが大川端探偵社を訪れるのだが、いずれも笑えるのに、どこか哀しくて切ない。まるで上質の落語を聴いたあとのようなじんわりとした余韻が残るのだ。無理に笑わせるでも無理に感動させるでもない、「そこはかとなく」の塩梅がいい。
基本ワンアイデアといえる1話完結の原作マンガ(作・ひじかた憂峰、画・たなか亜希夫)のどこを膨らませ、どう改変したのかを原作と照らし合わせながら見ていくのもひとつの楽しみ方といえるだろう。脚本・演出の大根仁はディープなマンガ読みとしても知られ、『モテキ』等のマンガ原作の映像化が多いこともあり、原作のテイストを最大限に活かしたうえで映像として立体化させる手さばきには唸るしかない。
たとえば、「アイドル・桃ノ木マリン」は、原作では離婚したばかりの中年男が現在のマリンと再会してただ茫然とするところで終わるのだが、ドラマでは設定をリストラされた中年男(マキタスポーツ)に変え、マリンとの再会だけでなく、その後の第2の人生をも見届けようとするやさしさが光る。
「怖い顔グランプリ」は、原作では秘書・メグミ(小泉麻耶)の付けているウサ耳に特に意味はないのだが、ドラマではメグミのいたずらでウサ耳を付けられた所長(石橋蓮司)と村木(オダギリジョー)が「かわいいー」とからかわれていると、とてつもなく怖い顔の依頼者が訪ねてくるというツカミになっている。「かわいい」から「怖い」への対比が一瞬にして鮮やかに描かれ、メグミがバニーガールの店で働いているエピソードへと連なり、そのバニーの衣装がクライマックスの怖い顔グランプリのステージで活かされることになる。しかも、メグミから怖い顔のパン屋への贈り物もカブリもの(自分をキャラ化するアイテム)つながりになっているという巧妙さ。
上手い! おーい山田くん、座布団やってくれ。である。
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公式HPより
『BORDER ボーダー』 テレビ朝日 木曜21時~ 5~7話
刑事もの・事件もののドラマが乱立するなか、俄然本作が面白い。仕事が生きがいの刑事・石川安吾(小栗旬)は、事件発生の連絡を心待ちにするようなワーカホリックゆえ、友人や恋人と疎遠になってもさして気にしない人間味の薄い男だった。ところが、ある事件をきっかけに死者と話すことができる能力を身に付けてしまったことで、次第に人間としての感情を取り戻していくのだが、それが正義という名の暴走と化していく辺りがこのドラマの面白さであり恐ろしさだ。行き過ぎた正義は悪とイコールという危うさもきっちり描いている。
脚本家の宮藤官九郎が死者の役でゲスト出演した5話は、これまでの流れからすればやや異色のコメディタッチの回だったが、ここでは石川と死者の岡部はさながらバディのように事件の真相を追うことになる。石川は死者の姿が見え、話すことが出来るが、岡部は死んだ瞬間に頭を打って記憶喪失になってしまったため、なぜ自分が死んだのかが分からない。そもそも自分がどこの誰だかすら分からないのだから、死者と対話が出来てもただちに真相には辿り着けない、というなんとも皮肉な展開に。
「コンビニをあたってくれ」との班長(遠藤憲一)の指令に、石川らと交じって神妙な面持ちで「はい」と返事をして走り出す岡部。完全に捜査班の一員のつもりなのがおかしいが、究明しようとしているのは他でもない自分の死なのだ。結局、岡部が死んだのは思わずズッコケるような理由によってなのだが、しかし、案外人間はこんなことで死ぬこともあるのではないかとも思える不思議な説得力がある。そして、実は岡部が死んだ理由の伏線となるシーンが前半の石川のあるアクションに隠されいるのは決して偶然ではないだろう。このドラマでは、伏線や裏の意図があちこちに仕込まれているからあなどれないのだ。
なにより、「死者と会話が出来る」という設定を毎回手を変え品を変え多面的に転がしていく金城一紀の脚本がすばらしい。1話完結のなかに2時間ドラマか1本の映画でも使えそうなプロットを惜し気もなく投入し、「そうか、こういう展開の仕方もあるのか!」と驚かせる辺り、まだまだアイデアは尽きそうにない。
抑制のなかに感情の起伏を覗かせる小栗旬のたたずまい、検視官を演じるクールビューティー波瑠の意志を感じさせるまなざし。気が早いかもしれないが、ぜひともシリーズ化を期待したい。
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『ロング・グッドバイ』NHK 1~5話
土曜ドラマ枠の『ロング・グッドバイ』は5月17日に全5話の放送が終了してしまったが、今期の注目作のひとつだったこともあり、少し触れておきたい。
「ハードボイルドの金字塔」といわれるレイモンド・チャンドラーの小説『長いお別れ』(1953年発表)を、舞台を戦後の日本に置き換えてドラマ化すると知ったときには驚いた。しかし、脚本を映画『ジョゼと虎と魚たち』や『メゾン・ド・ヒミコ』、朝ドラ『カーネーション』などで知られる渡辺あやが手掛けるというのでかなりの期待をもって見始めたのだが、1話を見た時点で少々面食らってしまったのも事実だった。
私立探偵フィリップ・マーロウは増沢磐二、富豪の娘のヒモ亭主テリー・レノックスは原田保など、登場人物はすべて日本人に置き換えられてはいるものの、ストーリーはほぼ原作に忠実。面食らったのは、まず、増沢がある事件と深く関わるきっかけになる、保との出会いのシーンだ。保が上半身裸の上にシャツを羽織る背中をカメラがスローモーションで捉え、その姿をねっとりとしたまなざしで増沢が見つめるのである。原作では、探偵と「憎みきれないろくでなし」のテリーとの奇妙な友情が描かれ、マーロウはテリーとの友情のために事件に深く関わることになるのだが、ドラマでの描写では、友情というよりもむしろ性的なニュアンスが濃厚だったのだ(少なくともそう見える演出になっていた)。
いや、そもそも原作にもそうしたニュアンス(今でいうBL的な)があるという意見もあるかもしれないし、なぜマーロウがほんの数回会っただけのテリーにそこまで肩入れするのかという理由も、「惚れたから」といわれれば済む話なのかもしれないが、「え? そういう話だったっけ?」というのが1話を見た正直な感想だった。女性脚本家がハードボイルドを描くとBLになるのか。自身のフェティッシュな欲望を解放するためにチャンドラーが引用されているのではないか、とすら思えた。
思い出したのは、ジュリーこと沢田研二が3億円事件の犯人を演じたドラマ『悪魔のようなあいつ』(1975年)だ。超絶美青年だった頃のジュリーが演じる可門は3億円強奪犯の男娼で、その仕事をあっせんするバーの経営者・野々村(藤竜也)は可門に惚れているというとてつもない設定のドラマだった。スタッフ、キャスト全員が何らかの物質をキメて撮影に臨んでいるのではないかと思うほどドラッギーかつダウナーなドラマなのだが、どうもそれと同じようなスメルを嗅ぎ取ったりもした(あくまでもイメージです)。という目で見ると、綾野剛がジュリーに、浅野忠信が藤竜也に見えてくるから不思議だ。
もっとも、話が進むうちに、事件のカギを握る流行作家の美人妻・上井戸亜以子(小雪)に増沢が魅了されるようになるので、どうやらゲイではないらしいことは分かるのだが、1話の耽美的ともいえるトーンはそのまま踏襲されているので、なかなか当初のイメージから抜け出せずにいた。物語のテイストは、実業家・原田平蔵(柄本明)が増沢と対峙する辺りで変わり始める。新聞社と出版社を持ち、テレビ局をつくり、政界にも進出しようと目論む原田のキャラクター設定は、どこから見ても読売新聞とジャイアンツと日テレをつくり原発を推進した正力松太郎を連想させる。街頭テレビをスタートさせた原田は、増沢を前にこう持論を展開する。
「戦争でこの国にはどでかい穴が開いた。それをこれからこのテレビジョンが埋めるのだ。かつて信じられていた仁義、礼節、忠誠は戦争によって灰になった。大衆はそれで不安になっている。それは一種の癖だ。みんな血眼になるものを探しているが、その癖そのものを直せばいい。せんないことに思いわずらうことをやめ、ただテレビジョンを見る。プロレスに興奮し、音楽とともに踊り、落語に笑い、頭をただからっぽにするのだ。そこにテレビジョンという風が流れていく。悩みを忘れ、笑いと興奮に満たされる。ゴミが詰まるよりは、からっぽのほうがずっとマシなんだよ」
メディアによる大衆洗脳論を得意げに披露する原田に、増沢は噛みつく。「それが自分の使命だなんて正気ですか? 飢えた子どもに酒を与えるようなものですよ。それは人間にとってもこの国にとっても最も大事なものを奪い取るのと同じだ」と。
この辺りでようやくこのドラマがハードボイルドという入れ物を使って何を言おうとしているのかが見えてくる。戦争という国家による「右向け右」の時代が終結したと思ったら、今度はテレビジョンというあたらしいメディアを携えた巨大な権力が台頭して大衆を洗脳し始める。長く大きなものに巻かれ、「豊かさ」「明るい未来」という名の夢に希望を託し、頭をからっぽにして突き進もうとする国民たち。過去の教訓は活かされず、宗教的な熱狂は何度でも繰り返される。
最終話、街角に貼られた原田平蔵の選挙ポスターには「原子力」の文字が躍り、東京オリンピック開催決定に大衆が浮かれる。映像はそのまま一気に50年もの時を超え、カメラは2020年の東京オリンピック開催告知を映し出す。問題は解決されず、大衆は何も変わらない。戦後と今はそのまま地続きなのだ。
時代の波に翻弄され、押しつぶされる者もいれば、その波をかいくぐり、したたかにサヴァイヴする者もいる。翻弄され、押しつぶされる者の象徴が上井戸亜以子だろうか。ちなみに彼女が握りしめていた蘭の花言葉は「変わらぬ愛」だ。つまり、この物語は「誰かが誰かに対する思いを貫き通す」という意味で純愛の物語だともいえる。
増沢磐二という男は、そのいずれにも属さず、あくまでも「個」として得体の知れぬ薄気味悪い巨大な何かに抗おうとしている。その結果、時代からスポイルされたとしても、損得ではなく、個としての生き方を貫く。つまり、ハードボイルドとはそうした生き方のことであり、言ってみれば「やせ我慢の美学」なのだ。
というメッセージは、全5話を通して見るとヒシヒシと感じることはできるし、
これをテレビで言うのは勇気のいることだろう。日テレだったらこの脚本は通らなかったかもしれない。だが、どうしてもメッセージだけが浮いているというか、すんなり物語のなかに溶け込んでいないようにも思えるのだ。チャンドラー風の比喩を使えば、まるで鍋のなかでカレーのルーが溶けずに欠片が残っているかのようだ。←違う気がする。
ハゲタカ』『外事警察』を演出した堀切園健太郎による凝りまくった映像は見応え十分だし、ただそのフェティッシュな画面に浸っていればいいのかもしれないが、見ていて増沢磐二という男の人物像にあまりかっこよさが見出せなかったのは、包容力やユーモアが希薄だったせいだろうか。どんな客にも(招かれざる客にも)必ずコーヒー豆を挽いて出す増沢の流儀は、とても良かったが。
そして、『あまちゃん』の音楽で大人気となった大友良英も、プッチーニのオペラから映画『タクシードライバー』まで、さまざまなオマージュを散りばめた劇伴で今回もいい仕事をしていた。それにしても、戦後の闇市を舞台にした黒澤明の映画『酔いどれ天使』の挿入歌『ジャングル・ブギー』(作詞・黒澤明、作曲・服部良一、歌・笠置シヅ子)を使うのは誰のアイデアだったのだろう。
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2014 April-June vol.01
4月スタートのドラマについて、4月半ばには第1弾を書くはずが出遅れてしまったのは、何を採り上げるべきか今ひとつ決めかねていたからだ。『モテキ』『まほろ駅前番外地』の大根仁が脚本・演出を務めるテレ東深夜の『リバースエッジ 大川端探偵社』、前シリーズも面白く見ていた小泉今日子・中井貴一共演のドラマの続編『続・最後から二番目の恋』の2本はすぐに決まったのだが、あと1本が難しい。とりあえず、ほぼすべてのドラマの初回をチェックしたが、ドラマとしては面白く見たものの、ここでわざわざ掘り下げるべき何かが足りない気もしつつ、2話、3話と回を重ねていくうちにこんな時期になってしまった。
視聴率的には、朝ドラ『花子とアン』も絶好調だし、『半沢直樹』の池井戸潤原作、杏主演の『花咲舞が黙ってない』(日本テレビ・水曜22時)も好成績、『半沢』と前期朝ドラ『ごちそうそん』の余波はいまだに続いているようだ。あるいは、「脱のだめ化」に苦戦している感のあった上野樹里主演の『アリスの棘』(TBS・金曜22時)も、私怨をはらすために組織内部に入り込み復讐を目論む主人公という、これまた『半沢』路線と言うべき設定で高視聴率をマーク。
が、当初から宣言している通り、ここで採り上げるドラマは視聴率の高さや話題性というよりは、語るべき意味のある(と思われる)ドラマについて語ることを旨としている。「俳優の〇〇さんかっこいいー」「続きが気になるー」といった見方こそが純粋なドラマの楽しみ方なのかもしれないが、時には深読みをしたり、裏の意図を読み解いたり、ディティールを楽しむこともまたドラマ視聴の醍醐味でもあるのだから。
といったことをひっくるめて、今期は次のようなラインナップになった。結果的に、数字も評価もそれなりに高いドラマになったのは偶然ではなく、今のテレビドラマの充実ぶりを示す証拠だろう。
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公式HPより
『リバースエッジ 大川端探偵社』金曜0時12分~ 1~3話
むかし食べたワンタンの味が忘れられず、どうしてももう一度食べたいと願うヤクザの組長。昭和50年代ごろ、浅草界隈にあったという「鏡越しに隣の部屋のセックスが覗けるラブホテル」を探している変態夫婦。自分を指名するものの一切プレイはせず、ある日いきなりプロポーズをしてきたエリートサラリーマンの身辺調査をしてほしいと言うデリヘル嬢......。
東京・浅草、隅田川沿いに事務所を構える「大川端探偵社」には、普通の探偵社や興信所にはまず来ないであろう、一癖も二癖もある依頼者が日々おとずれ、奇妙な依頼ごとを持ちかける。
脚本・演出は深夜ドラマ界で異彩を放ちつつ、2011年の『モテキ』以降は映画にも進出している大根仁。(※大根監督にこちらでインタビューをしているので、ドラマのお供に、ぜひ)。
裏社会に精通しているらしい所長(石橋蓮司)は持ち前の情報網を駆使し、調査員の村木(オダギリジョー)はひたすら街を歩き聞き込みをする。受付嬢のメグミ(小泉麻耶)はセクシーな衣装でウロウロし......いや、依頼者にお茶も出すし、時には調査のサポートもする。
事務所のメンバーはこの3人のみ。「お互いのことは干渉しないことにしている」と所長が言うとおり、彼らにどのような背景があるのかは、ほぼ描かれない。かつて所長が裏社会に人脈を持つきっかけになった仕事に就いていたらしいことや、メグミが探偵社の仕事の他に夜は風俗嬢をしていることが分かるくらいだ。その代わり、依頼者の側の奇妙で、おかしくて、そして哀しい人生が色濃く起ち上がってくる。主役はむしろ依頼者側と言っても良い。
しかし、一通り調査が終了し、EGO-WRAPPIN'が奏でるメロウなエンディング曲が流れる頃には、依頼人の人生が、所長や村木、メグミという3人を通して切り取られ、一瞬だけあぶり出されていることに気づく。この3人なくして、この話は成立しなかったのだ、と。『探偵ナイトスクープ』でいえば、依頼の内容も重要だが、誰が調査するのかもまた重要なのだ。
第1話の「最後の晩餐」は、原作コミックではFile.06にあたるが、この話を初っ端にもってきたところに、大根監督の「このドラマはこういう話です」という意図を明確に感じる。
浅草に進出した関西の大規模なヤクザ組織に、もはや組長と組員2人きりになった地元の弱小組が殴り込みに行く。その最後の晩餐にどうしても忘れられない味のワンタンを食べたいと組長は願う。
ところが、そのワンタンは、高級食材を駆使したものでもなければ一流シェフの手によるものでもなく......おっと、ここから先はオチになるので避けるが、そのワンタンこそが『リバースエッジ』というドラマの象徴であり、深夜ドラマのありようだといえる。絢爛たる高級感で勝負するわけではないのに、人々の記憶に残るフックのある味わい。
さらに、巨大組織にたった2人で殴り込みをかける組長と組員の姿は、プライムタイムに対する深夜ドラマの立ち位置そのものではないか、などと深読みすらしたくなるのだ。
プライムタイムの枠組みから解き放たれたオダギリジョーは、大根監督が用意した世界を実に気持ち良さそうにたゆたっているように見える。所長を演じる石橋蓮司の含蓄ある物言いにもシビれるし、小泉麻耶ののびやかな肢体はドラマに躍動を与えている。各話のゲストも絶妙な配役がなされ、申し分ない。
深夜ドラマのひとつの到達点を示す快作だ。
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公式HPより
『続・最後から二番目の恋』木曜22時~ 1~3話
2012年1月期に連続ドラマが放送され、同年11月には単発のスペシャルドラマとして復活、この度めでたく続編の放送がスタート。この流れからしても、本作がいかに数字的にも内容的にも好調なのかがわかるだろう。連ドラの初回から欠かさず見ていた筆者も、続編決定の報を知り小躍りした。
設定としては「アラフィフの恋愛ドラマ」ではあるものの、多種多様な登場人物のすったもんだが繰り広げられるため、幅広い世代が楽しめるつくりになっている。脚本は、『ビーチボーイズ』や『ちゅらさん』、最近では『泣くな、はらちゃん』も記憶に新しい岡田惠和、演出は『風のガーデン』などの倉本總ドラマの演出や『それでも、生きてゆく』『最高の離婚』などで知られる宮本里江子(ご存じのひとも多いだろうが脚本家・山田太一の娘である)。おそらく、このドラマの発想の原型はビリー・クリスタルとメグ・ライアンが出演した映画『恋人たちの予感』(1989年、ロブ・ライナー監督)だと思うが、エピソードを重ねることで、もはや別の次元に辿り着いていると言えるだろう。
テレビドラマのプロデューサー千明(小泉今日子)は、仕事仕事で生きてきて、気づいたらアラフィフのおひとりさまになっていた。「老後」なんぞも頭をよぎり、憧れの鎌倉の古民家でひとり暮らしを始めることにする。隣家の長倉家には、鎌倉市観光課に勤務する堅物の長男の和平(中井貴一)、寂しそうな女性を見るとつい相手をしてしまうことから「天使」と呼ばれる次男の真平(坂口憲二)、コミュ障気味の真平の双子の姉・万里子(内田有紀)など、個性的な面々が暮らしている。アラフィフ同士の千明と和平は顔を合せれば口論ばかりだが、どこかシンパシィを感じ合う同志のようでもある。
というのが物語の入口なのだが、とにかく千明と和平の減らず口合戦が最高におかしい。中井貴一と小泉今日子だから成立するであろう小気味いい掛け合いのテンポ、アドリブではないかと思われるフレーズの応酬など、たかが「おとなのけんか」がエンターテインメントに昇華されていることに毎度感心させられる。
続編の第1話でも、初っ端からおよそ15分にわたって千明と和平の口論が描かれていた。
結婚が決まった真平の引き出物を決めるために本人の代理で千明と和平が式場を訪れる。名前入りの鎌倉彫はもらっても邪魔になるし実用的じゃないと文句を言う千明に、「思い出であり、縁を再び結びつけるもの」と主張する和平。裏に名前が掘ってあるからこそ、もらったひとは何年もしてからその結婚式のことをなつかしく思い出すのだ、と。あるいは、仕事に疲れたサラリーマンが引き出物を下げた集団とすれ違う。そうか、今日は日がよかったのか。大安かな。俺はこんなに疲れてるけど、今日幸せな日を迎えた人がいたんだ......。「そういうささやかなことが日本人のもっている情緒なんじゃないですかね」と鼻息を荒くする和平に、「向田邦子か!?」「昭和を懐かしむ、ちょっといい話のエッセイかっつってんですよ」とツッコむ千明。
このやりとりがおかしいのは、小泉今日子自身は向田邦子ファンを公言しており、かつて向田ドラマの演出で知られる久世光彦作品にも出演したことがあるからだ。こんなセリフをキョンキョンに言わせるとは、なんという皮肉!
続編では、千明は管理職となり、現場から離脱。和平は鎌倉市が世界遺産登録を逃した懲罰人事(?)で観光課と市長秘書を兼任させられるハメに。前シリーズでは45歳だった千明は48歳に、50歳だった和平は52歳となり、もはやふたり合せて100歳になってしまったわけだが、登場人物が時間の経過とともにきちんと歳を重ねていくところがこのドラマの良さでもある。もちろん、視聴者も彼らと同じように歳をとっているわけだが。
第1話では、千明のこんなモノローグもある。
「人が大人になるということは、それだけ多くの選択をしてきたということだ。何かを選ぶということは、その分、違う何かを失うということだ。大人になって何かを掴んだよろこびは、ここまでやったという思いと、ここまでしかやらなかったという思いを同時に知ることでもある。だからこそ、人は自分の選んだ小さな世界を守り続けるしかない。選択が間違っていると認めてしまったら、何も残らないから」
大人になることで、何を得て、何を失ったのか。アラフィフでなくとも、思わず自分の胸に問い掛けてしまう言葉ではなかろうか。このドラマでは、時おりこちらの人生を問うようなシリアスなモノローグが聞こえてきてハッとさせられる。
第2話で、かつて千明をポストイットに書いたメモ一枚でフッた男・涼太(加瀬亮)が千明の前に舞い戻ってくる。千明が務めるテレビ局の脚本コンテストで大賞をとったものの、その後はくすぶっている「書けない脚本家」だ。千明をサポートしたい一心で脚本家になる決意をした万里子ともども、彼らにまつわるエピソードは明確なドラマ論、ドラマ脚本論になっていて興味深い。ドラマが「ドラマづくり」を描くなると、ともすれば内輪受けというか楽屋落ち的になりがちなところ、そこは岡田惠和、物語の中に実に巧みに持論を落とし込んでいる。
第3話では、千明の隣の班が進めていた次クールの連ドラが主役の都合で飛び、その空白を千明たちが埋めることになる。放送日が迫っているため、企画、役者ゼロの段階で急遽つくらねばならず、急場の仕事ゆえ、管理職の千明がプロデューサーに復帰。何やら最近実際にあった件を連想させるエピソードでもあるが、事故処理みたい形でつくらなければならないドラマも実際にあるんだろうな。
千明が脚本に抜擢したのは、涼太と万里子だった。ふたりを前にして千明は言う。
「万里子は構成力があってストーリーを緻密に組み立てるのが得意。いろんな意見を臨機応変に採り入れてつくり上げる力がある。ただ、最初から現場に必要なホンを提供してきたから自分から発信したことがない。高山涼太は、ゼロから自分の書きたいものを書いて認められたひと。でも、それだけ。最初は書きたいものがいっぱいあったけど、これは嫌だ、こういうのは好きじゃない、ありがちだ、くだらない、大衆に迎合し過ぎだと言って、やりたくないものが増えて、何が書きたいのか分からなくなってしまった。ドラマは、万里子的なものと高山涼太的なものの両方がないとつまらない」
千明が、自分から逃げて行った涼太をふたたび受け入れ、仕事に抜擢したのは、過去の痛い記憶を新しい思い出で塗り替えようという意志の表れでもあった。ツラい、痛い過去の記憶を上書きすることで、それを克服しようとしているのだ。
ところで、高山涼太がコンテストで大賞をとった脚本のタイトルが『絶望の国の恋人たち』で、その後自分で何が書きたいのか分からなくなったという設定は某脚本家を連想させもするのだが、考え過ぎだろうか。
しかし、本筋とは関係がない部分でのくすぐりもまた、このドラマの魅力だ。たとえば、第3話では、和平がなかなか昼飯にありつけない様子が繰り返し描かれていたのだが、あれはサラリーマンの昼飯を取材する番組『サラメシ』(NHK)のナレーターを中井貴一が務めている前提があってのことだろう。こうした遊びを入れる余裕があるのも、ドラマづくりがうまくいっている証かもしれない。
クレイジーケン バンドの横山剣が作詞・作曲し、小泉今日子と中井貴一がデュエットする『T字路』をバックに出演者がミュージカル風に踊るエンドタイトルも実に楽しい。
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公式HPより
『BORDER ボーダー』 木曜21時~ 1~4話
今期もあいかわらず刑事物、事件物のドラマは多く、若干食傷気味な視聴者も多いかもしれないが、丁寧に見ていけば、そうしたカテゴリーの中でもちょっと変わったことをやっていたり、「お!?」と思わず前のめりになるドラマもあるからあなどれない。今期でいえば本作がまさにそう。テレ朝の木曜21時という鉄板の『相棒』枠で「あたらしいこと」をやろうとしている感がビシビシと伝わってくる。
原案・脚本は作家の金城一紀。直木賞受賞作『GO』は2000年に窪塚洋介主演で映画化され、当時の映画賞を総なめにし、ここ最近ではヒットシリーズになった『SP 警視庁警備部警護課第四係』の原案・脚本を手掛けたことでもおなじみだ。
メイン演出は、ドラマ『相棒』シリーズや映画『探偵はBARにいる』などの橋本一が手掛けている。第1話から、予定調和的ではない練られたセリフとモノローグ、映像の緊張感でグイグイと物語を引っ張っていく。
ある事件で犯人に銃で撃たれたものの、奇跡的に命をとりとめた刑事・石川安吾(小栗旬)は、これをきっかけに死者との対話ができるという不思議な能力が備わってしまう。果たして本当に石川には死者の声が聞こえているのか、はたまた頭に撃ち込まれたままの弾丸が脳の何かを刺激して幻覚を見せているだけなのか、真相はわからない。
1話では、殺された一家と対話することで速やかな犯人逮捕に成功した石川だったが、2話では石川らに踏み込まれた監禁殺人事件の犯人が目の前で自殺、石川の前にだけ死んだ犯人が姿を見せ、まだ殺していない被害者がいると挑発してくるというトリッキーな展開となる。
死者と対話ができるということは、殺された被害者に「あなたを殺したのは誰ですか」と直接聞くことができるということに他ならない。だったら話は早いでしょ、すぐに犯人を捕まればいいんだし......と考えるのは性急過ぎる。もちろん確固たる証拠がなければ逮捕には踏み切れないし、「証拠はないけど俺には犯人がわかってるんです」と周囲に訴えたところで頭がいかれたと思われるだけだ。ここから、石川のジレンマがはじまる。
死者と対話ができるようになって以来、最短距離で犯人を逮捕したい一心の石川の捜査は、怪しげな情報屋やハッカーなど、裏社会に生きる者たちに接近するヤバいものになっていく。死の恐怖を目の当たりにし、そこから再び生還したものの、頭に弾丸を抱え、いつ死ぬかもしれない恐怖と隣り合わせの石川にとって、人の命を奪う者は何があっても許さないという純粋な正義が芽生える一方、その手法はダークサイドに足を突っ込む違法なものになっていくという矛盾が面白い。生と死のボーダーをさまよった男が、善と悪のボーダーをもさまようことになるのだ。
ともすれば、警察の活躍をヒロイックに描こうとするあまり、段取り的に次から次へと人が殺されていく刑事ドラマがはびこる中、本作が異色なのは、殺人という絶対悪を死者の無念を通して掘り下げようとしている点だろう。「人が人を殺すというのはどういうことなのか」「人は死んだらどうなるのか」という大前提を、一見トリッキーな設定の物語に落とし込むことに成功している。
「個人的にはあまり親切に何でも説明し過ぎるのはどうかと思うんです。観終わった後に異物感が残るというか、ドラマを見てベッドで眠りに落ちるまでストーリーに描かれなかった部分をずっと想像してしまうような、余韻のあるラストを残しておきたい」と金城一紀は番組公式サイト内の「BORDERの作り方」で述べている。単に「はい殺人事件です、はい警察が活躍します、犯人捕まりました、めでたしめでたし」という勧善懲悪とは一線を画す、まさにボーダーを行き来するスリリングなドラマだといえる。
2話から登場する石川が捜査の協力を仰ぐ2人組のハッカー、サイモン&ガーファンクルのキャラクターもユニークだ。演じるのは浜野謙太と野間口徹(お互いをサイ君、ガー君と呼び合う)。サイモン&ガーファンクルのアルバム『ブックエンド』でお馴染みの黒のタートルネックを着用し、事務所にはジャケットを模した2人の写真が飾られていたりする。
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金城いわく、「ハッカーっていうと、美少年か太っているか、みたいな定番があるじゃないですか。それはやめようと」(公式サイトより)ということだが、確かに銀縁メガネのいかにもオタク然としたハッカーというステレオタイプを覆すキャラクター設計だ。こういう細かいディティールが予定調和的ではないところも好感が持てる。
他にも特別検死官・比嘉ミカ(波瑠)は沖縄出身で祖母はユタ(巫女)という裏設定などもあるらしい。だから、比嘉だけが石川の死者と対話できる力に唯一気づいていて、しかもどこか羨ましくも思っているのだという。こうした物語上では直接描かれない背景がしっかりあるからこそ、各々のキャラクターに厚みが出るのだろう。
「また刑事物か」と言って見過ごすには実に惜しいドラマであることは間違いがない。
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2014 January-March vol.05
2014年1月スタートのドラマが3月で軒並み最終回を迎えた。本稿は、最終話の結末にも触れているので、各ドラマを録画したまま見ていないひとや、今後DVDなどで視聴するつもりのひとは注意されたし。ただし、結末が分かったからといって面白さが半減するわけではないと思う。筆者はこの原稿を書くにあたって録画したものを各話2、3回繰り返して見ているが、初回よりも筋を知っている2回目以降のほうが、より深く内容を理解することができた(大抵の場合、初回は展開を追うことに終始する)。ここで採り上げたドラマは、いずれもリピート視聴に十分耐え得る良作揃いである。
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公式HPより
『明日、ママがいない』8~9話  日本テレビ 水曜22:00~
このドラマでは、登場人物たちの本音や本心はなかなか表面には表れない。象徴的なのが、児童養護施設「コガモの家」の子どもたちが里親候補の家に行く、いわゆる「お試し」のくだりだろう。子どもは理想的な子どもを演じようとし、里親になるつもりの大人たちもまた、理想的な親を演じようとする。いわば、お互いが共同でフィクションをつくり上げようとするわけだが、そこに果たして一筋の真実は生まれるのかどうか、というのが本作の重要なテーマでもあった。
8話で、里親候補の川島(松重豊)と美鈴(大塚寧々)のもとへお試しに行ったドンキ(鈴木梨央)は、美鈴に向かって「ねえ、私を産んだとき、痛かった?」と聞く。もちろん、美鈴はドンキを産んではいないから痛いはずはないのだが、話を合せて、いかにも本当の親が幸せな思い出を語るようにふるまう。つまり、両者とも芝居をしているのだが、こうしたやりとりは、逆にドンキを不安にさせる。「幸せすぎて、いつかそれがまた壊れるんじゃないか」と。
コガモの家では、ピアノの腕前が天才的なピア美(桜田ひより)が、ピアノコンクールの全国大会への出場を控えていた。「ピアノの腕前とこの美貌で美人ピアニストとしてデビューして...」と夢想するピア美だが、本音はそんなことより、自分を見捨てた父親とたとえ貧乏でもいいから一緒に暮らしたいと願っている。その思いがコンクール当日、ステージの上で爆発、こっそり会場に来ていた父親の胸を激しく揺さぶることになる。
そうこうするうちに、里親が決まりかけたドンキのもとに実の母親がふらりとやってきて連れて帰ると言い出す。話を聞きつけ、里親候補の川島夫妻も慌てて施設を訪れ、実の親とドンキの手を引っ張り合う格好になるが、痛がるドンキの声を聞いて里親候補の美鈴は思わず手を離す。ようするに、『大岡越前』で有名な「大岡裁き」の「子争い」(『本当の親なら痛がる子の手を離すものだ』)が展開するわけだが、そこで魔王こと施設長(三上博史)はこう言い放つ。
「産んだのが親ではありません。いっぱいの愛情で育て上げるのが親なんです。事実の親と、真実の親は違うんです。」 そして、突然地べたに頭をこすりつけ、「私はコウノトリです。」と言いながら、「時々間違えて赤ちゃんを別の人の所へ届けてしまうんです。そこであなたにもう一度、本当のママを選び直していただきたいんです。」と、ドンキに向かってほんとうの親はどちらなのか、選択をうながす。
実の母親の手を振り切り、里親のもとへ駆け寄るドンキに母親は激昂し、「なんて子なの!誰が産んであけだと思ってるのよ。恩知らずにもほどかあるわ!」となじるが、里親はその罵声がドンキに聞こえないようにそっと耳をふさぐ。その様子を見て、「勝手にすればいいわ。どうせ私の足手まといになるだけなんだから」と捨て台詞を吐いて母親は去っていく。
昨年ヒットした『そして父になる』という映画もあったが、ひとは最初から親として存在するわけではなく、時間をかけて、愛情を注いでようやく「親になっていく」のだ。血がつながっていない里親も、そこに愛情があれば「親になる」ことはできる。
本来「虚」であるはずの里親の愛情が実の親に勝利し、「虚構が現実を上書きし、嘘が真になる瞬間」を捉えた本作のピークとも言える圧巻のシーンだった。
こうして、ピア美は本来の名前である直美へ、ドンキは真希へ、ボンビは優衣子へと戻っていく。
残されたポスト(芦田愛菜)は、学校の先生・朝倉の家に通い、ポストのことを事故で亡くした娘・愛だと思い込む朝倉の妻・瞳(安達祐実)の前で娘になりきろうとしていた。現在の天才子役が元・天才子役の前で巧みな芝居を打つという何重にもアイロニカルなシーンだが、果たしてここでも虚構が現実を上書きし、嘘が真になるのか、と思いきや、かりそめの母子の関係は魔王の声で一蹴されてしまう。
結局、生まれてすぐに赤ちゃんポストに預けられたポストを事実上親代わりでずっと育ててきた魔王がほんとうの父親になる決意をするのだが、魔王がポストに言う「一度しか言わないからよく聞け。さびしい。おまえがいなくなると、俺がさびしいんんだ。」の台詞は完全に愛の告白めいていた。
この台詞を口にするのはオレンジ色に染まる夕日の中なのだが、これにはちゃんと理由がある。魔王が、別れた妻・香織(鈴木砂羽)と初めて会ったとき、結婚式帰りの香織は夕日のようなオレンジ色のドレスを着ていて、そのとき魔王は「夕日に染める」と「見初める」を掛けて口説いたらしい。8話で語られたこの何気ないエピソードがまさか最終話のクライマックスで効いてくるとは思わなかった。つまり、魔王はふたたび「夕日に染める」と「(自分の娘として)見初める」を掛けてポストに告白したのだ。
色彩に着目すると、他にも、瞳の娘・愛が事故に遭って亡くなった踏切のランプの赤、線路に転がる靴の赤、ポストが愛用していた髪留めの赤との対比など、実は効果的な設計がなされていたことが分かる。
そして、ラストにポストの本当の名前がはじめて視聴者に知らされるところで物語は終わる。本作は、親に捨てられた子どもたちが、親から付けられた名前を自らの意志で捨てることによって強く生きていこうとする態度を表明し、もう一度、自分たちの意志によって本当の名前を取り戻すまでの物語だ。
当初、各方面から問題視されたポストやドンキといったあだ名が物語上きわめて重要な意味をもっていたため、制作側もここだけは何があっても変更したくなかったのだろう。
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公式HPより
『失恋ショコラティエ』9~11話 フジテレビ 月曜21:00~
旦那と揉めた人妻・紗絵子(石原さとみ)が仕事場の2階に転がり込んでくるという怒涛の展開によって、ショコラティエ・爽太(松本潤)の片思いは突如として両想いに。ベッドをともにしながら、相変わらず「バックバック食べられて気分が良くなるチョコレート、つくってくださいな。」と甘ったるい声でに爽太におねだりする紗絵子は自身の欲望に忠実な魔物だ。もはや爽太も紗絵子に対して無駄な駆け引きをしたり、わざと冷たいそぶりをする必要もない。あれだけ手に入れたかったものが、やっと手に入ったのだ。
しかし、紗絵子がよろこぶショコラをイメージし、それに追い付こうと躍起になってきた爽太にとって、遠くにあったはずのあこがれの存在に手が届いてしまったことによって、不思議なことにショコラづくりのインスピレーションが湧かなくなってしまうという皮肉な事態が起こる。手に入ったと思ったが、結局何もわからない。どこまでいっても、紗絵子という女を知り尽くすことなどできないのだ。
「正も誤もない。これが恋だ。」と突き進もうとする爽太だが、依然としてショコラのインスピレーションは湧かず、紗絵子との未来も思い描けなくなった矢先、紗絵子に夫との間に子どもができたことを知らされる。ふたりにとって、帰るべき場所へ帰るリミットが迫っていたのだ。
「爽太君が好きだったのは本当の私じゃなくて、ただの幻想だったんだよね。だから、私たち帰らなきゃ。いつまでも幻想の中では生きられないよ。」
紗絵子にそう言われた爽太は、ようやく気づく。「あのとき、俺は紗絵子さんを手に入れたんじゃない。失ったんだ。ショコラがつくれなくなったのは、あのときからだったんだ。」 つまり、いま手のなかにいる紗絵子ではなく、幻想のなかの紗絵子こそが、爽太のインスピレーションの源だったのだ。爽太は、未知のショコラをつくるために、幻想を愛しつづけていたのである。
爽太と紗絵子が現実の時間へと戻ろうとするなか、爽太に片思いする同僚・薫子(水川あさみ)と紗絵子の間に奇妙な友情が芽生えはじめる辺りも面白い。
「結局、ずうずうしい女が勝つんだって。」と悪態をつきながら紗絵子をDisっていた薫子だったが、男からのメールの返信について紗絵子に相談した際、的確なアドバイスに思わずうなってしまう。
「お菓子だって、味がいいだけで十分なのに、それでも売るためには形や色をかわいくしたり、愛される努力が必要なんだなって思うし、意識的にでも無意識的にでも、人の気を惹く努力をしている人が好かれてるんだと思うんですよね。」と実体験に基づく恋愛論を展開する紗絵子に、「しごくまっとうだわ」と内心うなずく薫子。「少なくともこの女は、私よりは確実に前や上を向いている人だわ。」と。
石原さとみの説得力のあるビジュアルと相まって、紗絵子が単なるヒールではなく、同性から「好きじゃないけど分かる」あるいは「私もこんな風に振る舞えたら」と思わせるキャラクターとして描かれている点は、本作の大きな特徴だろう。ツッコミ要員として視聴者目線に最も近い立ち位置の薫子、モデルという華やかな仕事をしているにも関わらず好きな男の本命になれない哀しい女・えれな(水原希子)など、女性は誰かしらに自分を投影しながら見ることができたのではないだろうか。
今度こそ紗絵子にちゃんと失恋した爽太は、幻想と決別し、新しい自分を見つけるために旅立つ。勢いで爽太に思いを伝えてしまった薫子は、「初めてちょっとだけ自分を好きになれた気がする」と清々しい顔をしている。爽太との関係にケリをつけたえれなは、まっすぐ前を見てランウェイを颯爽と闊歩する。それぞれにとって、現実と向き合うための第二幕が開いたのである。
恋愛とクリエイションの親密な関係に迫った良作だった。
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『なぞの転校生』9~12話 テレビ東京 金曜24:12~
私たちのいるこの世界だけが、世界のすべてではない。これは、フィクション、とりわけSF(サイエンスフィクション)と呼ばれるジャンルにおける最も重要なテーゼだ。
それを現実逃避と言うのは簡単だが、のっぴきならない現実を生きるひとびとにとって、逃避も時には必要なのである。かつて中学生の殺伐としたいじめを題材にした映画『リリイ・シュシュのすべて』を撮った岩井俊二がこのドラマで描こうとしたのは、「君のいるその小さな世界だけが世界のすべてではない。世界はもっと複雑で、多様で、無限に広がり、つながっている」というメッセージだろう。
そこに「高度に進んだ文明の滅亡」「放射能による被ばく」「行き場をなくし次元をさまよう民」という原作小説&オリジナルドラマのモチーフを引用し、3.11以降の物語として読み替えようとした点が、宮城県出身でNHK東日本大震災復興プロジェクトソング『花は咲く』の作詞も手掛けた岩井ならではといえる。
最終話、SF研の面々がつくる自主映画『なぞの転校生』の撮影で、D‐8世界からやってきた姫のアスカ(杉咲花)は、広一(中村蒼)に向かってシナリオにはないこんな台詞をしゃべる。
「文明とは、人類とは、思っているよりも、もろいものなのだ。この世界の人類も、いつかはこの星から消えることもあろう。だからこそ、大切にしてほしい。この星を、仲間を、友だちを。」
ふつうのドラマや映画では青臭く思えることばがじんわりと胸に響くのは、劇中劇の台詞というかたちを借りて登場人物が「ほんとうの気持ち」を語っているからだろう。
それは、そのシーンの前に置かれた転校生・典夫(本郷奏多)とみどり(桜井美南)のやりとりにも表れる。典夫は、「日曜日に君から花をもらったときから、君のことが忘れられなかったよ。」と告白するも、「ああ、だめだ。結局、ぼくは君のことばを聞いて、こういう風に答えるようにしかできていないのです。」と嘆く。
「モノリオ」と呼ばれる感情をもたないヒューマノイドである典夫が、相手ののことばに反応するかたちでしかコミュニケーションできないことを告げると、みどりは「私だって、あなたにそんな風に言われたら、こんな気持ちになるようにしかできてません。」と、なぞの転校生への淡い恋心を吐露するシーンは、ぎこちなさの残る桜井美南(本ドラマがデビュー作となる)の佇まいと相まって、大林宣彦版『時をかける少女』を彷彿とさせるリリシズムに満ちていた。
「異なる世界で営まれる、もうひとつの可能性」について象徴的に描写されるのが「アイデンティカ」だ。それは、別の次元にある一定の確率で存在するとされる「自分の分身」。D‐8世界からやってきた王家に仕えるアゼガミ(中野裕太)とスズシロ(佐藤乃莉)のアイデンティカがD‐12世界では仲のいい夫婦だったことを彼らが知るシーンはグッとくる。ありえたかもしれない、もうひとつの可能性。
広一たちのいるD‐12世界には「ショパンがいない」ことから、我々の住むこの世界ではないことが早い段階で示されていたわけだが、かといって王妃やアスカの住んでいた滅亡の道を辿ったD‐8世界もこの世界ではない、となると、一体このドラマを見ている我々の世界はどこにあるのか、と思いながら迎えた最終話で、ようやくそのなぞに対する答えが用意される。
「我々の知るこの世界」はD‐15世界と呼ばれ、広一とみどりのアイデンティカはかつてそこで異次元人の典夫と出会っている。やがて広一のアイデンティカは異次元調査団の隊長となる。おそらく、D‐15世界で広一とみどりのアイデンティカが典夫と出会ったのは1975年。つまり、眉村卓の小説『なぞの転校生』がNHK少年ドラマシリーズで映像化された年に違いない。
訳が分からないって? まあ、早い話が、自分たちの分身であるアイデンティカが住む異次元の世界の側から物語を描いておいて、そこを最後にぐるっと反転させるという「めくるめく感」をやりたかったのだと想像する。これもまた、「いまいる世界が世界のすべてではない」というメッセージの表れだろう。
そして、D‐15世界では、広一とみどりのアイデンティカは夫婦となり、みどりと瓜二つの娘を授かっていることもわかる。D‐12世界のみどりとD‐15世界の広一とみどりの娘・みゆきが握手をした瞬間、世界が一直線につながる。
それは、39年の時を超え、伝説のドラマのリメイクがこれ以上ない形で見事に達成されたことを示す瞬間でもあった。
それにしても、11話の王妃が崩御するシーンで、それまで何度も流してきたラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』を流さないどころか、テーマ曲以外、いっさい劇伴を流さない演出にも震えた。そして、岩井俊二、桑原まこ、椎名琴音(SF研のメガネのコ。要注目!)からなるユニット・ヘクとパスカルの『風が吹いてる』も、心の琴線をぶるぶる振るわせた。
というわけで、2014年の1月から3月末までのドラマを3カ月にわたって追ってきたわけだが、世間的には『あまちゃん』『半沢直樹』が当たった2013年と比較して「ドラマ不調」などといわれたものの、当然ながら、きちんと見ていけば見応えのあるものも少なくなかった。視聴率的にはNHKの朝ドラ『ごちそうさん』やテレ朝『相棒』枠の『緊急取調室』などが良かったのだが、このコーナーでは数字が高い=いいドラマとは考えない。もちろん、数字のいいドラマが悪いというわけでもない(実際、『ごちそうさん』は全話面白く見ていた)。ようするに、数字の心配など局のひとたちや広告代理店に任せておけばいいのだ。4月スタートのドラマもなかなか粒ぞろいのようなので、レコーダーのHDをパンパンにして見まくる所存であります。このコーナーも、引き続きごひいきに。
では、いいドラマを。
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2014 January-March vol.04
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『失恋ショコラティエ』6~8話 フジテレビ 月曜21:00~
人妻になった紗絵子(石原さとみ)にずるずると思いを寄せる爽太(松本潤)の妄想恋愛は、セフレ・えれな(水原希子)の行動によって別の文脈へと移行する。えれなは、片思いの相手・倉科に告白し、あっけなくフラれたことで相手への思いを断ち切ろうとする。片思い中は「実在しないファンタジーの世界のひと」のように思えた倉科が、告白してはっきりフラれたことではじめて現実に存在するひとに思えたと、えれなは言う。
その姿を見た爽太も、ずっと自分のなかの「妖精さん」だった紗絵子に「ちゃんと告白して、ちゃんとフラれるんだ」と誓う。バレンタインデーにこれまでの紗絵子への思いのすべてを注ぎ込んだチョコをつくり、真正面から告白して玉砕し、吹っ切ろうと決意した爽太の表情はいっそ清々しい。爽太にとって紗絵子はインスピレーションの源であり、クリエイションの源泉なのだ。バレンタイン用のチョコをつくりながら爽太はこうつぶやく。
「まるでパックリ開いた傷口からひらめきが溢れ出すみたいだ。滲みないわけじゃない。でも、それよりうれしい。何かを生み出せる力が沸くことがうれしい。」
妖精さんに告白してちゃんとフラれることで、紗絵子という現実に存在するひととして捉えて脳内から追いやり、次へ行こうとする爽太のもくろみは、しかし幸か不幸か叶わない。なぜなら、冷酷で、ときに暴力的になる夫との関係に嫌気がさした紗絵子は、爽太のつくったチョコをうっとりと口にしながら爽太への思いを募らせていたのだから。
ファンタジーと決別しようと思ったら、そのファンタジーがあっさりと現実のものになってしまう戸惑い。もちろん、そのままで済むはずもなく...。
と、筋を追いながら書いていると、「恋愛ってたいへんだな」とつくづく思う。恋愛とは、食べ物や飲み物のようになくても困るものではないが、あることで人生に彩りや華やぎがもたらされるという意味では、まさにこのドラマで扱われるスイーツのような嗜好品に近い。そして、一度その甘美なる世界に触れた者は、中毒になる可能性がある。
紗絵子のような女性は、同性からすれば「ブリッコ」「つくってる」などと言われ忌み嫌われる存在の典型のはずなのだが、本ドラマにおける石原さとみの圧倒的な女子度の高さも手伝ってか、同性の視聴者からも支持されている点は興味深い。爽太に片思いしている地味系女子(酒癖悪し)の薫子(水川あさみ)には自分に近い親近感を抱きつつも、注視すべきなのは紗絵子だ、ということか。
女性が女性アイドルのディープなファンになることもごく当たり前の時代、男心を自在に転がす紗絵子を否定するのではなく、むしろその技に学ぼうという姿勢の表れなのかもしれない。それは昨今の若い女性の貧困問題などとも実は密接な関係があり...などと言い出すと話がややこしくなりそうなのでやめておく。
それにしても、嵐ファンの小学生も見ている時間帯でこれだけ「セフレ」というワードが頻出するのもすごい。「ママ、セフレって何?」「間男って?」と聞かれたら親はどうリアクションするんだろうとも思うが、心配しなくてもイマドキの小学生はとっくに知ってるか。
爽太のやっていることは要するに不倫なのだが、松潤で、月9で、こういうドラマをやってしまうと、もうぬるい恋愛ドラマはつくれなくなるだろう。という意味では、間違いなく『モテキ』以降の恋愛ドラマのひとつの到達点といえる。
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『なぞの転校生』6~8話 テレビ東京 金曜24:12~
4話以降、不良グループの鎌仲(葉山奨之)らが登場し、突如として不良マンガテイストを帯びたが、なぞの転校生・山沢にアステロイドなる特殊なバイオアプリであっけなくコントロールされて骨抜きになり、そうこうするうちに山沢の住むD-8世界から容体の悪化した王妃一行が時空を超えてやって来て...と、見ていないひとには何のことやらさっぱり分からないであろう怒涛の展開が繰り広げられている。テレビドラマの枠でできるSFの限界に挑戦したともいえる、実に見応えのある野心作だ。
我々の良く知るこの世界のすぐ横に「平行世界」なるものがあり、良く似てはいるが少しだけ違う世界が無数に存在しているというパラレルワールド物の映像化は案外ハードルが高く、下手をするとチープなものになりがちなのだが、本作はカメラワークやライティング、節度あるCGの使い方によって独特の世界観の表出に成功している。ようするに、全編ゾクゾクする「SF的リアリティ」に溢れているのだ。そして、「日常とは何か」について考えさせられる。空が、夕日が、花が、教室が、そこにあることの意味について。
D-8世界からやってきた姫のアスカ(クックドゥのCMで豪快に中華料理を頬張っていた杉崎花)のいかにも超然とした佇まいも「別の世界から来た感」に満ちているし、アイデンティカだのキャトルミューティレーションだのといったよく分からないがソレっぽい用語が飛び交う様もワクワクする。
岩井俊二、長澤雅彦という映画界からの使者によって、従来のテレビドラマでは味わったことのない肌触りを体感させられる。まさにこのドラマ自体が、ドラマ界にやってきた「なぞの転校生」だ。
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『明日、ママがいない』5~7話  日本テレビ 水曜22:00~
『国家なる幻影』とは石原慎太郎の著書のタイトルだが、このドラマを見ていると「家族なる幻影」というフレーズが脳裏をよぎる。親に捨てられた子どもは、どこかにいるかもしれない理想的な親の幻影を追い求め、何らかの事情で子を失った、あるいは子に縁のなかった大人は理想的な子どもの幻影を探しつづける。
放送中止を求める声を受けて、元々の脚本のどこをどう変えたのかは分からないが、たとえば以下のようなくだりは、世間なるものに対する辛辣なアンチテーゼとして逆に付け加えられたのではないかと想像できる。
6話、児童養護施設「コガモの家」の職員・ロッカー(三浦翔平)が暴力沙汰を起こし、施設の子どもたちから拒絶されそうになったとき、施設長(三上博史)は子どもたちを前にこう説く。
「大人の中には、価値観が固定し、自分に受け入れられないものはすべて否定し、自分が正しいと声を荒げて攻撃してくる者もいる。それは胸にクッションを持たないからだ。 そんな大人になったらおしまいだぞ。話し合いすらできないモンスターになる。だが、おまえたちは子どもだ。まだ間に合うんだ。」「つまらん偽善者になるな。」
話し合いすらできないモンスター。「子どもたちがかわいそう」という一見まっとうな意見の裏にある上から目線と差別。そうした世間なるものの見えない暴力に真っ向から立ち向かう反逆性がこのドラマには当初からあったが、それがクレームを受けてより強いものになっているとすれば、むしろそれはドラマの勝ちだろう。キービジュアルでThe Whoをモチーフにしたり(vol.1参照)、芦田愛菜演じるポストがモッズコート風のアウターを着ているのはダテじゃないのだ。
7話では、ついに伝説的ドラマ『家なき子』(脚本は本ドラマ脚本監修の野島伸司)で主演を務めた安達裕実が、子どもを事故で失ったもののいまだに死を受け入れられず精神に変調を来している母親役で登場。かつての名子役と当代の名子役・芦田愛菜の共演が実現した。
野島伸司といえば、初のマンガ原作である『NOBELU-演-』(『少年サンデー』連載中。作画・吉田譲)では、「生きていくために演じる」子役の世界を過激に描いている。当初、『明日ママ』でも児童養護施設を子役の世界のメタファーとして描いているフシがあったが、回が進むごとにその要素は影を潜めていった。ようするに、メタファーなんていうものが通用しないのが世間なのかもしれない。
子どもたちがポスト(赤ちゃんポストに預けられていたから)、ドンキ(母親が恋人を鈍器で殴ったから)、ボンビ(家が貧乏だから)といったあだ名で呼び合うことが問題視されたが、複数の人物が入り乱れる群像劇で視聴者に名前と顔をすみやかに覚えさせるうえで、この手法はとても効果的だった。もしこれがマナミだのユカだのといった名前だったら誰が誰やらという感じだったかもしれない。
たとえば、『ロストデイズ』(フジテレビ 土曜23:10~)では7人の同世代の若者たちの名前と顔が一致するまで時間がかかったことを思えば、あだ名をつけたのは正解だったし、それによって各キャラクター像も明確化された。ピアノがうまいからピア美、とかね。
そういえば、何人もの養子をとっていることで有名なアンジェリーナ・ジョリーとブラッド・ピット夫妻の養子になることを夢見ていたボンビ(渡邊このみ)が「ジョリピ~」と腰をくねらせながら叫ぶのは、『時間ですよ』で樹木希林が沢田研二のポスターの前で「ジュリ~」と叫びながら腰をくねらせる有名なポーズのパロディだと思うのだが、ネタが古すぎて「あのジョリピ~のくだり意味不明」などといわれているらしい。さすがに昭和すぎたか。
では、いいドラマを。
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2014 January-March vol.03
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『なぞの転校生』3~5話 テレビ東京 金曜24:12~
ドラマでも映画でも、どこにでもある風景や何気ない人々の生活が描かれるとき、それを観る者は、「ああ、自分たちの良く知っている日常が描かれている」と思う。いわゆる「淡々とした日常の描写」だと捉えるわけだが、本作も、「ごくありふれた日常」の描写が積み重ねられ、そこにある日突然、別の次元から不思議な転校生がやってくる話として観ていたら、3話で衝撃の事実が明らかに。主人公の岩田広一(中村蒼)らのいる世界のほうが、どうやら別の次元だったらしいのだ。
原作の同名小説では、高度に進んだ文明をもつ別の次元に住む民が、核戦争による放射能汚染でその世界を追われ、「次元ジプシー」として時空をさまよい、並行世界として存在する現代の日本に「避難」してくる、という設定になっている。当然、このドラマでも広一らがいる世界を「我々の知っているこの世界」だと思い込んで観ていたのだが、3話のラスト、音楽室のピアノでショパンの『雨だれ』をつま弾く転校生・山沢典夫(本郷奏多)に向かって、音楽教師がこう言い放つ。「何て曲?」 問われた典夫は「この曲、知らないんですか?」と驚くが、「そうか、ここにはショパンの『雨だれ』がないのか」とつぶやく。
音楽教師が、あまりにも有名なショパンの『雨だれ』を知らないはずがない。我々のよく知っている日常だと思っていた世界が、実は微妙にズレた異世界だったことが明らかになるこのシーンには鳥肌が立った。モーツァルトは存在しても、ショパンはいない世界。しかも、ドラマの第1話から『雨だれ』は劇中で繰り返し流れていて、「いかにも岩井俊二な世界」などと呑気に聴いていたのだが、これがとんだミスリードだったわけだ。
5話の時点ではまだ明らかにされてはいないものの、転校生の典夫たちのいた世界のほうが、実は我々のいるこの世界の未来の姿という設定なのかもしれない。高度に進んだ文明をもち、その結果、核による最終戦争が起こり、放射能汚染されてその世界に住むことができなくなった人々こそが、我々の未来像なのではないか。
原作を反転させたこのアイデアは見事だし、3.11以降の世界の行く末に警鐘を鳴らすメッセージが込められていることはどうやら間違いがない。
単に「少年ドラマシリーズ懐かしいよなあ」でも「岩井俊二観たよなあ。『打ち上げ花火』とか」というノスタルジー目線でもなく、70年代の伝説のドラマを2014年の映像作品としてアップデートする意味がきちんとそこにある、ということが重要だろう。
今期ベストの予感十分だ。
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『失恋ショコラティエ』3~5話 フジテレビ 月曜21:00~
『ハチミツとクローバー』が打ち出した「片思いも立派な恋である」というテーゼに『モテキ』以降の恋愛のリアリティをプラスしたのが本作だといえる。
昨今の「彼氏・彼女ナシの20代が増えている」なんていうマーケティングデータを真に受けるべきではないのは、特定の彼氏・彼女がいないだけで実はセフレはしっかりいたりするという現実があるからだ。セフレがいても、付き合っているひとがいない場合はアンケートで「彼氏・彼女なし」と書くのだから。という意味では、片思い中である、あるいは彼氏・彼女はいないがセフレはいる、という数を足せば、いまの時代もかなりの人数が恋愛しているといえる。
『失恋ショコラティエ』は、そんな時代の恋愛ドラマだ。主人公の爽太(松本潤)は、人妻となった紗江子(石原さとみ)にいまでも片思いをしている。実は紗絵子も冷えた結婚生活に満たされずに爽太への思いを募らせているのだが、その気持ちを爽太は知らない。どうせまたいつものようにもてあそばれているだけなんだ。だから俺は俺でセフレとよろしくやってやるんだと悪ぶって、モデルのえれな(水原希子)の元へ通う爽太なのだが、爽太の店で働く薫子(水川あさみ)はそんな爽太に絶賛片思い中。ほぼすべての登場人物の思いはすれ違うが、何かの拍子にわずかに触れ合う瞬間がある。その瞬間のことを恋とか愛と呼んでもいいんじゃないか。というのがこのドラマの世界観だ。
女子力全開のゆるふわ系・紗絵子、爽太のセフレだが他の男に片思い中のえれな、爽太の成長を見守りながらも恋心を抑え切れない薫子。おそらく一般の女性視聴者にとってもっとも感情移入できるキャラクターが薫子だろう。演じる水川あさみの地味可愛さも相まって、「こういうひと、いるだろうな」という妙な説得力がある。
そして、このドラマがユニークなのは、恋愛物でありながら、シリアスな仕事論がときおり顔を出すところだ。その辺りは脚本家・安達奈緒子カラ―といえるが、越川美埜子が脚本を書いた4話にもこんなやりとりがあった。
ネットで評判が広まった爽太の店に対して父・誠(竹中直人)が言う。「おまえはいい時代に生まれたな。俺がやってた頃は、口コミで評判が広がるまで何年もかかったもんだ。分かるひとにだけ分かってもらえばいいなんて言ってたら、あっという間に店は潰れちまう。でも、いまは違う。大勢の人間に媚びなくても、たった一人の誰かに死ぬほど愛してもらうことができれば、ちゃんと結果につなげることができる。それはすごく幸せで、恵まれた環境だってことだ。」
これに対して爽太は、チョコレートの貴公子と称されるショコラテイエ・六道(佐藤隆太)も同じようなことを言っていたと言い、「さすがに10も歳が上だと言うことが違うなあと思った」と笑うが、そんな爽太を父は一喝する。「それは違うぞ。歳は関係ないだろ」と言い残して去っていく。
10歳上だったら負けてもしかたがない。そう思うことで安心しようしていた爽太は、「でも、それってその時点で勝負に負けてるってことなんじゃないのか」と気づく。六道が、世間に迎合することで「自分自身のビジョンが消えてしまうことのほうが怖い。どんなものをつくりたいのか分からなくなって何もできなくなることが怖い」と語っていたことを思い出し、「あのひとは凄い。完全に自分の世界を構築している。」「俺はあと10年であんな風になれるのか」と自問する。
これは、どんな仕事にも通じる葛藤ではないだろうか。時折、こんなセリフが飛び出すからあなどれないのだ。
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『紙の月』NHK 3~5話 火曜22時~
全5話を通して、勤務先の銀行の金・1億円を横領した梨花(原田知世)はモノローグで何度もこうつぶやく。
「私は何でもできる。どこへでも行ける」
平凡な主婦が大金を自由に扱える立場になったことで手に入れた「万能感」が、人生の歯車を狂わせる。そして、第1話の冒頭、横領が発覚しそうになって逃亡したタイの町をさまよい、梨花は圧倒的な万能感を憶えながらも、「私は何かを得てこんな気分になっているのか、それとも何かを失ってこんな気分になれたんだろうか。」と考える。
顧客の預貯金を横領するという犯罪によって得た大金を湯水のように使いまくる梨花の姿は、しかし決して満たされているようには見えない。若い恋人に好きなように金を使わせ、みずからも高級ブランドを買いまくり、一流レストランで贅沢な食事を満喫しても、心は空洞のままだ。
結局、大金を手にしたことによって「何でもできるし、どこへでも行ける」と思った万能感自体がまさに薄っぺらな紙幣のようなものだったと気づいた梨花は、「誰かに必要とされたい。誰かに愛されたい」と他人に期待するのではなく、自分自身をまるごと認め、愛してあげようと思う。ここではないどこかへ行こうとしたが、いまここにいる、あるがままの自分と向き合うことを決めた彼女の表情はいっそ清々しさに満ちている。そこからが、ほんとうの旅のはじまりなのだ、と。
梨花の女子高時代の同級生だった木綿子(水野真紀)と亜紀(西田尚美)も、実は同じように金に翻弄されていたのだった。専業主婦の木綿子は、スーパーの特売に血眼になり、夕飯のおかずも風呂の湯もケチる「すてきな奥さま」だが、そのギスギスした家庭に息が詰まって旦那は若い部下と浮気をして高級レストランで大盤振る舞いしていたりする。亜紀はバツイチのベテラン編集者だが、実は買い物依存症でカード破産寸前までいったことが原因で離婚、元夫と暮らす娘に見栄を張っているうちに買い物依存症が再発してしまう。
ケチケチした節約主婦と買い物依存症のバツイチ女。金を使わないのか使うのかの違いだけで、いずれにしても金やモノに振り回されていることに変わりはない。梨花の大金横領・逃亡の物語を縦軸に、同級生だった2人が梨花はなぜそんな大それたことをしでかしたのか想像する様が物語の横軸になっている。そして、最初は理解し難かった梨花の行為が、実は自分たちと同じ心持ちに根差したものであることを知るのだ。
梨花が預貯金を横領するのはオレオレ詐欺に騙されるような高齢者ばかりというのもリアル。金はあるが子や孫には渡したくないがめつい老人が、話し相手になり、切れた電球を換えてくれるようなやさしい銀行員のことは疑おうとしない。梨花に対して下心丸出しだった平林(ミッキー・カーチス)は事件発覚後も「金のことなら言ってくれりゃいくらでもやったのに」と言い、認知症が進行する名護(富士眞奈美)は「梨花さんは天使様」とうっとりした表情で答えるあたりはゾッとする。
1話の冒頭が最終話のラストとつながる構造はストーリー的な意外性はないものの(つまり1話の時点で最後が分かっている)、横領~証書偽造のプロセスや若い恋人との次第に変わっていく関係性をじっくり見せることで心理的なサスペンスをうまく成立させていた。
NHKの夜のドラマ枠は、『セカンド・バージン』以降、熟女と若い男の組み合わせが定番化しているが、そのなかでも頭ひとつ抜けた作品だったのではないか。同枠で向田邦子ドラマのリメイク『胡桃の部屋』も手掛けた脚本家・篠崎絵里子はなかなか達者な書き手だと再確認した。
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『明日、ママがいない』2~4話  日本テレビ 水曜22:00~
第1話の冒頭から「これから始まる物語は現実に即したリアルな話とは異なりますよ」という表現をあからさまにしていたにも関わらず、その意図を読み取れないひとが多数いたことによって、本来の物語の主題とは別の文脈で騒動になってしまったある意味不幸なドラマ。
もし、養護施設の子どもたちに対して施設のスタッフや学校の同級生らが「ポスト」だの「ドンキ」だのとあだ名を付けてからかう場面があればそれは確かに問題かもしれないが、ここで重要なのは、親に捨てられた子どもたちがお互いをあだ名で呼び合うのは、親からもらった名前を自らの手で捨て、忌まわしい過去をネタ化した上で乗り越え、助け合って生きていこうという意志の表れだということだ。子どもたちの決意が、そのあだ名には込められている。
芦田愛菜演じるポストの漢気(おとこぎ)と垣間見える母性。各キャラクターの描き分けも明確で、ドンキ役の鈴木奈央、ピア美役の桜田ひより、ボンビ役の渡邊このみら子役陣の芝居も見事。
今となっては、1話で問題になった施設長のセリフ「お前たちはペットショップの犬と同じだ」に代表される、いかにも往年の野島伸司と言うべき挑発的なセリフはなくても十分に成立したのではないかとも思える。ことさら過激さを前面に出すことで余計な物言いがついたのではないかと、その点は残念だ。
『ロストデイズ』(フジテレビ 土曜23:10~)は全10話中5話まで進んだもののサスペンスとしていまだ盛り上がらず。『私の嫌いな探偵』(テレビ朝日 金曜23:15~)は金曜の夜に何も考えずに見る分にはたいへん楽しい。
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『ダークシステム 恋の王座決定戦』(1~4話 TBS 月曜24:28~)は、独特の世界観と脱力系のテンポ感がじわじわくる。が、『時効警察』を手掛けた三木聡のようなシュール演劇テイストではなく、あくまで予算がないがゆえに自ずとシュールになってしまう自主映画のソレ。これは決して批判などではなく、幸修司が手掛けた同名の自主映画が「原作」であり、それに惚れ込みシリーズ構成と監督を買って出た犬童一心と小中和哉は元々自主映画の出身だから、全編に漂う自主映画臭はむしろ確信犯なのだ。
もちろんHey! Say! JUMPの八乙女光の初主演ドラマだし、最近では『のぼうの城』などの大作も手掛けた犬童一心が関わるのだから、それなりに予算はかけているはずなのだが、あくまでもテイストはチープな自主映画然としている。寝起きのようなボサボサ頭に銀縁メガネで主人公・加賀美を演じる八乙女君のイケメンぶらなさ具合にも感心するし、ドラマ初出演の玉城ティナの棒読みのセリフすら好ましい。
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単発だが、2013年1~3月に放送され人気を博したドラマの待望の続編『最高の離婚special 2014』(2月8日 フジテレビ 21:00~)も見応えがあった。一度は離婚したものの、籍は入れずにずるずると一緒に暮らす光生(瑛太)と結夏(尾野真千子)。友人の上原諒(綾野剛)と灯里(真木よう子)夫妻に子どもが生まれ、光生の姉のおめでたを知った結夏は、光生に子どもが欲しいと打ち明ける。
落ち着いたら再び婚姻届を出そうと言う光生は恋人同士のような今の暮らしを維持したいので、「新婚さん始まろうとしてるんだよ。行くならまずIKEAでしょ。IKEA行ってソファ買おうよ、カフェ風のやつ。」と反論。「そんな雑誌に載ってるみたいな生活いらないの。あなたと私の子どもが欲しいの。分かる?女が男の人に思う気持ちにそれ以上はないの」と詰め寄る結夏に、子どもが生きる将来の日本経済を懸念する光生は、「大就職難ですよ。ブラック企業どころじゃないよ。ブラックホール企業に就職することになりますよ」と叫び、「ブラックホール企業って何よ」とツッコまれると「天文学的な残業時間ですよ。うちの子ボロボロになりますよ。吸い込まれますよ。そこに送り出していいものなの!?」と意味不明の理屈をまくし立てる。
この結夏の「子ども、ほしいね」発言に果たして光生は応えることができるのかを主軸に、諒の元カノ(臼田あさ美)との邂逅や結夏の不倫旅行騒ぎ(相手は光生に『ヤング宮崎駿』と茶化される岡田義徳)などを挟んで物語は進んでいく。膨大なダイアローグが浮き彫りにする人生の悲喜劇。まさくし脚本家・坂元裕二の真骨頂だ。連ドラ版は、ウディ・アレンを思わせる瑛太の神経症的な屁理屈トークが笑いを生み(さながら目黒川はアレン映画におけるイーストリバーか)、「毎度ばかばかしいお笑いを」という落語の夫婦(めおと)物のようなテイストを醸しつつ、ラストは桑田圭祐が歌う『Yin Yang(イヤン)』のイントロが流れ「チャンチャン!」というオチで終わる、という趣向だったが、今回はそれを踏襲しつつ、映画『ブルーバレンタイン』のようにヘビーな男女の対峙が真正面から描かれる。
不倫旅行をしかけた結夏に光生は激昂、二人の仲は最悪に。すったもんだの末、仲直りして婚姻届を出そうと歩み寄る光生に対して結夏は涙ぐみながらこう返す。「光生さんはひとりが向いてる。ほら、逆うさぎだよ。寂しくないと死んじゃうの。馬鹿にしてんじゃないよ。そういう光生さんのとこ好きだし、面白いと思うし。そのままでいいの。無理して合せたら駄目なんだよ。合せたら死んでいくもん。私が、あなたの中で好きだったところが、だんだん死んでいくもん。そしたらきっと、いつか私たち駄目になる。」
一見がさつで無神経に見えるズボラ妻の結夏がほんとうは愛に満ちた可愛いひとだったり、神経質で辛辣な光生がほんとうは相手の気持が分かるやさしいひとだったり。このドラマの凄さは、表面からは分からないひとの奥行や多面性がきちんと描かれているところだ。
光生は物語の冒頭で尿管結石を患い、いろいろあった末、その石が尿とともに流れ落ち、係長に昇進し、通院する歯医者の美人助手に言い寄られる。結夏と別れることで肩の荷が降りたのだろうか。けれど、お年玉年賀はがきの2等のふるさと小包が当たってもそのよろこびを分かち合うひとは、もう隣にいない。
ラストに、光生が結夏に宛てて書く長く叙情的な手紙(まるで小沢健二の詞のような)の文面から、光生がいまでも結夏の記憶ととも日々を暮らしていることが分かる。連ドラ版で結夏が光生宛てに書いた手紙は結局渡されることはなかったが、今回、光生の手紙はポストに無事投函された。その返事がどうなるのか、1年後(?)に期待したい。
では、いいドラマを。
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2014 JAN~MAR VOL.02
前回、事前情報と勘でアタリをつけピックアップしたドラマが軒並み放送を開始した。もちろん、それ以外も初回はほぼすべて録画して見まくったのだが、結果的に採り上げたドラマに関してはハズレなし。レコメンドしたはいいが、実際に見たら「違った!」という事態にならずに正直ホッとしている。こればかりは見てみないことにはわからないわけで、そこがまた連続ドラマの面白さでもある。ちなみにここで言うアタリ・ハズレは視聴率とはあまり関係がない。あくまでも内容重視。
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公式HPより
『なぞの転校生』テレビ東京 1~2話 テレビ東京 金曜24:12~
映画『Love Letter』『リリイ・シュシュのすべて』などで知られる岩井俊二監督が企画プロデュースと脚本を、映画『夜のピクニック』の長澤雅彦監督が演出を手掛けるということで映画ファンからも注目が集まった本作。深夜枠のSFいうと、一歩間違えばチープなB級テイストになる可能性もあるが、フタを開けてみれば、まさしく岩井俊二の良さと長澤雅彦の良さの両方が掛け合わされた、みずみずしい青春SFドラマになっていた。
岩井俊二作品は独特のトーンの映像で知られ、特にやわらかい光の処理の仕方に定評がある。これは、岩井作品を初期から手掛けてきた撮影監督・篠田昇(2004年他界)の功績によるところが大きいのだが、本作ではその篠田の弟子筋にあたる神戸千木(かんべちぎ)が撮影を担当。AKB48の『桜の栞』(演出は岩井俊二)のMVやドキュメント映画『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued 10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?』でも、篠田昇直系というべき美麗な映像が印象的だった。
というように、思わず撮影の話から入りたくなるほど、冒頭から他のドラマとは明らかに一線を画す独特のトーンの映像が広がり、そこにショパンの『雨だれ』が流れるという、いかにも岩井俊二!な世界。「映画みたいな映像」だから良い、というわけではなく、映像自体が何かを雄弁に語るドラマを久しぶりに見た、という話。
今回はじめて連続ドラマを手掛ける岩井俊二の実験性と、映画『青空のゆくえ』や『夜のピクニック』で少年少女の群像劇を撮った経験をもつ長澤雅彦のバランスはかなり良いのではないか。
2話でついに登場したなぞの転校生・山沢典夫を演じる本郷奏多の透明感のある浮世離れぶりが見事だし、1975年に放送されたNHK「少年ドラマシリーズ」版で主人公・岩田広一を演じた高野浩幸が中村蒼演じる岩田の父親役として登場するのもオリジナル版のファンへの目配せを感じる。
そして前回、注目すべしと書いた桜井美南はいまのところまだ大きな見せ場はないものの、2話の花屋で山沢典夫とはじめて出会うシーンでさわやかな色気を覗かせるあたり、今後に期待がもてるというもの(ちなみにオープニング曲でもなかなかの美声を響かせている)。
伝説化しているドラマのアップデート版としては大成功といえるのではないか。
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公式HPより
『失恋ショコラティエ』1~2話 フジテレビ 月曜21:00~
2010年のドラマ版と2011年の映画版『モテキ』(大根仁監督)が恋愛物のリアリティを更新して以来、「そんな会話する?」というようなウソ臭いドラマや映画は急速に過去のものになっていった。とはいえ、生々しい現実的な設定や会話を採用するだけではあからさま過ぎるし、場合によってはゲンナリもする。それをどうコーティングして「恋愛の夢(あるいは悪夢)」を提示してくれるのかがカギになる。本作は片思いをこじらせて妄想恋愛へと突き進む男を『モテキ』以降のリアリティで描こうとしている。
「さあ、それじゃあ、ドロドロに汚れましょうか」
パリで修行してショコラティエとなった主人公の爽太(松本潤)は、こうモノローグで宣言する。ドロドロとはいえ、そこはチョコレートの海なので、甘美でほろ苦い。いわば甘い痛みの中へズブズブにはまり込んでいくのだが、ある種の男たちの中には、いい女に振り回されたいという欲求の強いひとがいる。
嘘か本気か分からない思わせぶりな態度に一喜一憂しながらも、それが仕事(爽太の場合チョコレートづくり)への情熱を増幅させていく。金持ちになりたいとか女にモテたいという漠然とした夢ではなく、「あのひとによろこんでもらいたい」というモチベーションのみで突き進めるひとはむしろ幸せだ。「あなたに褒められたくて」とは高倉健の著書のタイトルだが、爽太は紗絵子(石原さとみ)を笑顔にしたい一心でチョコづくりに励む。仕事というものの本質が、案外そこにあったりするのかもしれない。不特定多数に向けるのではなく、誰かのためにする何か。
紗絵子が爽太の学校の先輩だったという設定が思いのほか効いていて、手の届かないミューズを思いながらもつい身近な女に行ってしまうという構図には、夢と生活、アート(チョコづくり)と恋(生き方)の両立は可能かという問いが見え隠れする。
ふだん甘いものに関心のない男(自分のことです)ですら、見終ると無性にチョコレートが食べたくなるのも紗絵子の魔法なのか。 
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公式HPより
『明日、ママがいない』1話  日本テレビ 水曜22:00~
1話の放送直後、赤ちゃんポストを有する病院から「人権侵害」として局側に放送中止を求める物言いがついたことで思わぬ話題になってしまったドラマ。確かに「児童養護施設あたりからクレームが来なければいいが」と思いながら見ていたのだが、あんのじょう、という事態になってしまった。
が、ちょっと冷静に見れば、冒頭のホラー調の展開からして、かなり戯画化された寓話性の高い物語だということはすぐに分かるわけで、同じ枠で放送されていた『Mother』『Woman』のような現実に即したシリアスな路線でないことは一目瞭然なのだが。前回書いたように、親に捨てられた子どもたちが、「捨てられたほうも黙っちゃいないぜ、というタフな生き方」を見せるのがこのドラマのキモなのだからして、現実と乖離しているとか人権侵害といった指摘は当たらないのではないかというのが個人的な意見だ。
物語の設定から『家なき子』リターンズか!?などと前回も書いたのだが、なんと1話のエンドクレジットに「脚本監修・野島伸司」の文字が。そう、『家なき子』を手掛けた張本人が関わっていたのだ。公式サイトで事前に公表されていなかったこともあり、これには驚いた(実はネット上では噂されていたのだが)。あくまでも脚本は松田沙也で、野島は監修ということらしいが、かなり内容にコミットしているのではないかと思われる。
というのも、赤ちゃんポストに預けられていたから「ポスト」、家が貧乏だから「ボンビ」、母親が鈍器で男を殴ったから「ドンキ」というあだ名で子どもたちが呼び合う様子を見て、「昔の野島伸司ドラマみたい」とリアルタイムで放送を見ながらツイートしてしまったくらい、90年代の野島ドラマのフレイバーが濃厚だったからだ。もちろん、盛大なリバイバルというわけではなく、この設定なのに意外にも笑いの要素があったり、野島ドラマにあった、やたらとナイーブな「思いつめた感」のようなものはなく、サバサバとした印象(悪く言えば軽い)を受けるあたりが松田沙也テイストなのだろうか。
グループホーム「コガモの家」で、施設長を演じる三上博史が朝食を前に子どもたちに向かって「泣いてみろ。泣いたやつから食っていい」と鬼のようなことを言い放ち、子どもたちがうまく泣けずにいる中、芦田愛菜演じる「ポスト」が見事に泣いて見せる、というシーンは、明らかに現実の子役の世界を戯画化している。あるいは、理想的な里親に選んでもらえるかどうかを子どもたちが心配するくだりは、さながら「たくさんのオーディションの中からいかにおいしい仕事をゲットできるか」という過酷な子役の世界のメタファーだろう。
こうしたことからも分かるように、このドラマは「親に捨てられ施設で暮らす子どもたちの話」という設定を借りつつ、描こうとしているのは、ダメなオトナたちがつくったダメな社会を子どもたちがいかに自力でサヴァイヴしていくのか、という話なのだ。まさか放送中止などということはないと信じたいが、物言いがついたことで無難な脚本に書き直したりせずに初志貫徹してもらいたいと願うばかり。
そういえば、知人に言われて気がついたのだが、本作のキービジュアル(芦田愛菜たちが毛布にくるまっている写真)は、イギリスのロックバンド、The Whoのドキュメント映画『The Kids Are Alright』の引用だ。まさにこのタイトルが劇中の子どもたちへのメッセージになっているあたりがニクい。
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公式HPより
『紙の月』NHK 1~3話 火曜22時~
若い男に貢ぐために勤務先の銀行の金・1億円を着服する主婦を、いつまでも透明感を失わない原田知世46歳がどう演じるのか。本作への興味はほぼその一点にのみ集約されていたのだが、昼ドラ風の設定にも関わらず、生々しい性欲の話にならずに済んでいるのは(それが見たいというひとには物足りないだろうが)、やはり原田知世のたたずまいがあってこそだろう。
梨花(原田)の夫・正文(光石研)は、妻を傷つけることをポロっと口にするが、おそらく本人に自覚はない。暴力をふるうわけでも、浮気をしているわけでもない、ある意味ごく普通の商社マンなのだが(どうでもいいけど、こういう場合の夫は大抵商社マンだな)、梨花の中にオリのように少しずつ積み重なっていく疎外感が、自分を褒め、認めてくれた若い男・光太(満島真之介)へと向かわせる。
普段は見向きもしない高級化粧品を買おうとするとき、手持ちのお金が財布になかったため、顧客から預かった現金を「あとで返せばいいよね」と手をつけてしまうことから始まる転落。確かに、お金には持ち主の名前が書いてあるわけではいから、ひとから預かったお金を使っても、後で自分のお金で補てんすれば一見問題はないように思えるが、ひとのお金に手をつけ、それで何事もなかったという事実は、そのひとの何かを狂わせるのだろう。怖い。実に怖い。
「ちょっと無神経だけどごく普通の夫がいて、なんで若い男のために他人の金を1億も横領するのか理解できない」という声もあるだろう。それはごく自然な感情だと思うが、梨花は若い男にのめり込んだのでも、大金に目が眩んだのでもなく、「ここではないどこか」へ行くことを欲したのではないだろうか。いわば、遠い国への旅を夢見るように。

「ここではないどこか」への旅のチケットが、梨花にとってお金であり恋愛だったのかもしれない。
前回採り上げたドラマの中では、『ロストデイズ』(フジテレビ 土曜23:10~)が、やや展開がゆるく、いまひとつといった印象。演出は『古畑任三郎』『マルモのおきて』などを手掛けた河野圭太なのだが、サスペンスの演出は不得意なのか。山小屋に泊まる大学のテニスサークルの男女をめぐるサスペンスなのだが、ホラー映画ならば開始10分で殺されるような軽~いノリのリア充男女の恋のかけひきが描かれるのみで、2話の時点でメンバーのうちの誰も死んでいない。人気番組『テラスハウス』みたいなルームシェアドラマを見せられているような気分なのだが、屈託がなさそうに思えた面々の裏の顔が徐々に表れ出したので、これからどう物語が転がるか、もう少し様子を見よう。
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公式HPより
その代わりといっては何だが、期待せずに見た『私の嫌いな探偵』(テレビ朝日 金曜23:15~)が思いのほか楽しかった。原作は『謎解きはディナーのあとで』の東川篤哉による「烏賊川市(いかがわし)シリーズ」なのだが、安定感のある二枚目芝居も堂にいった玉木宏に剛力彩芽が「鳥みたいな顔」といじられたり、『33分探偵』『コドモ警察』を手掛けた福田雄一の脚本がふざけまくっていて痛快だ。これまで剛力ちゃんの代表作はランチパックだと思っていたが、これはハマり役ではなかろうか。
『ダークシステム 恋の王座決定戦』(TBS 月曜24:28~)については初回放送がギリギリ間に合わず、次回あらためて書くことにする。次回は2週間後くらいに更新予定。
では、いいドラマを。
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2014 JAN~MAR VOL.01
通常、テレビドラマは3カ月に一度入れ替わるが、新ドラマの初回を見逃すと、次回以降見る気が失せるのはよくある話。ということで、2014年1月スタートの新ドラマの中から、「とりあえず初回だけでも予約録画しておいたほうがいいドラマ」をセレクトしておく。もちろん、リアルタイムで見ることが可能であればなるべく録画せずに見るべし。録画が溜まるとだんだん見るのが億劫になるものだ。
フタを開けてみないと何とも言えないのがドラマの面白さであり怖さでもあるのだが、事前情報や過去のデータなどから読み解くと、こんな感じになる。
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公式HPより
『なぞの転校生』テレビ東京 1/10スタート 金曜24:12~
原作は1967年発表の眉村卓によるSFジュブナイル小説。1975年、NHKがウイークデイの夕方放送していた帯番組「少年ドラマシリーズ」枠でドラマ化され人気を博した作品なのだが、そんな昔の話をなぜ今? と、まさにクラスに突然なぞの転校生がやってきたかのごとく不思議がっていたら、企画プロデュースと脚本を映画監督の岩井俊二が手掛けると知り、ははーんと腑に落ちた。
岩井俊二はまさにこのドラマをリアルタイムで見ている世代だし、しかも、「高度に進んだ文明を築いたがゆえに核戦争を引き起こし別次元の世界から避難してきた民」という設定は、福島の原発事故とそこから避難した人たちをどうしたって想起する。岩井は宮城県の出身で、NHKの東日本大震災復興支援ソング『花は咲く』の作詞も手掛けている。当然、今この話をやる上で、核に対する危惧を込めるであろうことは想像に難くない。
もちろん原作小説もNHKのドラマも、あからさまな反核思想などではなく、ある日突然やってきた異能者が日常に揺さぶりをかけるという、基本的にはSFやサスペンスのかたちを取りつつ、行き過ぎた現代文明に警鐘を鳴らすというメッセージが背後に置かれている。実は、まさに今描くべきテーマが内包された話だといえる。
主人公・岩田広一に中村蒼、なぞの転校生・山沢典夫に本郷奏多という若いけれどキャリアのある2人を配しているが、注目は岩田と幼なじみの香川みどりを演じる桜井美南(みなみ)。これがドラマ初出演となる桜井は、鈴木杏、北乃きい、南沢奈央を輩出したキットカット受験生応援キャラクターの5代目にあたる16歳(ちなみに4代目は2013年注目を集めた刈谷友衣子)。
しかも岩井俊二といえば、自身の映画で奥菜惠や蒼井優をブレイクさせた「女の子を見る目が確かな」監督。予告動画以外、動いている姿をまともに見たことがないうちからこんなことを言うのもナンだが、おそらく逸材に違いない。
とはいえ、岩井はプロデュースと脚本のみで、演出は『夜のピクニック』などで知られる映画監督の長澤雅彦が手掛ける。これまで大根仁監督の『モテキ』、園子温監督の『みんな!エスパーだよ!』などを放映してきたテレ東深夜の「ドラマ24」枠で岩井俊二&長澤雅彦とくれば映画好きも必見だ。
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公式HPより
『失恋ショコラティエ』 フジテレビ 1/13スタート 月曜21:00~
いわゆる月9。と言っても、最近の月9はかつてのトレンディドラマの流れを汲む王道の恋愛ドラマを放映する枠では既になくなっていて、『鍵のかかった部屋』『ビブリア古書堂の事件手帖』などライトなミステリィ物も多く、バラエティに富んでいる。
2012年夏、この枠で放映された『リッチマン、プアウーマン』(小栗旬、石原さとみ出演)も一見王道の恋愛物のようでいて、「就職が決まらない高学歴女子とIT企業を起ち上げ成功を手にした若き経営者との格差恋愛」を題材にした、恋愛+起業物というあたらしい手触りのドラマだった。Facebookの創業者、マーク・ザッカーバーグをモデルにした映画『ソーシャル・ネットワーク』に韓流ドラマをプラスしたような、と言ってもいい。
とりわけ、一筋縄ではいかない安達奈緒子の脚本が秀逸だったのが、『失恋ショコラティエ』は、その安達が脚本を手掛けていることからも要注目。原作は累計100万部を記録する水城せとなの人気コミックだが、こういう場合、何かと原作ファンからは厳しい声が上がるものと想像される。むしろ原作を未読のひとのほうがすんなり入れるかもしれない。
ある意味ストーカー的な妄想恋愛に邁進する主人公・爽太を嵐の松本潤がどう体現するのか。『リッチマン~』では子犬のような愛らしさ全開だった石原さとみが爽太を思わせぶりに振り回す「性格悪子ちゃん」のサエコをどうリアルに演じるのか。20代男子の4割が恋愛経験ナシといわれる現代において、あからさまにベタな恋愛ドラマをつくるとは思えず、かなりヒネリや毒のある展開になるものと思われる。
原作では爽太のセフレとして描かれる加藤えれな役が水原希子というのもグッとくるし、爽太の妹・まつり役に有村架純が配されているあたりも抜かりがない。
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公式HPより
『明日、ママがいない』 日本テレビ 1/15スタート 水曜22:00~
日テレ水曜10時といえば、芦田愛菜が注目されるきっかけとなった『Mother』や満島ひかりがシングルマザーを演じた『Woman』(いずれも脚本は坂元裕二)など、母と子の葛藤の物語に象徴されるヘビーながらも見応えのあるドラマを放映してきた枠だ。この枠に、ふたたび芦田愛菜が降臨。そして、大河ドラマ『八重の桜』のチビ八重で人気を集め、『Woman』では満島ひかりの娘を演じた鈴木梨央も加わり、何やらまたしても見る者の涙を枯らそうという魂胆らしい。
親の虐待などによって児童養護施設に預けられた子どもたちがサヴァイヴしていく話と知り、安達祐実の『家なき子』リターンズか!? と思ったのだが、予告動画を見たら、「親なき子たちの物語」というフレーズを使っていて納得。施設の子どもたちが「ポスト」だの「ボンビ」だのとあだ名で呼び合うのは、親からもらったものは名前も含めてすべて捨てるためだというからすさまじい。
「親に虐待されてかわいそう」なんていう良識ある視聴者のうわべだけの感傷を吹っ飛ばし、捨てられたほうだって黙っちゃいないぜ、というタフな生き方を見せてもらいたい。はたして「同情するなら金をくれ」に匹敵するキラーフレーズは出るのだろうか。
今のところ公式サイトに脚本家のクレジットはない。普通に考えれば『Mother』『Woman』の坂元裕二なのだろうが、どうやら新海誠のアニメーションの脚本に参加している松田沙也の線が濃厚。未知数のひとだけに期待と不安が入り混じった状態で放映を待つしかなさそうだ。
他には、TBS深夜の「ドラマNEO」枠で放映される『ダークシステム 恋の王座決定戦』(TBS 1/20スタート 月曜24:28~)も、まさにダークホースとして押さえておきたい。何しろ、自主映画でありながら異例の高評価を得た幸修司の映画『ダークシステム』に惚れ込んだ映画監督の犬童一心(『ジョゼと虎と魚たち』『のぼうの城』)が演出を買って出たというのだ。
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公式HPより
好きな女の子を恋敵に奪われた男が手づくりマシンを駆使して反撃に出る...という恋愛バトルコメディだが、『失恋ショコラティエ』がフランスで修行してショコラティエになってあのコを見返してやるんだ!というシャレオツなリベンジであるのに対し、『ダークシステム』の主人公・加賀美はあくまで負のエネルギーをマシンに搭載してライバルに暑苦しく立ち向かう。
加賀美を演じるのは、これがドラマ単独初主演のHey! Say! JUMP・八乙女光。自分勝手で小心者というイケてない主人公をどう演じるのか見ものだが、加賀美が惚れ込むヒロイン・白石ユリを昨年のミスiDグランプリに輝いた玉城ティナが演じるのも大注目。すでにモデルとして各方面から引っ張りだこだが、ファムファタル(運命の女)と言うべき役柄をドラマ初出演の玉城がどう魅せるのか。低予算の自主映画だからこそ生まれる馬鹿馬鹿しい情熱のようなものが映画版の魅力だったが、ドラマ版にもその熱量が受け継がれていることを期待したい。
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他にも、瀬戸康史主演、石橋杏奈、小島藤子、三吉彩花など注目の若手女優が揃い、1日1話、10日間を10話で描くというミステリー『ロストデイズ』(フジテレビ 1/11スタート 土曜23:10~)あたりも初回は押さえておきたい。角田光代の小説のドラマ化で原田知世が主演を務める『紙の月』(NHK 1/7スタート 火曜22時~)も、全5話と短いが、巨額横領して男に貢ぐ女を原田知世がどう演じるのか興味をそそられる。
ということで、1月スタートのドラマをピックアップしてみたが、岩井俊二、長澤雅彦、犬童一心と、複数の映画監督が連続ドラマに進出しているのも今期の特徴のひとつ。ドラマ好きの間ではここしばらく「脚本家は誰か」でドラマを見る傾向があったが、それに加えて今度は「演出は誰か」に注目が集まるとすれば、さらに見方は多角的になる。
『医龍4』がないじゃないか!とか、向井理と綾野剛という当代人気イケメン共演の『S 最後の警官』はどうした!とか、各所からツッコミが聞こえてくるが、まあ気のせいだろう。人気シリーズや人気俳優のドラマは放っておいても見るひとは見るでしょ。というのがこのコーナーのスタンスだ。
次回は、新ドラマの初回が出そろったタイミングで更新する予定なので、ぜひそれまでにおのおの課題(?)をクリアしておいてほしい。
では、いいドラマを。
BACK NUMBER
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ドラマから流行語が生まれたり、なにやらテレビドラマの周辺が騒がしい。実際見応えのあるものも多く、「映画は観るけどドラマはちょっと...」なんて言って食わず嫌いしているのはもったいない。でも、すべての連ドラをチェックするのは物理的に無理。しかも、高視聴率だから面白いかといえば、実はそうでもなかったりするから話はややこしい。そこで、ほんとうに面白い、いま見ておくべきドラマを独自の視点で採り上げていくのがこのコーナー。ブッタ斬りでもメッタ斬りでも重箱の隅つつき系のツッコミ芸でもなく。そのドラマの「何がどう面白いのか」「どこをどう面白がるべきか」をふんわり提示する、普段ドラマを見ないひとにこそ読んで欲しいドラマ・ウォッチ・ナビ!

Text_Shin Sakurai
Design_Shogo Kosakai[siun]

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2014 April-June vol.03 6/18up
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公式HPより
『BORDER ボーダー』 テレビ朝日 木曜21時~ 8~9話(終了)
今期のドラマのなかで、予想を超えて面白く見ていたのが『BORDER』だった。
もはやさんざんやり尽くされたと思える刑事・事件ものにあたらしい質感をもたらした功績は大きい。小説『GO』やドラマ『SP』で知られる作家・金城一紀の原案・脚本、『相棒』や映画『探偵はBARにいる』の橋本一がメイン演出というふれこみから、ある程度のクオリティは保証されていたものの、こればかりは実際に見るまでわからない。
小栗旬が演じる刑事・石川安吾は、ある事件で頭に弾丸を撃ち込まれ、死の恐怖に直面したからか、頭に残ったままの弾が脳の神経のどこかに作用したのか、それをきっかけに死者と会話ができるようになる...というアイデアの大元は、おそらく死者と話すことができる少年が登場する映画『シックスセンス』(99年)に由来するのだろう。ところが、その設定を刑事・事件ものに投入することで、生と死の境界、ひいては正義と悪の境界の話になっていくため、もちろん物語自体はまるで異なった色を帯びる。
9話とややショートに終了してしまったが、この設定ならいくらでも(というのは言い過ぎにせよ)エピソードがつくれるだろうし、最終話は続編を匂わせる終わり方だったし、ましてや視聴率も良かったとなれば、パート2がつくられることはほぼ間違いない。
※初回視聴率9.7%からスタートし、宮藤官九郎がゲスト出演した5話が13.1%、7話が16.7%、最終話は14.4%と大健闘した。逆に開始前は下馬評が高かった裏 場組の『MOZU』は13.3%からスタートし、9話では7.7%にまで落ち込んだ(最終話は13.8%)。
終盤の8話では、石川が頭を撃たれた事件の真相が明らかになる。話自体は、昨年放送された「3億円事件=警察内部の犯行説」をとなえたドラマ『クロコーチ』(TBS)を思わせる警察組織の暗部を描いていたものの、石川が上司である監理官に「おまえも遅かれ早かれ正義の階段を踏み外すことになる。その時、ひどい転げ落ち方をしないように下で受け止めてやる人間が必要だ。俺がその役目を果たしてやるよ」という予言めいたことを言われ、「俺は絶対に正義の階段を踏み外さない」と反発するくだりが、そのまま最終話のエピソードへと連なるという展開が巧みだった。
死者(望まずして命を絶たれた者)と対話ができるようになった石川には、彼らの無念が痛いほど分かる。そして、殺された者から誰が犯人なのかを教えられることによって、何が何でも自分が犯人を逮捕しなければならないという正義に駆り立てられるわけだが、暴走する正義は悪と紙一重なのだということを明示するのが最終話「越境」だ。
大森南朋が演じる安藤という男は、絶対的な悪を実現するためにさまざまな研究を重ね、職業をも変えていく。おもちゃメーカーの社員としてショッピングモールに出入りし、おもちゃで子どもの気を惹き、誘拐・殺害する卑劣な人物だが、用意周到に計画された犯行に一切の証拠は残っておらず、殺された子どもから犯人だと教えられた石川をイラつかせる。こいつが犯人だと分かっているにも関わらず捕まるこずとが出来ず、その男が引き続き惨たらしい事件を起こすのを指を咥えて眺めるしかないのか。
石川の特殊な能力は、もちろん他言していないため、同僚や上司はそのことを知らない。波瑠演じる検視官の比嘉だけがうすうす感付いているのだが、誰にも相談することなく、石川はひとりで犯人と対峙することになる。これが最終的に大きな悲劇を生む、というのが最終話なのだが、「越境」というサブタイトルからも分かるように、まさに石川は最後にボーダーを越えてしまうのだった。
大森南朋は、淡々とした態度で平然と殺人を繰り返す男・安藤を不気味に演じていた。いわゆる「狂気を内包した」といった分かりやすい芝居ではなく、何を考えているのか分からない体温の低い佇まいだからこそ、見る者はゾッとするのだ(どことなくTBSの安住アナを思わせるキャラクターだった。かねてから安住アナが殺人犯を演じたら最高だと思っているのだが、これはまったくの余談)。
安藤の持論は、どこにでもいる平凡な子どもを殺すことで、「私があの子に光を与え、世の親たちにモラルを与えた」という理不尽極まりないものだ。「闇があるからこそ光がある。悪があって正義がある。どちらか一方しかない世界なんてつまらないですよ。私がいるからこそ、あなたは輝けるんです。もしそれが気に入らないなら、あなたもこちら側にくるといい」と石川を挑発する安藤。「いつから悪に染まった? 何がきっかけだ」と問い詰める石川に、「さあ、いつからでしょう。ところで、あなたが正義に染まったのはいつからですか。何がきっかけですか? 分かったでしょう。実は正義と悪に大した違いはないんです」
悪と正義はコインの裏表、合わせ鏡だという話は古今数多く見られ、バットマンとジョーカーの例を持ち出すまでもなく、特別目新しいものではない。「私は悪を成すためなら人を殺せます。でも、あなたは(正義のために人を)殺せないでしょう。この差は永遠に縮まらないんです」と安藤が言うように、悪よりも正義を成すことのほうが難しい。なぜなら、正義のために行動を起こすことは、容易に悪へと転ぶ危険をはらんでいるからだ。
絶対的な悪は存在しても、絶対的な正義はあり得るのか。そうした問いが、ドラマの終盤で見る者に突き付けられる。そして、答えのないままエンディングを迎えた。問いは問いのまま、見る者のなかにあり続ける。靴に入った小石のように。
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公式HPより
『続・最後から二番目の恋』フジテレビ 木曜22時~ 7~9話
「鎌倉を舞台にしたスローライフなオトナの恋愛劇」という入れ物のなかに、仕事論・ドラマ論をも盛り込みつつ、多彩な世代の登場人物それぞれの「しあわせのありよう」を見つめていくという、じつに複雑なことをさらりとやり遂げているのがこのドラマ。
いや、「さらり」というのは見ているほうの勝手な言い分であって、作り手は四苦八苦かもしれないが、そのくらい「いい風が吹いている」ドラマであることは間違いない。
恋愛ドラマではあるものの、ここで提示されているのは「あたらしいホームドラマ」でもある。中井貴一演じる長倉和平を主とする長倉家のリビングダイニングには、家族はもちろん、隣に住む吉野千明(小泉今日子)が毎朝、朝食を食べにやって来るし、嫁いだはずの長女・典子(飯島直子)も何かとやってくる。昼間はカフェとして営業し、和平の娘・えりな(白本彩奈)のボーイフレンドの母親・薫子(長谷川京子)が手伝いに来たりもする。つまり、長倉家のリビングダイニングは内と外がゆるやかに連なる縁側であり、「あたらしいお茶の間」なのだ。
かつて、向田邦子が脚本を書いた『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』などに登場したお茶の間。家族ですらバラバラに食事をすることが当たり前のようになった現代、向田邦子的お茶の間空間はもはや幻想に過ぎないのかもしれないが、バラバラの人間がかろうじてひとまとりになれる空間が、長倉家の食卓にはある。
7話では、長倉家の面々がリビングダイニングで親戚の叔母さんのエピソードを延々と語り合うシーンがあった。若い頃、長髪にした和平を見て、床屋に行く金がないのかと憐れんだ叔母さんが泣きながら5千円札を握らせてくれた、という話から叔母さんの家で食べたカレーがおいしかった、というエピソードに着地する、とりとめのない話を、家族でも親戚でもない千明が同じテーブルで笑いながら聞いている。
カメラは、家族の思い出を懐かしそうに語る長倉家の面々から、次第にそれを聞く千明の顔を捉えていく。「なんだよ、そのいい話は。サザエさんか? ちびまる子ちゃんか、あんたたちは。何、日曜日の夕方感出してんだよ。まだ午前中だよ」などとツッコむ千明だが、「くだらない話を懐かしんだり笑い合える家族っていいよな」と思っているでろあろうことが、その表情からくみ取れる。
庭でまったりする千明が、隣に来た和平に向かって、「私がおばあちゃんになった時、日曜日の夕方にどんな顔してサザエさん見てるんでしょうね。笑ってますかね。笑っていたいな。っていうか、やってますかね、サザエさん、その頃」とつぶやくと、「きっと、あなたは笑って見てますよ」と和平が答える。じいさん、ばあさんになった時、サザエさんを笑って見ている自分でありたい。それは、日本に住む者にとって、いわば究極的な意味で理想の老後の姿かもしれない。そして、「あなたはおばあさんになった時、きっと笑ってサザエさんを見ていますよ」と言うのは、究極の愛情表現ではなかろうか。こんなことをさらりと言える和平は、大人の男だと思う。
とにかく、どれほどすったもんだがあろうとも、いや、あればあるだけ、和平と千明がふたりでしっぽりと語るシーンの良さが際立つのだ。
8話では、「またまだ分からないことだらけ、探してるものだらけ。そのほうが前に進めるというか、この先、もうちょっとだけ成長できる気がしません? でも、まだまだなのに、残された時間はどんどん少なくなっていく。やれやれですよ(和平)」「歳をとるのも面白いなと思って。分からなかったことが分かるようになって、分かったと思ったことがまた分からなくなって。まだまだですね、私たち(千明)」なんていう会話もあった。
9話では、「男の前で泣くくらいなら切腹する」とまで言っていた千明が、和平とサシ飲みしながら思わず泣いてしまう。ツラいことがあった千明の話をずっと黙ってうなずきながら聞いていた和平が、ぽつりと言う「私は好きですけどね。吉野さんみたいな、泣けない、系?」のひと言で千明の涙腺が決壊。ここでは、千明の愚痴とも心情吐露ともつかない話を和平が黙って聞くのがポイントなのだ。普段はああ言えばこう言うのふたりでも、いざという時にはじっくりと相手の話を聞く。ほんと、大人げないのに大人なのである。長倉和平って男は。
毎回書き起こしたくなるような珠玉のセリフの数々だが、きりがないのであとは本編をご覧いただくとして、「大人げないままこんな大人になりました」と歌い出す横山剣作詞・作曲のエンディングテーマ「T字路」(貴一・キョンキョンのデュエット)の通り、いつまでも大人になりきれない大人たちのしあわせの行方を見守りたい。
それにしても、鎌倉市の市長(柴田理恵)が市長秘書の和平に恋するエピソードは誰得なのだろう。美男美女のすったもんだだけだと視聴者が感情移入できないから、という理由なのだろうか。そこだけは謎。
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公式HPより
『リバースエッジ 大川端探偵社』 テレビ東京 金曜0時12分~ 7~9話
何かに囚われて生きている男たちがいる。それは、過去に出会った自分の人生を変えたある女だったり、一度も姿を見たことはない声の持ち主だったりするのだが、そのひとを探してほしいと探偵社に依頼を持ちかける男たちの物語が7話から9話とつづく。
7話「夏の雪女」の依頼者は、20年前の夏の夜、白いワンピースを来た若い女(國武綾)にいきなり路上で「助けてください」と懇願され、自分のアパートにかくまった経験がある中年男・蓑田(田窪一世)。仕事から帰ると、「冷蔵庫にあるものだけで作ったんですけど」と言って女は手料理を作って甲斐甲斐しく待っていた。今まで女性とそんな時間を過ごしたことのない男は、この突然の押しかけ女房的存在に心酔する。
3日目の夜、女は「抱いてください」と男に体を預けて...という、実にありえへん性的ファンタジーが繰り広げられるわけだが、この夜を最後に突然女は去っていく。そりゃあ、こんなことがあれば、男はこの女のことがずっと忘れられなくなるかもしれず、ある意味で人生を狂わされてしまうことにもなろう。この男は20年もの間、どこの誰かも分からない白い服を着た雪女のような女の幻とともに生きてきたのである。原作のマンガでは、この依頼者はその後結婚して子どももいるということになっているが、ドラマでは今も独身のさえない中年男として描かれる。明らかに過去の時間に囚われたままなのだ。
大川端探偵社の村木(オダギリジョー)は、依頼者の持参したバーのマッチを頼りに女の居所を探そうとするが、そのマッチを擦ろうとするとしけっていてうまく点かないことで20年の時間の経過を示す演出が冴える。
結局、依頼者がたまたまテレビで見た女優がその「雪女」だということに気づき、村木は女優と会う機会を得て過去について問いただすも、女優は否定。原作のマンガでは、村木が女優の脇の下にほくろがあることに気づく、という結末だったが、ドラマでは脇の下のくだりはナシ。その代わり、かつて女が男の部屋で最後の夜にすき焼きを食べるくだりで、「私、すき焼きだと卵たくさん食べちゃうんです」と言いながら生卵を6個も食べるというシーンがあるのだが、村木の前で女優が生卵の乗ったタルトだかパンケーキだかを食べることによって、やはり雪女はこの女優だったのか、と見る者が気づく仕掛けになっている。さらに、最後に女優が村木の元をもう一度訪ねて来ることで、依頼者だけでなく、女もまた過去の出来事に囚われていることが分かるというオチも。
8話の「女番長」では、空手の師範・梶原(橋本じゅん)が、かつて荒んだ高校で不良のいじめに遭っていた少年時代、女番長(吉倉あおい)に救われたことで強い男になる決意したことから、その人生の恩人に会ってあらためて礼が言いたいと願う。中年になった元・女番長はかつての梶原少年のことを良く覚えていないというあたりが切ないが、人生を変えた出会いなんて案外そんなものかもしれない。変えられたほうはいつまでもそのひとのことを憶え、囚われているが、変えたほうはすっかり忘れてしまっている、というような。
9話の「命もらいます」の依頼者は、遊園地の場内アナウンスの「声」に囚われ、その主に会いたいと渇望するオタク男(ボブ鈴木)だ。探偵社の村木と秘書のメグミ(小泉麻耶)の電話攻勢でアナウンスを担当した声優を突き止めるが、当然キモいオタクに会う理由などなく面会を断られてしまう。村木らは苦肉の策で替え玉の老婆を用意し、「あのアナウンスは60年前に録音したものだった」と言い張ってごまかそうとする。原作では、依頼者はこの作戦にまんまと引っかかるのだが、ドラマでは、アナウンスのあるフレーズが60年前に流通しているはずがないことを依頼者が見抜き、嘘が見破られてしまうのだった。
結局、依頼者は声の主に会いたいというリアルな欲望より、これまで通り遊園地に通ってアナウンスの声に繰り返しうっとりと陶酔することを選ぶ。生身の声優は年老いていくが、録音された声は永遠に若いまま。ここにもまた、幻とともに生きようとする男のいびつな姿がある。
過去の時間を巻き戻そうとする者、あるいは、ある時間のなかに永遠にとどまろうとする者。いずれもまた、同じくらい切なく、もの悲しいのである。
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2014 April-June vol.02
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公式HPより
『続・最後から二番目の恋』フジテレビ 木曜22時~ 4~6話
「鎌倉を舞台にしたアラフィフの恋愛ドラマ」という設定を借りつつも、さまざまな世代の恋愛や仕事、すなわち人生を複層的に描く本作。2012年のファーストシーズンからスペシャル版、そして今シーズンと見続けてきた者としては、時間経過とともに歳を重ねる登場人物たちに対してもはや奇妙な愛着が生まれているわけだが、思えばそれは同局の長寿ドラマ『北の国から』をも彷彿とさせる。朝ドラや大河ドラマは別にして、基本3ヶ月で切り替わってしまう連ドラではなかなかここまで辿りつけるものではないが、海外ドラマを見れば分かる通り、長く続けることで生まれる愛着というものは確かにあるのだ(もちろんその一方でマンネリの危険も)。
さて、テレビプロデューサー千明(小泉今日子)の元に舞い戻ってきた年下の元カレで「食えない脚本家」の涼太(加瀬亮)。千明の大抜擢で新作ドラマのホンを任されたまでは良かったものの、出来上がったのは「死ぬほどつまらないホン(by千明)」だったという笑えない展開に。クリエイティヴな仕事をしている恋人同士、あるいは夫婦にも当てはまる、「もしパートナーがヒドいものをつくってしまった時に何と言えばいいのか問題」がここで浮上する。はっきりと言うのが愛情なのか、否定せず励まして奮い立たせるのがやさしさなのか。迷う千明の気配を察し、涼太はみずから口を開く。
「つまんないよね。ひとりよがりでどうにもならない、チラシの裏にでも書いてろって感じ。恋愛ドラマとか言ってるのにドキドキもなければキュンともこない。セリフに魅力もないし、意味ありげなかっこつけたセリフが続いてるだけで、陳腐だしイライラするよね。それに登場人物全員トラウマだらけでトラウマ頼りかよ、みたいな。自分で読み直して、こいつ辞めたほうがいいなって」
そんなにヒドいのか? 長年温めてた話とか言ってたのに!? と思わずズッコケてしまったが、まあ「俺まだ本気出してないだけ」と思うのは自由でも、実際に本気出した結果がヒドかった場合、果たしてどうなるのか。涼太の場合、若くしてシナリオ大賞を受賞してデビューという華々しい過去があるだけに、自分の書いたものがつまらないと認めるのはかなりしんどいことだったに違いない。
しかし、早朝の海を眺めながら千明の元を去る涼太の姿は、どこか吹っ切れたようにも見える。海岸でたまたま出くわした鎌倉市役所勤務の長倉和平(中井貴一)は、海に向かって手を広げながら「鎌倉は、いつまでもこのままで待ってますから」と涼太を見送る。鎌倉に来ておのれの才能のなさと向き合うことになった涼太は、それでも鎌倉という街と人に少しだけ癒されて去って行ったのだろう。「本当に疲れたら、また来ます」と言い残して。
このドラマは、鎌倉という街と、和平を主(あるじ)とした長倉家とその隣にたまたま住む千明を含めた疑似家族の小さなコミュニティの話でもある。そういえば、カマクラとナガクラは似ている。長倉家と千明の家は、もはや別棟のシェアハウスのようだ。
和平は妻に先立たれた独身の52歳、千明は「未婚のプロ(byジェーン・スー)」の48歳。職場や男女間のすったもんだがあっても、家に帰るとすぐ隣に同世代の異性の飲み友だちがいるというのは案外悪くないものかもしれない。ふだんは言い合いが絶えない和平と千明がしっぽりサシ飲みするシーンには、毎度しみじみとした雰囲気が漂う。
今後、このふたりが結婚するのかしないのかは分からない。が、仮に千明が急に家で倒れても絶対に孤独死にはならないだろうな、と考えると、こうした血縁なきコミュニティはこれからあちこちで増えていくのかもしれないし、そうしたとき、長倉家と千明の関係性は一種のロールモデルになり得るのかもしれない。まあ、現実には恋愛が絡むともっとドロドロするのだろうが。
第6話では、長倉家の二男・真平(坂口憲二)と和平の部下・知美(佐津川愛美)の結婚式が描かれていたが、さながら友だちや知り合いの結婚式を見ているような幸福な気分に包まれるドラマ前半のクライマックスといえる回だった。新婦が長倉家の女性陣たちと女子版バチェラーパーティーで盛り上がるなか、真平が兄の和平に「今までありがとうごさいました」と涙ながらに感謝のことばを告げるという男女逆転の構図もおかしかった。
○歳で結婚して○歳で子どもが生まれて〇歳で子どもが独立して...などというイメージ通りにいかないのもまた人生だったりするわけだが、本作は「人生はこうでなければいけない」という既存の価値観とは別の「もうひとつの価値観」の尺度を提示しながら、家族とも会社とも異なる「もうひとつの場所」のありようを示しているようにも思える。
大人のファンタジーかもしれないが、どこかリアルでもある。
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公式HPより
『リバースエッジ 大川端探偵社』 テレビ東京 金曜 0時12分~ 4~6話
「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」とはチャップリンのことばだったろうか。このドラマの真骨頂は、悲劇と喜劇が表裏一体となった世界観にある。
たとえば、4話「アイドル・桃ノ木マリン」、5話「怖い顔グランプリ」、6話「がんばれ弁当」に漂うおかしみと哀しみはどうだろう。
昔、ナマで見て以来ファンになったアイドルにどうしてももう一度会って人生をやり直したいと願うリストラされた中年男、顔が怖すぎてテロリスト呼ばわりされる手作りパン屋さん、留守中に弁当を届けるファンとあわよくばヤリたい売れない芸人。事件でも何でもない珍奇な依頼を持ちかける者ばかりが大川端探偵社を訪れるのだが、いずれも笑えるのに、どこか哀しくて切ない。まるで上質の落語を聴いたあとのようなじんわりとした余韻が残るのだ。無理に笑わせるでも無理に感動させるでもない、「そこはかとなく」の塩梅がいい。
基本ワンアイデアといえる1話完結の原作マンガ(作・ひじかた憂峰、画・たなか亜希夫)のどこを膨らませ、どう改変したのかを原作と照らし合わせながら見ていくのもひとつの楽しみ方といえるだろう。脚本・演出の大根仁はディープなマンガ読みとしても知られ、『モテキ』等のマンガ原作の映像化が多いこともあり、原作のテイストを最大限に活かしたうえで映像として立体化させる手さばきには唸るしかない。
たとえば、「アイドル・桃ノ木マリン」は、原作では離婚したばかりの中年男が現在のマリンと再会してただ茫然とするところで終わるのだが、ドラマでは設定をリストラされた中年男(マキタスポーツ)に変え、マリンとの再会だけでなく、その後の第2の人生をも見届けようとするやさしさが光る。
「怖い顔グランプリ」は、原作では秘書・メグミ(小泉麻耶)の付けているウサ耳に特に意味はないのだが、ドラマではメグミのいたずらでウサ耳を付けられた所長(石橋蓮司)と村木(オダギリジョー)が「かわいいー」とからかわれていると、とてつもなく怖い顔の依頼者が訪ねてくるというツカミになっている。「かわいい」から「怖い」への対比が一瞬にして鮮やかに描かれ、メグミがバニーガールの店で働いているエピソードへと連なり、そのバニーの衣装がクライマックスの怖い顔グランプリのステージで活かされることになる。しかも、メグミから怖い顔のパン屋への贈り物もカブリもの(自分をキャラ化するアイテム)つながりになっているという巧妙さ。
上手い! おーい山田くん、座布団やってくれ。である。
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『BORDER ボーダー』 テレビ朝日 木曜21時~ 5~7話
刑事もの・事件もののドラマが乱立するなか、俄然本作が面白い。仕事が生きがいの刑事・石川安吾(小栗旬)は、事件発生の連絡を心待ちにするようなワーカホリックゆえ、友人や恋人と疎遠になってもさして気にしない人間味の薄い男だった。ところが、ある事件をきっかけに死者と話すことができる能力を身に付けてしまったことで、次第に人間としての感情を取り戻していくのだが、それが正義という名の暴走と化していく辺りがこのドラマの面白さであり恐ろしさだ。行き過ぎた正義は悪とイコールという危うさもきっちり描いている。
脚本家の宮藤官九郎が死者の役でゲスト出演した5話は、これまでの流れからすればやや異色のコメディタッチの回だったが、ここでは石川と死者の岡部はさながらバディのように事件の真相を追うことになる。石川は死者の姿が見え、話すことが出来るが、岡部は死んだ瞬間に頭を打って記憶喪失になってしまったため、なぜ自分が死んだのかが分からない。そもそも自分がどこの誰だかすら分からないのだから、死者と対話が出来てもただちに真相には辿り着けない、というなんとも皮肉な展開に。
「コンビニをあたってくれ」との班長(遠藤憲一)の指令に、石川らと交じって神妙な面持ちで「はい」と返事をして走り出す岡部。完全に捜査班の一員のつもりなのがおかしいが、究明しようとしているのは他でもない自分の死なのだ。結局、岡部が死んだのは思わずズッコケるような理由によってなのだが、しかし、案外人間はこんなことで死ぬこともあるのではないかとも思える不思議な説得力がある。そして、実は岡部が死んだ理由の伏線となるシーンが前半の石川のあるアクションに隠されいるのは決して偶然ではないだろう。このドラマでは、伏線や裏の意図があちこちに仕込まれているからあなどれないのだ。
なにより、「死者と会話が出来る」という設定を毎回手を変え品を変え多面的に転がしていく金城一紀の脚本がすばらしい。1話完結のなかに2時間ドラマか1本の映画でも使えそうなプロットを惜し気もなく投入し、「そうか、こういう展開の仕方もあるのか!」と驚かせる辺り、まだまだアイデアは尽きそうにない。
抑制のなかに感情の起伏を覗かせる小栗旬のたたずまい、検視官を演じるクールビューティー波瑠の意志を感じさせるまなざし。気が早いかもしれないが、ぜひともシリーズ化を期待したい。
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『ロング・グッドバイ』NHK 1~5話
土曜ドラマ枠の『ロング・グッドバイ』は5月17日に全5話の放送が終了してしまったが、今期の注目作のひとつだったこともあり、少し触れておきたい。
「ハードボイルドの金字塔」といわれるレイモンド・チャンドラーの小説『長いお別れ』(1953年発表)を、舞台を戦後の日本に置き換えてドラマ化すると知ったときには驚いた。しかし、脚本を映画『ジョゼと虎と魚たち』や『メゾン・ド・ヒミコ』、朝ドラ『カーネーション』などで知られる渡辺あやが手掛けるというのでかなりの期待をもって見始めたのだが、1話を見た時点で少々面食らってしまったのも事実だった。
私立探偵フィリップ・マーロウは増沢磐二、富豪の娘のヒモ亭主テリー・レノックスは原田保など、登場人物はすべて日本人に置き換えられてはいるものの、ストーリーはほぼ原作に忠実。面食らったのは、まず、増沢がある事件と深く関わるきっかけになる、保との出会いのシーンだ。保が上半身裸の上にシャツを羽織る背中をカメラがスローモーションで捉え、その姿をねっとりとしたまなざしで増沢が見つめるのである。原作では、探偵と「憎みきれないろくでなし」のテリーとの奇妙な友情が描かれ、マーロウはテリーとの友情のために事件に深く関わることになるのだが、ドラマでの描写では、友情というよりもむしろ性的なニュアンスが濃厚だったのだ(少なくともそう見える演出になっていた)。
いや、そもそも原作にもそうしたニュアンス(今でいうBL的な)があるという意見もあるかもしれないし、なぜマーロウがほんの数回会っただけのテリーにそこまで肩入れするのかという理由も、「惚れたから」といわれれば済む話なのかもしれないが、「え? そういう話だったっけ?」というのが1話を見た正直な感想だった。女性脚本家がハードボイルドを描くとBLになるのか。自身のフェティッシュな欲望を解放するためにチャンドラーが引用されているのではないか、とすら思えた。
思い出したのは、ジュリーこと沢田研二が3億円事件の犯人を演じたドラマ『悪魔のようなあいつ』(1975年)だ。超絶美青年だった頃のジュリーが演じる可門は3億円強奪犯の男娼で、その仕事をあっせんするバーの経営者・野々村(藤竜也)は可門に惚れているというとてつもない設定のドラマだった。スタッフ、キャスト全員が何らかの物質をキメて撮影に臨んでいるのではないかと思うほどドラッギーかつダウナーなドラマなのだが、どうもそれと同じようなスメルを嗅ぎ取ったりもした(あくまでもイメージです)。という目で見ると、綾野剛がジュリーに、浅野忠信が藤竜也に見えてくるから不思議だ。
もっとも、話が進むうちに、事件のカギを握る流行作家の美人妻・上井戸亜以子(小雪)に増沢が魅了されるようになるので、どうやらゲイではないらしいことは分かるのだが、1話の耽美的ともいえるトーンはそのまま踏襲されているので、なかなか当初のイメージから抜け出せずにいた。物語のテイストは、実業家・原田平蔵(柄本明)が増沢と対峙する辺りで変わり始める。新聞社と出版社を持ち、テレビ局をつくり、政界にも進出しようと目論む原田のキャラクター設定は、どこから見ても読売新聞とジャイアンツと日テレをつくり原発を推進した正力松太郎を連想させる。街頭テレビをスタートさせた原田は、増沢を前にこう持論を展開する。
「戦争でこの国にはどでかい穴が開いた。それをこれからこのテレビジョンが埋めるのだ。かつて信じられていた仁義、礼節、忠誠は戦争によって灰になった。大衆はそれで不安になっている。それは一種の癖だ。みんな血眼になるものを探しているが、その癖そのものを直せばいい。せんないことに思いわずらうことをやめ、ただテレビジョンを見る。プロレスに興奮し、音楽とともに踊り、落語に笑い、頭をただからっぽにするのだ。そこにテレビジョンという風が流れていく。悩みを忘れ、笑いと興奮に満たされる。ゴミが詰まるよりは、からっぽのほうがずっとマシなんだよ」
メディアによる大衆洗脳論を得意げに披露する原田に、増沢は噛みつく。「それが自分の使命だなんて正気ですか? 飢えた子どもに酒を与えるようなものですよ。それは人間にとってもこの国にとっても最も大事なものを奪い取るのと同じだ」と。
この辺りでようやくこのドラマがハードボイルドという入れ物を使って何を言おうとしているのかが見えてくる。戦争という国家による「右向け右」の時代が終結したと思ったら、今度はテレビジョンというあたらしいメディアを携えた巨大な権力が台頭して大衆を洗脳し始める。長く大きなものに巻かれ、「豊かさ」「明るい未来」という名の夢に希望を託し、頭をからっぽにして突き進もうとする国民たち。過去の教訓は活かされず、宗教的な熱狂は何度でも繰り返される。
最終話、街角に貼られた原田平蔵の選挙ポスターには「原子力」の文字が躍り、東京オリンピック開催決定に大衆が浮かれる。映像はそのまま一気に50年もの時を超え、カメラは2020年の東京オリンピック開催告知を映し出す。問題は解決されず、大衆は何も変わらない。戦後と今はそのまま地続きなのだ。
時代の波に翻弄され、押しつぶされる者もいれば、その波をかいくぐり、したたかにサヴァイヴする者もいる。翻弄され、押しつぶされる者の象徴が上井戸亜以子だろうか。ちなみに彼女が握りしめていた蘭の花言葉は「変わらぬ愛」だ。つまり、この物語は「誰かが誰かに対する思いを貫き通す」という意味で純愛の物語だともいえる。
増沢磐二という男は、そのいずれにも属さず、あくまでも「個」として得体の知れぬ薄気味悪い巨大な何かに抗おうとしている。その結果、時代からスポイルされたとしても、損得ではなく、個としての生き方を貫く。つまり、ハードボイルドとはそうした生き方のことであり、言ってみれば「やせ我慢の美学」なのだ。
というメッセージは、全5話を通して見るとヒシヒシと感じることはできるし、
これをテレビで言うのは勇気のいることだろう。日テレだったらこの脚本は通らなかったかもしれない。だが、どうしてもメッセージだけが浮いているというか、すんなり物語のなかに溶け込んでいないようにも思えるのだ。チャンドラー風の比喩を使えば、まるで鍋のなかでカレーのルーが溶けずに欠片が残っているかのようだ。←違う気がする。
ハゲタカ』『外事警察』を演出した堀切園健太郎による凝りまくった映像は見応え十分だし、ただそのフェティッシュな画面に浸っていればいいのかもしれないが、見ていて増沢磐二という男の人物像にあまりかっこよさが見出せなかったのは、包容力やユーモアが希薄だったせいだろうか。どんな客にも(招かれざる客にも)必ずコーヒー豆を挽いて出す増沢の流儀は、とても良かったが。
そして、『あまちゃん』の音楽で大人気となった大友良英も、プッチーニのオペラから映画『タクシードライバー』まで、さまざまなオマージュを散りばめた劇伴で今回もいい仕事をしていた。それにしても、戦後の闇市を舞台にした黒澤明の映画『酔いどれ天使』の挿入歌『ジャングル・ブギー』(作詞・黒澤明、作曲・服部良一、歌・笠置シヅ子)を使うのは誰のアイデアだったのだろう。
BACK NUMBER
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2014 April-June vol.01
4月スタートのドラマについて、4月半ばには第1弾を書くはずが出遅れてしまったのは、何を採り上げるべきか今ひとつ決めかねていたからだ。『モテキ』『まほろ駅前番外地』の大根仁が脚本・演出を務めるテレ東深夜の『リバースエッジ 大川端探偵社』、前シリーズも面白く見ていた小泉今日子・中井貴一共演のドラマの続編『続・最後から二番目の恋』の2本はすぐに決まったのだが、あと1本が難しい。とりあえず、ほぼすべてのドラマの初回をチェックしたが、ドラマとしては面白く見たものの、ここでわざわざ掘り下げるべき何かが足りない気もしつつ、2話、3話と回を重ねていくうちにこんな時期になってしまった。
視聴率的には、朝ドラ『花子とアン』も絶好調だし、『半沢直樹』の池井戸潤原作、杏主演の『花咲舞が黙ってない』(日本テレビ・水曜22時)も好成績、『半沢』と前期朝ドラ『ごちそうそん』の余波はいまだに続いているようだ。あるいは、「脱のだめ化」に苦戦している感のあった上野樹里主演の『アリスの棘』(TBS・金曜22時)も、私怨をはらすために組織内部に入り込み復讐を目論む主人公という、これまた『半沢』路線と言うべき設定で高視聴率をマーク。
が、当初から宣言している通り、ここで採り上げるドラマは視聴率の高さや話題性というよりは、語るべき意味のある(と思われる)ドラマについて語ることを旨としている。「俳優の〇〇さんかっこいいー」「続きが気になるー」といった見方こそが純粋なドラマの楽しみ方なのかもしれないが、時には深読みをしたり、裏の意図を読み解いたり、ディティールを楽しむこともまたドラマ視聴の醍醐味でもあるのだから。
といったことをひっくるめて、今期は次のようなラインナップになった。結果的に、数字も評価もそれなりに高いドラマになったのは偶然ではなく、今のテレビドラマの充実ぶりを示す証拠だろう。
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公式HPより
『リバースエッジ 大川端探偵社』金曜0時12分~ 1~3話
むかし食べたワンタンの味が忘れられず、どうしてももう一度食べたいと願うヤクザの組長。昭和50年代ごろ、浅草界隈にあったという「鏡越しに隣の部屋のセックスが覗けるラブホテル」を探している変態夫婦。自分を指名するものの一切プレイはせず、ある日いきなりプロポーズをしてきたエリートサラリーマンの身辺調査をしてほしいと言うデリヘル嬢......。
東京・浅草、隅田川沿いに事務所を構える「大川端探偵社」には、普通の探偵社や興信所にはまず来ないであろう、一癖も二癖もある依頼者が日々おとずれ、奇妙な依頼ごとを持ちかける。
脚本・演出は深夜ドラマ界で異彩を放ちつつ、2011年の『モテキ』以降は映画にも進出している大根仁。(※大根監督にこちらでインタビューをしているので、ドラマのお供に、ぜひ)。
裏社会に精通しているらしい所長(石橋蓮司)は持ち前の情報網を駆使し、調査員の村木(オダギリジョー)はひたすら街を歩き聞き込みをする。受付嬢のメグミ(小泉麻耶)はセクシーな衣装でウロウロし......いや、依頼者にお茶も出すし、時には調査のサポートもする。
事務所のメンバーはこの3人のみ。「お互いのことは干渉しないことにしている」と所長が言うとおり、彼らにどのような背景があるのかは、ほぼ描かれない。かつて所長が裏社会に人脈を持つきっかけになった仕事に就いていたらしいことや、メグミが探偵社の仕事の他に夜は風俗嬢をしていることが分かるくらいだ。その代わり、依頼者の側の奇妙で、おかしくて、そして哀しい人生が色濃く起ち上がってくる。主役はむしろ依頼者側と言っても良い。
しかし、一通り調査が終了し、EGO-WRAPPIN'が奏でるメロウなエンディング曲が流れる頃には、依頼人の人生が、所長や村木、メグミという3人を通して切り取られ、一瞬だけあぶり出されていることに気づく。この3人なくして、この話は成立しなかったのだ、と。『探偵ナイトスクープ』でいえば、依頼の内容も重要だが、誰が調査するのかもまた重要なのだ。
第1話の「最後の晩餐」は、原作コミックではFile.06にあたるが、この話を初っ端にもってきたところに、大根監督の「このドラマはこういう話です」という意図を明確に感じる。
浅草に進出した関西の大規模なヤクザ組織に、もはや組長と組員2人きりになった地元の弱小組が殴り込みに行く。その最後の晩餐にどうしても忘れられない味のワンタンを食べたいと組長は願う。
ところが、そのワンタンは、高級食材を駆使したものでもなければ一流シェフの手によるものでもなく......おっと、ここから先はオチになるので避けるが、そのワンタンこそが『リバースエッジ』というドラマの象徴であり、深夜ドラマのありようだといえる。絢爛たる高級感で勝負するわけではないのに、人々の記憶に残るフックのある味わい。
さらに、巨大組織にたった2人で殴り込みをかける組長と組員の姿は、プライムタイムに対する深夜ドラマの立ち位置そのものではないか、などと深読みすらしたくなるのだ。
プライムタイムの枠組みから解き放たれたオダギリジョーは、大根監督が用意した世界を実に気持ち良さそうにたゆたっているように見える。所長を演じる石橋蓮司の含蓄ある物言いにもシビれるし、小泉麻耶ののびやかな肢体はドラマに躍動を与えている。各話のゲストも絶妙な配役がなされ、申し分ない。
深夜ドラマのひとつの到達点を示す快作だ。
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公式HPより
『続・最後から二番目の恋』木曜22時~ 1~3話
2012年1月期に連続ドラマが放送され、同年11月には単発のスペシャルドラマとして復活、この度めでたく続編の放送がスタート。この流れからしても、本作がいかに数字的にも内容的にも好調なのかがわかるだろう。連ドラの初回から欠かさず見ていた筆者も、続編決定の報を知り小躍りした。
設定としては「アラフィフの恋愛ドラマ」ではあるものの、多種多様な登場人物のすったもんだが繰り広げられるため、幅広い世代が楽しめるつくりになっている。脚本は、『ビーチボーイズ』や『ちゅらさん』、最近では『泣くな、はらちゃん』も記憶に新しい岡田惠和、演出は『風のガーデン』などの倉本總ドラマの演出や『それでも、生きてゆく』『最高の離婚』などで知られる宮本里江子(ご存じのひとも多いだろうが脚本家・山田太一の娘である)。おそらく、このドラマの発想の原型はビリー・クリスタルとメグ・ライアンが出演した映画『恋人たちの予感』(1989年、ロブ・ライナー監督)だと思うが、エピソードを重ねることで、もはや別の次元に辿り着いていると言えるだろう。
テレビドラマのプロデューサー千明(小泉今日子)は、仕事仕事で生きてきて、気づいたらアラフィフのおひとりさまになっていた。「老後」なんぞも頭をよぎり、憧れの鎌倉の古民家でひとり暮らしを始めることにする。隣家の長倉家には、鎌倉市観光課に勤務する堅物の長男の和平(中井貴一)、寂しそうな女性を見るとつい相手をしてしまうことから「天使」と呼ばれる次男の真平(坂口憲二)、コミュ障気味の真平の双子の姉・万里子(内田有紀)など、個性的な面々が暮らしている。アラフィフ同士の千明と和平は顔を合せれば口論ばかりだが、どこかシンパシィを感じ合う同志のようでもある。
というのが物語の入口なのだが、とにかく千明と和平の減らず口合戦が最高におかしい。中井貴一と小泉今日子だから成立するであろう小気味いい掛け合いのテンポ、アドリブではないかと思われるフレーズの応酬など、たかが「おとなのけんか」がエンターテインメントに昇華されていることに毎度感心させられる。
続編の第1話でも、初っ端からおよそ15分にわたって千明と和平の口論が描かれていた。
結婚が決まった真平の引き出物を決めるために本人の代理で千明と和平が式場を訪れる。名前入りの鎌倉彫はもらっても邪魔になるし実用的じゃないと文句を言う千明に、「思い出であり、縁を再び結びつけるもの」と主張する和平。裏に名前が掘ってあるからこそ、もらったひとは何年もしてからその結婚式のことをなつかしく思い出すのだ、と。あるいは、仕事に疲れたサラリーマンが引き出物を下げた集団とすれ違う。そうか、今日は日がよかったのか。大安かな。俺はこんなに疲れてるけど、今日幸せな日を迎えた人がいたんだ......。「そういうささやかなことが日本人のもっている情緒なんじゃないですかね」と鼻息を荒くする和平に、「向田邦子か!?」「昭和を懐かしむ、ちょっといい話のエッセイかっつってんですよ」とツッコむ千明。
このやりとりがおかしいのは、小泉今日子自身は向田邦子ファンを公言しており、かつて向田ドラマの演出で知られる久世光彦作品にも出演したことがあるからだ。こんなセリフをキョンキョンに言わせるとは、なんという皮肉!
続編では、千明は管理職となり、現場から離脱。和平は鎌倉市が世界遺産登録を逃した懲罰人事(?)で観光課と市長秘書を兼任させられるハメに。前シリーズでは45歳だった千明は48歳に、50歳だった和平は52歳となり、もはやふたり合せて100歳になってしまったわけだが、登場人物が時間の経過とともにきちんと歳を重ねていくところがこのドラマの良さでもある。もちろん、視聴者も彼らと同じように歳をとっているわけだが。
第1話では、千明のこんなモノローグもある。
「人が大人になるということは、それだけ多くの選択をしてきたということだ。何かを選ぶということは、その分、違う何かを失うということだ。大人になって何かを掴んだよろこびは、ここまでやったという思いと、ここまでしかやらなかったという思いを同時に知ることでもある。だからこそ、人は自分の選んだ小さな世界を守り続けるしかない。選択が間違っていると認めてしまったら、何も残らないから」
大人になることで、何を得て、何を失ったのか。アラフィフでなくとも、思わず自分の胸に問い掛けてしまう言葉ではなかろうか。このドラマでは、時おりこちらの人生を問うようなシリアスなモノローグが聞こえてきてハッとさせられる。
第2話で、かつて千明をポストイットに書いたメモ一枚でフッた男・涼太(加瀬亮)が千明の前に舞い戻ってくる。千明が務めるテレビ局の脚本コンテストで大賞をとったものの、その後はくすぶっている「書けない脚本家」だ。千明をサポートしたい一心で脚本家になる決意をした万里子ともども、彼らにまつわるエピソードは明確なドラマ論、ドラマ脚本論になっていて興味深い。ドラマが「ドラマづくり」を描くなると、ともすれば内輪受けというか楽屋落ち的になりがちなところ、そこは岡田惠和、物語の中に実に巧みに持論を落とし込んでいる。
第3話では、千明の隣の班が進めていた次クールの連ドラが主役の都合で飛び、その空白を千明たちが埋めることになる。放送日が迫っているため、企画、役者ゼロの段階で急遽つくらねばならず、急場の仕事ゆえ、管理職の千明がプロデューサーに復帰。何やら最近実際にあった件を連想させるエピソードでもあるが、事故処理みたい形でつくらなければならないドラマも実際にあるんだろうな。
千明が脚本に抜擢したのは、涼太と万里子だった。ふたりを前にして千明は言う。
「万里子は構成力があってストーリーを緻密に組み立てるのが得意。いろんな意見を臨機応変に採り入れてつくり上げる力がある。ただ、最初から現場に必要なホンを提供してきたから自分から発信したことがない。高山涼太は、ゼロから自分の書きたいものを書いて認められたひと。でも、それだけ。最初は書きたいものがいっぱいあったけど、これは嫌だ、こういうのは好きじゃない、ありがちだ、くだらない、大衆に迎合し過ぎだと言って、やりたくないものが増えて、何が書きたいのか分からなくなってしまった。ドラマは、万里子的なものと高山涼太的なものの両方がないとつまらない」
千明が、自分から逃げて行った涼太をふたたび受け入れ、仕事に抜擢したのは、過去の痛い記憶を新しい思い出で塗り替えようという意志の表れでもあった。ツラい、痛い過去の記憶を上書きすることで、それを克服しようとしているのだ。
ところで、高山涼太がコンテストで大賞をとった脚本のタイトルが『絶望の国の恋人たち』で、その後自分で何が書きたいのか分からなくなったという設定は某脚本家を連想させもするのだが、考え過ぎだろうか。
しかし、本筋とは関係がない部分でのくすぐりもまた、このドラマの魅力だ。たとえば、第3話では、和平がなかなか昼飯にありつけない様子が繰り返し描かれていたのだが、あれはサラリーマンの昼飯を取材する番組『サラメシ』(NHK)のナレーターを中井貴一が務めている前提があってのことだろう。こうした遊びを入れる余裕があるのも、ドラマづくりがうまくいっている証かもしれない。
クレイジーケン バンドの横山剣が作詞・作曲し、小泉今日子と中井貴一がデュエットする『T字路』をバックに出演者がミュージカル風に踊るエンドタイトルも実に楽しい。
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公式HPより
『BORDER ボーダー』 木曜21時~ 1~4話
今期もあいかわらず刑事物、事件物のドラマは多く、若干食傷気味な視聴者も多いかもしれないが、丁寧に見ていけば、そうしたカテゴリーの中でもちょっと変わったことをやっていたり、「お!?」と思わず前のめりになるドラマもあるからあなどれない。今期でいえば本作がまさにそう。テレ朝の木曜21時という鉄板の『相棒』枠で「あたらしいこと」をやろうとしている感がビシビシと伝わってくる。
原案・脚本は作家の金城一紀。直木賞受賞作『GO』は2000年に窪塚洋介主演で映画化され、当時の映画賞を総なめにし、ここ最近ではヒットシリーズになった『SP 警視庁警備部警護課第四係』の原案・脚本を手掛けたことでもおなじみだ。
メイン演出は、ドラマ『相棒』シリーズや映画『探偵はBARにいる』などの橋本一が手掛けている。第1話から、予定調和的ではない練られたセリフとモノローグ、映像の緊張感でグイグイと物語を引っ張っていく。
ある事件で犯人に銃で撃たれたものの、奇跡的に命をとりとめた刑事・石川安吾(小栗旬)は、これをきっかけに死者との対話ができるという不思議な能力が備わってしまう。果たして本当に石川には死者の声が聞こえているのか、はたまた頭に撃ち込まれたままの弾丸が脳の何かを刺激して幻覚を見せているだけなのか、真相はわからない。
1話では、殺された一家と対話することで速やかな犯人逮捕に成功した石川だったが、2話では石川らに踏み込まれた監禁殺人事件の犯人が目の前で自殺、石川の前にだけ死んだ犯人が姿を見せ、まだ殺していない被害者がいると挑発してくるというトリッキーな展開となる。
死者と対話ができるということは、殺された被害者に「あなたを殺したのは誰ですか」と直接聞くことができるということに他ならない。だったら話は早いでしょ、すぐに犯人を捕まればいいんだし......と考えるのは性急過ぎる。もちろん確固たる証拠がなければ逮捕には踏み切れないし、「証拠はないけど俺には犯人がわかってるんです」と周囲に訴えたところで頭がいかれたと思われるだけだ。ここから、石川のジレンマがはじまる。
死者と対話ができるようになって以来、最短距離で犯人を逮捕したい一心の石川の捜査は、怪しげな情報屋やハッカーなど、裏社会に生きる者たちに接近するヤバいものになっていく。死の恐怖を目の当たりにし、そこから再び生還したものの、頭に弾丸を抱え、いつ死ぬかもしれない恐怖と隣り合わせの石川にとって、人の命を奪う者は何があっても許さないという純粋な正義が芽生える一方、その手法はダークサイドに足を突っ込む違法なものになっていくという矛盾が面白い。生と死のボーダーをさまよった男が、善と悪のボーダーをもさまようことになるのだ。
ともすれば、警察の活躍をヒロイックに描こうとするあまり、段取り的に次から次へと人が殺されていく刑事ドラマがはびこる中、本作が異色なのは、殺人という絶対悪を死者の無念を通して掘り下げようとしている点だろう。「人が人を殺すというのはどういうことなのか」「人は死んだらどうなるのか」という大前提を、一見トリッキーな設定の物語に落とし込むことに成功している。
「個人的にはあまり親切に何でも説明し過ぎるのはどうかと思うんです。観終わった後に異物感が残るというか、ドラマを見てベッドで眠りに落ちるまでストーリーに描かれなかった部分をずっと想像してしまうような、余韻のあるラストを残しておきたい」と金城一紀は番組公式サイト内の「BORDERの作り方」で述べている。単に「はい殺人事件です、はい警察が活躍します、犯人捕まりました、めでたしめでたし」という勧善懲悪とは一線を画す、まさにボーダーを行き来するスリリングなドラマだといえる。
2話から登場する石川が捜査の協力を仰ぐ2人組のハッカー、サイモン&ガーファンクルのキャラクターもユニークだ。演じるのは浜野謙太と野間口徹(お互いをサイ君、ガー君と呼び合う)。サイモン&ガーファンクルのアルバム『ブックエンド』でお馴染みの黒のタートルネックを着用し、事務所にはジャケットを模した2人の写真が飾られていたりする。
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金城いわく、「ハッカーっていうと、美少年か太っているか、みたいな定番があるじゃないですか。それはやめようと」(公式サイトより)ということだが、確かに銀縁メガネのいかにもオタク然としたハッカーというステレオタイプを覆すキャラクター設計だ。こういう細かいディティールが予定調和的ではないところも好感が持てる。
他にも特別検死官・比嘉ミカ(波瑠)は沖縄出身で祖母はユタ(巫女)という裏設定などもあるらしい。だから、比嘉だけが石川の死者と対話できる力に唯一気づいていて、しかもどこか羨ましくも思っているのだという。こうした物語上では直接描かれない背景がしっかりあるからこそ、各々のキャラクターに厚みが出るのだろう。
「また刑事物か」と言って見過ごすには実に惜しいドラマであることは間違いがない。
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2014 January-March vol.05
2014年1月スタートのドラマが3月で軒並み最終回を迎えた。本稿は、最終話の結末にも触れているので、各ドラマを録画したまま見ていないひとや、今後DVDなどで視聴するつもりのひとは注意されたし。ただし、結末が分かったからといって面白さが半減するわけではないと思う。筆者はこの原稿を書くにあたって録画したものを各話2、3回繰り返して見ているが、初回よりも筋を知っている2回目以降のほうが、より深く内容を理解することができた(大抵の場合、初回は展開を追うことに終始する)。ここで採り上げたドラマは、いずれもリピート視聴に十分耐え得る良作揃いである。
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公式HPより
『明日、ママがいない』8~9話  日本テレビ 水曜22:00~
このドラマでは、登場人物たちの本音や本心はなかなか表面には表れない。象徴的なのが、児童養護施設「コガモの家」の子どもたちが里親候補の家に行く、いわゆる「お試し」のくだりだろう。子どもは理想的な子どもを演じようとし、里親になるつもりの大人たちもまた、理想的な親を演じようとする。いわば、お互いが共同でフィクションをつくり上げようとするわけだが、そこに果たして一筋の真実は生まれるのかどうか、というのが本作の重要なテーマでもあった。
8話で、里親候補の川島(松重豊)と美鈴(大塚寧々)のもとへお試しに行ったドンキ(鈴木梨央)は、美鈴に向かって「ねえ、私を産んだとき、痛かった?」と聞く。もちろん、美鈴はドンキを産んではいないから痛いはずはないのだが、話を合せて、いかにも本当の親が幸せな思い出を語るようにふるまう。つまり、両者とも芝居をしているのだが、こうしたやりとりは、逆にドンキを不安にさせる。「幸せすぎて、いつかそれがまた壊れるんじゃないか」と。
コガモの家では、ピアノの腕前が天才的なピア美(桜田ひより)が、ピアノコンクールの全国大会への出場を控えていた。「ピアノの腕前とこの美貌で美人ピアニストとしてデビューして...」と夢想するピア美だが、本音はそんなことより、自分を見捨てた父親とたとえ貧乏でもいいから一緒に暮らしたいと願っている。その思いがコンクール当日、ステージの上で爆発、こっそり会場に来ていた父親の胸を激しく揺さぶることになる。
そうこうするうちに、里親が決まりかけたドンキのもとに実の母親がふらりとやってきて連れて帰ると言い出す。話を聞きつけ、里親候補の川島夫妻も慌てて施設を訪れ、実の親とドンキの手を引っ張り合う格好になるが、痛がるドンキの声を聞いて里親候補の美鈴は思わず手を離す。ようするに、『大岡越前』で有名な「大岡裁き」の「子争い」(『本当の親なら痛がる子の手を離すものだ』)が展開するわけだが、そこで魔王こと施設長(三上博史)はこう言い放つ。
「産んだのが親ではありません。いっぱいの愛情で育て上げるのが親なんです。事実の親と、真実の親は違うんです。」 そして、突然地べたに頭をこすりつけ、「私はコウノトリです。」と言いながら、「時々間違えて赤ちゃんを別の人の所へ届けてしまうんです。そこであなたにもう一度、本当のママを選び直していただきたいんです。」と、ドンキに向かってほんとうの親はどちらなのか、選択をうながす。
実の母親の手を振り切り、里親のもとへ駆け寄るドンキに母親は激昂し、「なんて子なの!誰が産んであけだと思ってるのよ。恩知らずにもほどかあるわ!」となじるが、里親はその罵声がドンキに聞こえないようにそっと耳をふさぐ。その様子を見て、「勝手にすればいいわ。どうせ私の足手まといになるだけなんだから」と捨て台詞を吐いて母親は去っていく。
昨年ヒットした『そして父になる』という映画もあったが、ひとは最初から親として存在するわけではなく、時間をかけて、愛情を注いでようやく「親になっていく」のだ。血がつながっていない里親も、そこに愛情があれば「親になる」ことはできる。
本来「虚」であるはずの里親の愛情が実の親に勝利し、「虚構が現実を上書きし、嘘が真になる瞬間」を捉えた本作のピークとも言える圧巻のシーンだった。
こうして、ピア美は本来の名前である直美へ、ドンキは真希へ、ボンビは優衣子へと戻っていく。
残されたポスト(芦田愛菜)は、学校の先生・朝倉の家に通い、ポストのことを事故で亡くした娘・愛だと思い込む朝倉の妻・瞳(安達祐実)の前で娘になりきろうとしていた。現在の天才子役が元・天才子役の前で巧みな芝居を打つという何重にもアイロニカルなシーンだが、果たしてここでも虚構が現実を上書きし、嘘が真になるのか、と思いきや、かりそめの母子の関係は魔王の声で一蹴されてしまう。
結局、生まれてすぐに赤ちゃんポストに預けられたポストを事実上親代わりでずっと育ててきた魔王がほんとうの父親になる決意をするのだが、魔王がポストに言う「一度しか言わないからよく聞け。さびしい。おまえがいなくなると、俺がさびしいんんだ。」の台詞は完全に愛の告白めいていた。
この台詞を口にするのはオレンジ色に染まる夕日の中なのだが、これにはちゃんと理由がある。魔王が、別れた妻・香織(鈴木砂羽)と初めて会ったとき、結婚式帰りの香織は夕日のようなオレンジ色のドレスを着ていて、そのとき魔王は「夕日に染める」と「見初める」を掛けて口説いたらしい。8話で語られたこの何気ないエピソードがまさか最終話のクライマックスで効いてくるとは思わなかった。つまり、魔王はふたたび「夕日に染める」と「(自分の娘として)見初める」を掛けてポストに告白したのだ。
色彩に着目すると、他にも、瞳の娘・愛が事故に遭って亡くなった踏切のランプの赤、線路に転がる靴の赤、ポストが愛用していた髪留めの赤との対比など、実は効果的な設計がなされていたことが分かる。
そして、ラストにポストの本当の名前がはじめて視聴者に知らされるところで物語は終わる。本作は、親に捨てられた子どもたちが、親から付けられた名前を自らの意志で捨てることによって強く生きていこうとする態度を表明し、もう一度、自分たちの意志によって本当の名前を取り戻すまでの物語だ。
当初、各方面から問題視されたポストやドンキといったあだ名が物語上きわめて重要な意味をもっていたため、制作側もここだけは何があっても変更したくなかったのだろう。
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『失恋ショコラティエ』9~11話 フジテレビ 月曜21:00~
旦那と揉めた人妻・紗絵子(石原さとみ)が仕事場の2階に転がり込んでくるという怒涛の展開によって、ショコラティエ・爽太(松本潤)の片思いは突如として両想いに。ベッドをともにしながら、相変わらず「バックバック食べられて気分が良くなるチョコレート、つくってくださいな。」と甘ったるい声でに爽太におねだりする紗絵子は自身の欲望に忠実な魔物だ。もはや爽太も紗絵子に対して無駄な駆け引きをしたり、わざと冷たいそぶりをする必要もない。あれだけ手に入れたかったものが、やっと手に入ったのだ。
しかし、紗絵子がよろこぶショコラをイメージし、それに追い付こうと躍起になってきた爽太にとって、遠くにあったはずのあこがれの存在に手が届いてしまったことによって、不思議なことにショコラづくりのインスピレーションが湧かなくなってしまうという皮肉な事態が起こる。手に入ったと思ったが、結局何もわからない。どこまでいっても、紗絵子という女を知り尽くすことなどできないのだ。
「正も誤もない。これが恋だ。」と突き進もうとする爽太だが、依然としてショコラのインスピレーションは湧かず、紗絵子との未来も思い描けなくなった矢先、紗絵子に夫との間に子どもができたことを知らされる。ふたりにとって、帰るべき場所へ帰るリミットが迫っていたのだ。
「爽太君が好きだったのは本当の私じゃなくて、ただの幻想だったんだよね。だから、私たち帰らなきゃ。いつまでも幻想の中では生きられないよ。」
紗絵子にそう言われた爽太は、ようやく気づく。「あのとき、俺は紗絵子さんを手に入れたんじゃない。失ったんだ。ショコラがつくれなくなったのは、あのときからだったんだ。」 つまり、いま手のなかにいる紗絵子ではなく、幻想のなかの紗絵子こそが、爽太のインスピレーションの源だったのだ。爽太は、未知のショコラをつくるために、幻想を愛しつづけていたのである。
爽太と紗絵子が現実の時間へと戻ろうとするなか、爽太に片思いする同僚・薫子(水川あさみ)と紗絵子の間に奇妙な友情が芽生えはじめる辺りも面白い。
「結局、ずうずうしい女が勝つんだって。」と悪態をつきながら紗絵子をDisっていた薫子だったが、男からのメールの返信について紗絵子に相談した際、的確なアドバイスに思わずうなってしまう。
「お菓子だって、味がいいだけで十分なのに、それでも売るためには形や色をかわいくしたり、愛される努力が必要なんだなって思うし、意識的にでも無意識的にでも、人の気を惹く努力をしている人が好かれてるんだと思うんですよね。」と実体験に基づく恋愛論を展開する紗絵子に、「しごくまっとうだわ」と内心うなずく薫子。「少なくともこの女は、私よりは確実に前や上を向いている人だわ。」と。
石原さとみの説得力のあるビジュアルと相まって、紗絵子が単なるヒールではなく、同性から「好きじゃないけど分かる」あるいは「私もこんな風に振る舞えたら」と思わせるキャラクターとして描かれている点は、本作の大きな特徴だろう。ツッコミ要員として視聴者目線に最も近い立ち位置の薫子、モデルという華やかな仕事をしているにも関わらず好きな男の本命になれない哀しい女・えれな(水原希子)など、女性は誰かしらに自分を投影しながら見ることができたのではないだろうか。
今度こそ紗絵子にちゃんと失恋した爽太は、幻想と決別し、新しい自分を見つけるために旅立つ。勢いで爽太に思いを伝えてしまった薫子は、「初めてちょっとだけ自分を好きになれた気がする」と清々しい顔をしている。爽太との関係にケリをつけたえれなは、まっすぐ前を見てランウェイを颯爽と闊歩する。それぞれにとって、現実と向き合うための第二幕が開いたのである。
恋愛とクリエイションの親密な関係に迫った良作だった。
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『なぞの転校生』9~12話 テレビ東京 金曜24:12~
私たちのいるこの世界だけが、世界のすべてではない。これは、フィクション、とりわけSF(サイエンスフィクション)と呼ばれるジャンルにおける最も重要なテーゼだ。
それを現実逃避と言うのは簡単だが、のっぴきならない現実を生きるひとびとにとって、逃避も時には必要なのである。かつて中学生の殺伐としたいじめを題材にした映画『リリイ・シュシュのすべて』を撮った岩井俊二がこのドラマで描こうとしたのは、「君のいるその小さな世界だけが世界のすべてではない。世界はもっと複雑で、多様で、無限に広がり、つながっている」というメッセージだろう。
そこに「高度に進んだ文明の滅亡」「放射能による被ばく」「行き場をなくし次元をさまよう民」という原作小説&オリジナルドラマのモチーフを引用し、3.11以降の物語として読み替えようとした点が、宮城県出身でNHK東日本大震災復興プロジェクトソング『花は咲く』の作詞も手掛けた岩井ならではといえる。
最終話、SF研の面々がつくる自主映画『なぞの転校生』の撮影で、D‐8世界からやってきた姫のアスカ(杉咲花)は、広一(中村蒼)に向かってシナリオにはないこんな台詞をしゃべる。
「文明とは、人類とは、思っているよりも、もろいものなのだ。この世界の人類も、いつかはこの星から消えることもあろう。だからこそ、大切にしてほしい。この星を、仲間を、友だちを。」
ふつうのドラマや映画では青臭く思えることばがじんわりと胸に響くのは、劇中劇の台詞というかたちを借りて登場人物が「ほんとうの気持ち」を語っているからだろう。
それは、そのシーンの前に置かれた転校生・典夫(本郷奏多)とみどり(桜井美南)のやりとりにも表れる。典夫は、「日曜日に君から花をもらったときから、君のことが忘れられなかったよ。」と告白するも、「ああ、だめだ。結局、ぼくは君のことばを聞いて、こういう風に答えるようにしかできていないのです。」と嘆く。
「モノリオ」と呼ばれる感情をもたないヒューマノイドである典夫が、相手ののことばに反応するかたちでしかコミュニケーションできないことを告げると、みどりは「私だって、あなたにそんな風に言われたら、こんな気持ちになるようにしかできてません。」と、なぞの転校生への淡い恋心を吐露するシーンは、ぎこちなさの残る桜井美南(本ドラマがデビュー作となる)の佇まいと相まって、大林宣彦版『時をかける少女』を彷彿とさせるリリシズムに満ちていた。
「異なる世界で営まれる、もうひとつの可能性」について象徴的に描写されるのが「アイデンティカ」だ。それは、別の次元にある一定の確率で存在するとされる「自分の分身」。D‐8世界からやってきた王家に仕えるアゼガミ(中野裕太)とスズシロ(佐藤乃莉)のアイデンティカがD‐12世界では仲のいい夫婦だったことを彼らが知るシーンはグッとくる。ありえたかもしれない、もうひとつの可能性。
広一たちのいるD‐12世界には「ショパンがいない」ことから、我々の住むこの世界ではないことが早い段階で示されていたわけだが、かといって王妃やアスカの住んでいた滅亡の道を辿ったD‐8世界もこの世界ではない、となると、一体このドラマを見ている我々の世界はどこにあるのか、と思いながら迎えた最終話で、ようやくそのなぞに対する答えが用意される。
「我々の知るこの世界」はD‐15世界と呼ばれ、広一とみどりのアイデンティカはかつてそこで異次元人の典夫と出会っている。やがて広一のアイデンティカは異次元調査団の隊長となる。おそらく、D‐15世界で広一とみどりのアイデンティカが典夫と出会ったのは1975年。つまり、眉村卓の小説『なぞの転校生』がNHK少年ドラマシリーズで映像化された年に違いない。
訳が分からないって? まあ、早い話が、自分たちの分身であるアイデンティカが住む異次元の世界の側から物語を描いておいて、そこを最後にぐるっと反転させるという「めくるめく感」をやりたかったのだと想像する。これもまた、「いまいる世界が世界のすべてではない」というメッセージの表れだろう。
そして、D‐15世界では、広一とみどりのアイデンティカは夫婦となり、みどりと瓜二つの娘を授かっていることもわかる。D‐12世界のみどりとD‐15世界の広一とみどりの娘・みゆきが握手をした瞬間、世界が一直線につながる。
それは、39年の時を超え、伝説のドラマのリメイクがこれ以上ない形で見事に達成されたことを示す瞬間でもあった。
それにしても、11話の王妃が崩御するシーンで、それまで何度も流してきたラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』を流さないどころか、テーマ曲以外、いっさい劇伴を流さない演出にも震えた。そして、岩井俊二、桑原まこ、椎名琴音(SF研のメガネのコ。要注目!)からなるユニット・ヘクとパスカルの『風が吹いてる』も、心の琴線をぶるぶる振るわせた。
というわけで、2014年の1月から3月末までのドラマを3カ月にわたって追ってきたわけだが、世間的には『あまちゃん』『半沢直樹』が当たった2013年と比較して「ドラマ不調」などといわれたものの、当然ながら、きちんと見ていけば見応えのあるものも少なくなかった。視聴率的にはNHKの朝ドラ『ごちそうさん』やテレ朝『相棒』枠の『緊急取調室』などが良かったのだが、このコーナーでは数字が高い=いいドラマとは考えない。もちろん、数字のいいドラマが悪いというわけでもない(実際、『ごちそうさん』は全話面白く見ていた)。ようするに、数字の心配など局のひとたちや広告代理店に任せておけばいいのだ。4月スタートのドラマもなかなか粒ぞろいのようなので、レコーダーのHDをパンパンにして見まくる所存であります。このコーナーも、引き続きごひいきに。
では、いいドラマを。
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2014 January-March vol.04
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『失恋ショコラティエ』6~8話 フジテレビ 月曜21:00~
人妻になった紗絵子(石原さとみ)にずるずると思いを寄せる爽太(松本潤)の妄想恋愛は、セフレ・えれな(水原希子)の行動によって別の文脈へと移行する。えれなは、片思いの相手・倉科に告白し、あっけなくフラれたことで相手への思いを断ち切ろうとする。片思い中は「実在しないファンタジーの世界のひと」のように思えた倉科が、告白してはっきりフラれたことではじめて現実に存在するひとに思えたと、えれなは言う。
その姿を見た爽太も、ずっと自分のなかの「妖精さん」だった紗絵子に「ちゃんと告白して、ちゃんとフラれるんだ」と誓う。バレンタインデーにこれまでの紗絵子への思いのすべてを注ぎ込んだチョコをつくり、真正面から告白して玉砕し、吹っ切ろうと決意した爽太の表情はいっそ清々しい。爽太にとって紗絵子はインスピレーションの源であり、クリエイションの源泉なのだ。バレンタイン用のチョコをつくりながら爽太はこうつぶやく。
「まるでパックリ開いた傷口からひらめきが溢れ出すみたいだ。滲みないわけじゃない。でも、それよりうれしい。何かを生み出せる力が沸くことがうれしい。」
妖精さんに告白してちゃんとフラれることで、紗絵子という現実に存在するひととして捉えて脳内から追いやり、次へ行こうとする爽太のもくろみは、しかし幸か不幸か叶わない。なぜなら、冷酷で、ときに暴力的になる夫との関係に嫌気がさした紗絵子は、爽太のつくったチョコをうっとりと口にしながら爽太への思いを募らせていたのだから。
ファンタジーと決別しようと思ったら、そのファンタジーがあっさりと現実のものになってしまう戸惑い。もちろん、そのままで済むはずもなく...。
と、筋を追いながら書いていると、「恋愛ってたいへんだな」とつくづく思う。恋愛とは、食べ物や飲み物のようになくても困るものではないが、あることで人生に彩りや華やぎがもたらされるという意味では、まさにこのドラマで扱われるスイーツのような嗜好品に近い。そして、一度その甘美なる世界に触れた者は、中毒になる可能性がある。
紗絵子のような女性は、同性からすれば「ブリッコ」「つくってる」などと言われ忌み嫌われる存在の典型のはずなのだが、本ドラマにおける石原さとみの圧倒的な女子度の高さも手伝ってか、同性の視聴者からも支持されている点は興味深い。爽太に片思いしている地味系女子(酒癖悪し)の薫子(水川あさみ)には自分に近い親近感を抱きつつも、注視すべきなのは紗絵子だ、ということか。
女性が女性アイドルのディープなファンになることもごく当たり前の時代、男心を自在に転がす紗絵子を否定するのではなく、むしろその技に学ぼうという姿勢の表れなのかもしれない。それは昨今の若い女性の貧困問題などとも実は密接な関係があり...などと言い出すと話がややこしくなりそうなのでやめておく。
それにしても、嵐ファンの小学生も見ている時間帯でこれだけ「セフレ」というワードが頻出するのもすごい。「ママ、セフレって何?」「間男って?」と聞かれたら親はどうリアクションするんだろうとも思うが、心配しなくてもイマドキの小学生はとっくに知ってるか。
爽太のやっていることは要するに不倫なのだが、松潤で、月9で、こういうドラマをやってしまうと、もうぬるい恋愛ドラマはつくれなくなるだろう。という意味では、間違いなく『モテキ』以降の恋愛ドラマのひとつの到達点といえる。
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公式HPより
『なぞの転校生』6~8話 テレビ東京 金曜24:12~
4話以降、不良グループの鎌仲(葉山奨之)らが登場し、突如として不良マンガテイストを帯びたが、なぞの転校生・山沢にアステロイドなる特殊なバイオアプリであっけなくコントロールされて骨抜きになり、そうこうするうちに山沢の住むD-8世界から容体の悪化した王妃一行が時空を超えてやって来て...と、見ていないひとには何のことやらさっぱり分からないであろう怒涛の展開が繰り広げられている。テレビドラマの枠でできるSFの限界に挑戦したともいえる、実に見応えのある野心作だ。
我々の良く知るこの世界のすぐ横に「平行世界」なるものがあり、良く似てはいるが少しだけ違う世界が無数に存在しているというパラレルワールド物の映像化は案外ハードルが高く、下手をするとチープなものになりがちなのだが、本作はカメラワークやライティング、節度あるCGの使い方によって独特の世界観の表出に成功している。ようするに、全編ゾクゾクする「SF的リアリティ」に溢れているのだ。そして、「日常とは何か」について考えさせられる。空が、夕日が、花が、教室が、そこにあることの意味について。
D-8世界からやってきた姫のアスカ(クックドゥのCMで豪快に中華料理を頬張っていた杉崎花)のいかにも超然とした佇まいも「別の世界から来た感」に満ちているし、アイデンティカだのキャトルミューティレーションだのといったよく分からないがソレっぽい用語が飛び交う様もワクワクする。
岩井俊二、長澤雅彦という映画界からの使者によって、従来のテレビドラマでは味わったことのない肌触りを体感させられる。まさにこのドラマ自体が、ドラマ界にやってきた「なぞの転校生」だ。
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公式HPより
『明日、ママがいない』5~7話  日本テレビ 水曜22:00~
『国家なる幻影』とは石原慎太郎の著書のタイトルだが、このドラマを見ていると「家族なる幻影」というフレーズが脳裏をよぎる。親に捨てられた子どもは、どこかにいるかもしれない理想的な親の幻影を追い求め、何らかの事情で子を失った、あるいは子に縁のなかった大人は理想的な子どもの幻影を探しつづける。
放送中止を求める声を受けて、元々の脚本のどこをどう変えたのかは分からないが、たとえば以下のようなくだりは、世間なるものに対する辛辣なアンチテーゼとして逆に付け加えられたのではないかと想像できる。
6話、児童養護施設「コガモの家」の職員・ロッカー(三浦翔平)が暴力沙汰を起こし、施設の子どもたちから拒絶されそうになったとき、施設長(三上博史)は子どもたちを前にこう説く。
「大人の中には、価値観が固定し、自分に受け入れられないものはすべて否定し、自分が正しいと声を荒げて攻撃してくる者もいる。それは胸にクッションを持たないからだ。 そんな大人になったらおしまいだぞ。話し合いすらできないモンスターになる。だが、おまえたちは子どもだ。まだ間に合うんだ。」「つまらん偽善者になるな。」
話し合いすらできないモンスター。「子どもたちがかわいそう」という一見まっとうな意見の裏にある上から目線と差別。そうした世間なるものの見えない暴力に真っ向から立ち向かう反逆性がこのドラマには当初からあったが、それがクレームを受けてより強いものになっているとすれば、むしろそれはドラマの勝ちだろう。キービジュアルでThe Whoをモチーフにしたり(vol.1参照)、芦田愛菜演じるポストがモッズコート風のアウターを着ているのはダテじゃないのだ。
7話では、ついに伝説的ドラマ『家なき子』(脚本は本ドラマ脚本監修の野島伸司)で主演を務めた安達裕実が、子どもを事故で失ったもののいまだに死を受け入れられず精神に変調を来している母親役で登場。かつての名子役と当代の名子役・芦田愛菜の共演が実現した。
野島伸司といえば、初のマンガ原作である『NOBELU-演-』(『少年サンデー』連載中。作画・吉田譲)では、「生きていくために演じる」子役の世界を過激に描いている。当初、『明日ママ』でも児童養護施設を子役の世界のメタファーとして描いているフシがあったが、回が進むごとにその要素は影を潜めていった。ようするに、メタファーなんていうものが通用しないのが世間なのかもしれない。
子どもたちがポスト(赤ちゃんポストに預けられていたから)、ドンキ(母親が恋人を鈍器で殴ったから)、ボンビ(家が貧乏だから)といったあだ名で呼び合うことが問題視されたが、複数の人物が入り乱れる群像劇で視聴者に名前と顔をすみやかに覚えさせるうえで、この手法はとても効果的だった。もしこれがマナミだのユカだのといった名前だったら誰が誰やらという感じだったかもしれない。
たとえば、『ロストデイズ』(フジテレビ 土曜23:10~)では7人の同世代の若者たちの名前と顔が一致するまで時間がかかったことを思えば、あだ名をつけたのは正解だったし、それによって各キャラクター像も明確化された。ピアノがうまいからピア美、とかね。
そういえば、何人もの養子をとっていることで有名なアンジェリーナ・ジョリーとブラッド・ピット夫妻の養子になることを夢見ていたボンビ(渡邊このみ)が「ジョリピ~」と腰をくねらせながら叫ぶのは、『時間ですよ』で樹木希林が沢田研二のポスターの前で「ジュリ~」と叫びながら腰をくねらせる有名なポーズのパロディだと思うのだが、ネタが古すぎて「あのジョリピ~のくだり意味不明」などといわれているらしい。さすがに昭和すぎたか。
では、いいドラマを。
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2014 January-March vol.03
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『なぞの転校生』3~5話 テレビ東京 金曜24:12~
ドラマでも映画でも、どこにでもある風景や何気ない人々の生活が描かれるとき、それを観る者は、「ああ、自分たちの良く知っている日常が描かれている」と思う。いわゆる「淡々とした日常の描写」だと捉えるわけだが、本作も、「ごくありふれた日常」の描写が積み重ねられ、そこにある日突然、別の次元から不思議な転校生がやってくる話として観ていたら、3話で衝撃の事実が明らかに。主人公の岩田広一(中村蒼)らのいる世界のほうが、どうやら別の次元だったらしいのだ。
原作の同名小説では、高度に進んだ文明をもつ別の次元に住む民が、核戦争による放射能汚染でその世界を追われ、「次元ジプシー」として時空をさまよい、並行世界として存在する現代の日本に「避難」してくる、という設定になっている。当然、このドラマでも広一らがいる世界を「我々の知っているこの世界」だと思い込んで観ていたのだが、3話のラスト、音楽室のピアノでショパンの『雨だれ』をつま弾く転校生・山沢典夫(本郷奏多)に向かって、音楽教師がこう言い放つ。「何て曲?」 問われた典夫は「この曲、知らないんですか?」と驚くが、「そうか、ここにはショパンの『雨だれ』がないのか」とつぶやく。
音楽教師が、あまりにも有名なショパンの『雨だれ』を知らないはずがない。我々のよく知っている日常だと思っていた世界が、実は微妙にズレた異世界だったことが明らかになるこのシーンには鳥肌が立った。モーツァルトは存在しても、ショパンはいない世界。しかも、ドラマの第1話から『雨だれ』は劇中で繰り返し流れていて、「いかにも岩井俊二な世界」などと呑気に聴いていたのだが、これがとんだミスリードだったわけだ。
5話の時点ではまだ明らかにされてはいないものの、転校生の典夫たちのいた世界のほうが、実は我々のいるこの世界の未来の姿という設定なのかもしれない。高度に進んだ文明をもち、その結果、核による最終戦争が起こり、放射能汚染されてその世界に住むことができなくなった人々こそが、我々の未来像なのではないか。
原作を反転させたこのアイデアは見事だし、3.11以降の世界の行く末に警鐘を鳴らすメッセージが込められていることはどうやら間違いがない。
単に「少年ドラマシリーズ懐かしいよなあ」でも「岩井俊二観たよなあ。『打ち上げ花火』とか」というノスタルジー目線でもなく、70年代の伝説のドラマを2014年の映像作品としてアップデートする意味がきちんとそこにある、ということが重要だろう。
今期ベストの予感十分だ。
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『失恋ショコラティエ』3~5話 フジテレビ 月曜21:00~
『ハチミツとクローバー』が打ち出した「片思いも立派な恋である」というテーゼに『モテキ』以降の恋愛のリアリティをプラスしたのが本作だといえる。
昨今の「彼氏・彼女ナシの20代が増えている」なんていうマーケティングデータを真に受けるべきではないのは、特定の彼氏・彼女がいないだけで実はセフレはしっかりいたりするという現実があるからだ。セフレがいても、付き合っているひとがいない場合はアンケートで「彼氏・彼女なし」と書くのだから。という意味では、片思い中である、あるいは彼氏・彼女はいないがセフレはいる、という数を足せば、いまの時代もかなりの人数が恋愛しているといえる。
『失恋ショコラティエ』は、そんな時代の恋愛ドラマだ。主人公の爽太(松本潤)は、人妻となった紗江子(石原さとみ)にいまでも片思いをしている。実は紗絵子も冷えた結婚生活に満たされずに爽太への思いを募らせているのだが、その気持ちを爽太は知らない。どうせまたいつものようにもてあそばれているだけなんだ。だから俺は俺でセフレとよろしくやってやるんだと悪ぶって、モデルのえれな(水原希子)の元へ通う爽太なのだが、爽太の店で働く薫子(水川あさみ)はそんな爽太に絶賛片思い中。ほぼすべての登場人物の思いはすれ違うが、何かの拍子にわずかに触れ合う瞬間がある。その瞬間のことを恋とか愛と呼んでもいいんじゃないか。というのがこのドラマの世界観だ。
女子力全開のゆるふわ系・紗絵子、爽太のセフレだが他の男に片思い中のえれな、爽太の成長を見守りながらも恋心を抑え切れない薫子。おそらく一般の女性視聴者にとってもっとも感情移入できるキャラクターが薫子だろう。演じる水川あさみの地味可愛さも相まって、「こういうひと、いるだろうな」という妙な説得力がある。
そして、このドラマがユニークなのは、恋愛物でありながら、シリアスな仕事論がときおり顔を出すところだ。その辺りは脚本家・安達奈緒子カラ―といえるが、越川美埜子が脚本を書いた4話にもこんなやりとりがあった。
ネットで評判が広まった爽太の店に対して父・誠(竹中直人)が言う。「おまえはいい時代に生まれたな。俺がやってた頃は、口コミで評判が広がるまで何年もかかったもんだ。分かるひとにだけ分かってもらえばいいなんて言ってたら、あっという間に店は潰れちまう。でも、いまは違う。大勢の人間に媚びなくても、たった一人の誰かに死ぬほど愛してもらうことができれば、ちゃんと結果につなげることができる。それはすごく幸せで、恵まれた環境だってことだ。」
これに対して爽太は、チョコレートの貴公子と称されるショコラテイエ・六道(佐藤隆太)も同じようなことを言っていたと言い、「さすがに10も歳が上だと言うことが違うなあと思った」と笑うが、そんな爽太を父は一喝する。「それは違うぞ。歳は関係ないだろ」と言い残して去っていく。
10歳上だったら負けてもしかたがない。そう思うことで安心しようしていた爽太は、「でも、それってその時点で勝負に負けてるってことなんじゃないのか」と気づく。六道が、世間に迎合することで「自分自身のビジョンが消えてしまうことのほうが怖い。どんなものをつくりたいのか分からなくなって何もできなくなることが怖い」と語っていたことを思い出し、「あのひとは凄い。完全に自分の世界を構築している。」「俺はあと10年であんな風になれるのか」と自問する。
これは、どんな仕事にも通じる葛藤ではないだろうか。時折、こんなセリフが飛び出すからあなどれないのだ。
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『紙の月』NHK 3~5話 火曜22時~
全5話を通して、勤務先の銀行の金・1億円を横領した梨花(原田知世)はモノローグで何度もこうつぶやく。
「私は何でもできる。どこへでも行ける」
平凡な主婦が大金を自由に扱える立場になったことで手に入れた「万能感」が、人生の歯車を狂わせる。そして、第1話の冒頭、横領が発覚しそうになって逃亡したタイの町をさまよい、梨花は圧倒的な万能感を憶えながらも、「私は何かを得てこんな気分になっているのか、それとも何かを失ってこんな気分になれたんだろうか。」と考える。
顧客の預貯金を横領するという犯罪によって得た大金を湯水のように使いまくる梨花の姿は、しかし決して満たされているようには見えない。若い恋人に好きなように金を使わせ、みずからも高級ブランドを買いまくり、一流レストランで贅沢な食事を満喫しても、心は空洞のままだ。
結局、大金を手にしたことによって「何でもできるし、どこへでも行ける」と思った万能感自体がまさに薄っぺらな紙幣のようなものだったと気づいた梨花は、「誰かに必要とされたい。誰かに愛されたい」と他人に期待するのではなく、自分自身をまるごと認め、愛してあげようと思う。ここではないどこかへ行こうとしたが、いまここにいる、あるがままの自分と向き合うことを決めた彼女の表情はいっそ清々しさに満ちている。そこからが、ほんとうの旅のはじまりなのだ、と。
梨花の女子高時代の同級生だった木綿子(水野真紀)と亜紀(西田尚美)も、実は同じように金に翻弄されていたのだった。専業主婦の木綿子は、スーパーの特売に血眼になり、夕飯のおかずも風呂の湯もケチる「すてきな奥さま」だが、そのギスギスした家庭に息が詰まって旦那は若い部下と浮気をして高級レストランで大盤振る舞いしていたりする。亜紀はバツイチのベテラン編集者だが、実は買い物依存症でカード破産寸前までいったことが原因で離婚、元夫と暮らす娘に見栄を張っているうちに買い物依存症が再発してしまう。
ケチケチした節約主婦と買い物依存症のバツイチ女。金を使わないのか使うのかの違いだけで、いずれにしても金やモノに振り回されていることに変わりはない。梨花の大金横領・逃亡の物語を縦軸に、同級生だった2人が梨花はなぜそんな大それたことをしでかしたのか想像する様が物語の横軸になっている。そして、最初は理解し難かった梨花の行為が、実は自分たちと同じ心持ちに根差したものであることを知るのだ。
梨花が預貯金を横領するのはオレオレ詐欺に騙されるような高齢者ばかりというのもリアル。金はあるが子や孫には渡したくないがめつい老人が、話し相手になり、切れた電球を換えてくれるようなやさしい銀行員のことは疑おうとしない。梨花に対して下心丸出しだった平林(ミッキー・カーチス)は事件発覚後も「金のことなら言ってくれりゃいくらでもやったのに」と言い、認知症が進行する名護(富士眞奈美)は「梨花さんは天使様」とうっとりした表情で答えるあたりはゾッとする。
1話の冒頭が最終話のラストとつながる構造はストーリー的な意外性はないものの(つまり1話の時点で最後が分かっている)、横領~証書偽造のプロセスや若い恋人との次第に変わっていく関係性をじっくり見せることで心理的なサスペンスをうまく成立させていた。
NHKの夜のドラマ枠は、『セカンド・バージン』以降、熟女と若い男の組み合わせが定番化しているが、そのなかでも頭ひとつ抜けた作品だったのではないか。同枠で向田邦子ドラマのリメイク『胡桃の部屋』も手掛けた脚本家・篠崎絵里子はなかなか達者な書き手だと再確認した。
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『明日、ママがいない』2~4話  日本テレビ 水曜22:00~
第1話の冒頭から「これから始まる物語は現実に即したリアルな話とは異なりますよ」という表現をあからさまにしていたにも関わらず、その意図を読み取れないひとが多数いたことによって、本来の物語の主題とは別の文脈で騒動になってしまったある意味不幸なドラマ。
もし、養護施設の子どもたちに対して施設のスタッフや学校の同級生らが「ポスト」だの「ドンキ」だのとあだ名を付けてからかう場面があればそれは確かに問題かもしれないが、ここで重要なのは、親に捨てられた子どもたちがお互いをあだ名で呼び合うのは、親からもらった名前を自らの手で捨て、忌まわしい過去をネタ化した上で乗り越え、助け合って生きていこうという意志の表れだということだ。子どもたちの決意が、そのあだ名には込められている。
芦田愛菜演じるポストの漢気(おとこぎ)と垣間見える母性。各キャラクターの描き分けも明確で、ドンキ役の鈴木奈央、ピア美役の桜田ひより、ボンビ役の渡邊このみら子役陣の芝居も見事。
今となっては、1話で問題になった施設長のセリフ「お前たちはペットショップの犬と同じだ」に代表される、いかにも往年の野島伸司と言うべき挑発的なセリフはなくても十分に成立したのではないかとも思える。ことさら過激さを前面に出すことで余計な物言いがついたのではないかと、その点は残念だ。
『ロストデイズ』(フジテレビ 土曜23:10~)は全10話中5話まで進んだもののサスペンスとしていまだ盛り上がらず。『私の嫌いな探偵』(テレビ朝日 金曜23:15~)は金曜の夜に何も考えずに見る分にはたいへん楽しい。
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『ダークシステム 恋の王座決定戦』(1~4話 TBS 月曜24:28~)は、独特の世界観と脱力系のテンポ感がじわじわくる。が、『時効警察』を手掛けた三木聡のようなシュール演劇テイストではなく、あくまで予算がないがゆえに自ずとシュールになってしまう自主映画のソレ。これは決して批判などではなく、幸修司が手掛けた同名の自主映画が「原作」であり、それに惚れ込みシリーズ構成と監督を買って出た犬童一心と小中和哉は元々自主映画の出身だから、全編に漂う自主映画臭はむしろ確信犯なのだ。
もちろんHey! Say! JUMPの八乙女光の初主演ドラマだし、最近では『のぼうの城』などの大作も手掛けた犬童一心が関わるのだから、それなりに予算はかけているはずなのだが、あくまでもテイストはチープな自主映画然としている。寝起きのようなボサボサ頭に銀縁メガネで主人公・加賀美を演じる八乙女君のイケメンぶらなさ具合にも感心するし、ドラマ初出演の玉城ティナの棒読みのセリフすら好ましい。
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単発だが、2013年1~3月に放送され人気を博したドラマの待望の続編『最高の離婚special 2014』(2月8日 フジテレビ 21:00~)も見応えがあった。一度は離婚したものの、籍は入れずにずるずると一緒に暮らす光生(瑛太)と結夏(尾野真千子)。友人の上原諒(綾野剛)と灯里(真木よう子)夫妻に子どもが生まれ、光生の姉のおめでたを知った結夏は、光生に子どもが欲しいと打ち明ける。
落ち着いたら再び婚姻届を出そうと言う光生は恋人同士のような今の暮らしを維持したいので、「新婚さん始まろうとしてるんだよ。行くならまずIKEAでしょ。IKEA行ってソファ買おうよ、カフェ風のやつ。」と反論。「そんな雑誌に載ってるみたいな生活いらないの。あなたと私の子どもが欲しいの。分かる?女が男の人に思う気持ちにそれ以上はないの」と詰め寄る結夏に、子どもが生きる将来の日本経済を懸念する光生は、「大就職難ですよ。ブラック企業どころじゃないよ。ブラックホール企業に就職することになりますよ」と叫び、「ブラックホール企業って何よ」とツッコまれると「天文学的な残業時間ですよ。うちの子ボロボロになりますよ。吸い込まれますよ。そこに送り出していいものなの!?」と意味不明の理屈をまくし立てる。
この結夏の「子ども、ほしいね」発言に果たして光生は応えることができるのかを主軸に、諒の元カノ(臼田あさ美)との邂逅や結夏の不倫旅行騒ぎ(相手は光生に『ヤング宮崎駿』と茶化される岡田義徳)などを挟んで物語は進んでいく。膨大なダイアローグが浮き彫りにする人生の悲喜劇。まさくし脚本家・坂元裕二の真骨頂だ。連ドラ版は、ウディ・アレンを思わせる瑛太の神経症的な屁理屈トークが笑いを生み(さながら目黒川はアレン映画におけるイーストリバーか)、「毎度ばかばかしいお笑いを」という落語の夫婦(めおと)物のようなテイストを醸しつつ、ラストは桑田圭祐が歌う『Yin Yang(イヤン)』のイントロが流れ「チャンチャン!」というオチで終わる、という趣向だったが、今回はそれを踏襲しつつ、映画『ブルーバレンタイン』のようにヘビーな男女の対峙が真正面から描かれる。
不倫旅行をしかけた結夏に光生は激昂、二人の仲は最悪に。すったもんだの末、仲直りして婚姻届を出そうと歩み寄る光生に対して結夏は涙ぐみながらこう返す。「光生さんはひとりが向いてる。ほら、逆うさぎだよ。寂しくないと死んじゃうの。馬鹿にしてんじゃないよ。そういう光生さんのとこ好きだし、面白いと思うし。そのままでいいの。無理して合せたら駄目なんだよ。合せたら死んでいくもん。私が、あなたの中で好きだったところが、だんだん死んでいくもん。そしたらきっと、いつか私たち駄目になる。」
一見がさつで無神経に見えるズボラ妻の結夏がほんとうは愛に満ちた可愛いひとだったり、神経質で辛辣な光生がほんとうは相手の気持が分かるやさしいひとだったり。このドラマの凄さは、表面からは分からないひとの奥行や多面性がきちんと描かれているところだ。
光生は物語の冒頭で尿管結石を患い、いろいろあった末、その石が尿とともに流れ落ち、係長に昇進し、通院する歯医者の美人助手に言い寄られる。結夏と別れることで肩の荷が降りたのだろうか。けれど、お年玉年賀はがきの2等のふるさと小包が当たってもそのよろこびを分かち合うひとは、もう隣にいない。
ラストに、光生が結夏に宛てて書く長く叙情的な手紙(まるで小沢健二の詞のような)の文面から、光生がいまでも結夏の記憶ととも日々を暮らしていることが分かる。連ドラ版で結夏が光生宛てに書いた手紙は結局渡されることはなかったが、今回、光生の手紙はポストに無事投函された。その返事がどうなるのか、1年後(?)に期待したい。
では、いいドラマを。
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2014 JAN~MAR VOL.02
前回、事前情報と勘でアタリをつけピックアップしたドラマが軒並み放送を開始した。もちろん、それ以外も初回はほぼすべて録画して見まくったのだが、結果的に採り上げたドラマに関してはハズレなし。レコメンドしたはいいが、実際に見たら「違った!」という事態にならずに正直ホッとしている。こればかりは見てみないことにはわからないわけで、そこがまた連続ドラマの面白さでもある。ちなみにここで言うアタリ・ハズレは視聴率とはあまり関係がない。あくまでも内容重視。
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『なぞの転校生』テレビ東京 1~2話 テレビ東京 金曜24:12~
映画『Love Letter』『リリイ・シュシュのすべて』などで知られる岩井俊二監督が企画プロデュースと脚本を、映画『夜のピクニック』の長澤雅彦監督が演出を手掛けるということで映画ファンからも注目が集まった本作。深夜枠のSFいうと、一歩間違えばチープなB級テイストになる可能性もあるが、フタを開けてみれば、まさしく岩井俊二の良さと長澤雅彦の良さの両方が掛け合わされた、みずみずしい青春SFドラマになっていた。
岩井俊二作品は独特のトーンの映像で知られ、特にやわらかい光の処理の仕方に定評がある。これは、岩井作品を初期から手掛けてきた撮影監督・篠田昇(2004年他界)の功績によるところが大きいのだが、本作ではその篠田の弟子筋にあたる神戸千木(かんべちぎ)が撮影を担当。AKB48の『桜の栞』(演出は岩井俊二)のMVやドキュメント映画『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued 10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?』でも、篠田昇直系というべき美麗な映像が印象的だった。
というように、思わず撮影の話から入りたくなるほど、冒頭から他のドラマとは明らかに一線を画す独特のトーンの映像が広がり、そこにショパンの『雨だれ』が流れるという、いかにも岩井俊二!な世界。「映画みたいな映像」だから良い、というわけではなく、映像自体が何かを雄弁に語るドラマを久しぶりに見た、という話。
今回はじめて連続ドラマを手掛ける岩井俊二の実験性と、映画『青空のゆくえ』や『夜のピクニック』で少年少女の群像劇を撮った経験をもつ長澤雅彦のバランスはかなり良いのではないか。
2話でついに登場したなぞの転校生・山沢典夫を演じる本郷奏多の透明感のある浮世離れぶりが見事だし、1975年に放送されたNHK「少年ドラマシリーズ」版で主人公・岩田広一を演じた高野浩幸が中村蒼演じる岩田の父親役として登場するのもオリジナル版のファンへの目配せを感じる。
そして前回、注目すべしと書いた桜井美南はいまのところまだ大きな見せ場はないものの、2話の花屋で山沢典夫とはじめて出会うシーンでさわやかな色気を覗かせるあたり、今後に期待がもてるというもの(ちなみにオープニング曲でもなかなかの美声を響かせている)。
伝説化しているドラマのアップデート版としては大成功といえるのではないか。
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『失恋ショコラティエ』1~2話 フジテレビ 月曜21:00~
2010年のドラマ版と2011年の映画版『モテキ』(大根仁監督)が恋愛物のリアリティを更新して以来、「そんな会話する?」というようなウソ臭いドラマや映画は急速に過去のものになっていった。とはいえ、生々しい現実的な設定や会話を採用するだけではあからさま過ぎるし、場合によってはゲンナリもする。それをどうコーティングして「恋愛の夢(あるいは悪夢)」を提示してくれるのかがカギになる。本作は片思いをこじらせて妄想恋愛へと突き進む男を『モテキ』以降のリアリティで描こうとしている。
「さあ、それじゃあ、ドロドロに汚れましょうか」
パリで修行してショコラティエとなった主人公の爽太(松本潤)は、こうモノローグで宣言する。ドロドロとはいえ、そこはチョコレートの海なので、甘美でほろ苦い。いわば甘い痛みの中へズブズブにはまり込んでいくのだが、ある種の男たちの中には、いい女に振り回されたいという欲求の強いひとがいる。
嘘か本気か分からない思わせぶりな態度に一喜一憂しながらも、それが仕事(爽太の場合チョコレートづくり)への情熱を増幅させていく。金持ちになりたいとか女にモテたいという漠然とした夢ではなく、「あのひとによろこんでもらいたい」というモチベーションのみで突き進めるひとはむしろ幸せだ。「あなたに褒められたくて」とは高倉健の著書のタイトルだが、爽太は紗絵子(石原さとみ)を笑顔にしたい一心でチョコづくりに励む。仕事というものの本質が、案外そこにあったりするのかもしれない。不特定多数に向けるのではなく、誰かのためにする何か。
紗絵子が爽太の学校の先輩だったという設定が思いのほか効いていて、手の届かないミューズを思いながらもつい身近な女に行ってしまうという構図には、夢と生活、アート(チョコづくり)と恋(生き方)の両立は可能かという問いが見え隠れする。
ふだん甘いものに関心のない男(自分のことです)ですら、見終ると無性にチョコレートが食べたくなるのも紗絵子の魔法なのか。 
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『明日、ママがいない』1話  日本テレビ 水曜22:00~
1話の放送直後、赤ちゃんポストを有する病院から「人権侵害」として局側に放送中止を求める物言いがついたことで思わぬ話題になってしまったドラマ。確かに「児童養護施設あたりからクレームが来なければいいが」と思いながら見ていたのだが、あんのじょう、という事態になってしまった。
が、ちょっと冷静に見れば、冒頭のホラー調の展開からして、かなり戯画化された寓話性の高い物語だということはすぐに分かるわけで、同じ枠で放送されていた『Mother』『Woman』のような現実に即したシリアスな路線でないことは一目瞭然なのだが。前回書いたように、親に捨てられた子どもたちが、「捨てられたほうも黙っちゃいないぜ、というタフな生き方」を見せるのがこのドラマのキモなのだからして、現実と乖離しているとか人権侵害といった指摘は当たらないのではないかというのが個人的な意見だ。
物語の設定から『家なき子』リターンズか!?などと前回も書いたのだが、なんと1話のエンドクレジットに「脚本監修・野島伸司」の文字が。そう、『家なき子』を手掛けた張本人が関わっていたのだ。公式サイトで事前に公表されていなかったこともあり、これには驚いた(実はネット上では噂されていたのだが)。あくまでも脚本は松田沙也で、野島は監修ということらしいが、かなり内容にコミットしているのではないかと思われる。
というのも、赤ちゃんポストに預けられていたから「ポスト」、家が貧乏だから「ボンビ」、母親が鈍器で男を殴ったから「ドンキ」というあだ名で子どもたちが呼び合う様子を見て、「昔の野島伸司ドラマみたい」とリアルタイムで放送を見ながらツイートしてしまったくらい、90年代の野島ドラマのフレイバーが濃厚だったからだ。もちろん、盛大なリバイバルというわけではなく、この設定なのに意外にも笑いの要素があったり、野島ドラマにあった、やたらとナイーブな「思いつめた感」のようなものはなく、サバサバとした印象(悪く言えば軽い)を受けるあたりが松田沙也テイストなのだろうか。
グループホーム「コガモの家」で、施設長を演じる三上博史が朝食を前に子どもたちに向かって「泣いてみろ。泣いたやつから食っていい」と鬼のようなことを言い放ち、子どもたちがうまく泣けずにいる中、芦田愛菜演じる「ポスト」が見事に泣いて見せる、というシーンは、明らかに現実の子役の世界を戯画化している。あるいは、理想的な里親に選んでもらえるかどうかを子どもたちが心配するくだりは、さながら「たくさんのオーディションの中からいかにおいしい仕事をゲットできるか」という過酷な子役の世界のメタファーだろう。
こうしたことからも分かるように、このドラマは「親に捨てられ施設で暮らす子どもたちの話」という設定を借りつつ、描こうとしているのは、ダメなオトナたちがつくったダメな社会を子どもたちがいかに自力でサヴァイヴしていくのか、という話なのだ。まさか放送中止などということはないと信じたいが、物言いがついたことで無難な脚本に書き直したりせずに初志貫徹してもらいたいと願うばかり。
そういえば、知人に言われて気がついたのだが、本作のキービジュアル(芦田愛菜たちが毛布にくるまっている写真)は、イギリスのロックバンド、The Whoのドキュメント映画『The Kids Are Alright』の引用だ。まさにこのタイトルが劇中の子どもたちへのメッセージになっているあたりがニクい。
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公式HPより
『紙の月』NHK 1~3話 火曜22時~
若い男に貢ぐために勤務先の銀行の金・1億円を着服する主婦を、いつまでも透明感を失わない原田知世46歳がどう演じるのか。本作への興味はほぼその一点にのみ集約されていたのだが、昼ドラ風の設定にも関わらず、生々しい性欲の話にならずに済んでいるのは(それが見たいというひとには物足りないだろうが)、やはり原田知世のたたずまいがあってこそだろう。
梨花(原田)の夫・正文(光石研)は、妻を傷つけることをポロっと口にするが、おそらく本人に自覚はない。暴力をふるうわけでも、浮気をしているわけでもない、ある意味ごく普通の商社マンなのだが(どうでもいいけど、こういう場合の夫は大抵商社マンだな)、梨花の中にオリのように少しずつ積み重なっていく疎外感が、自分を褒め、認めてくれた若い男・光太(満島真之介)へと向かわせる。
普段は見向きもしない高級化粧品を買おうとするとき、手持ちのお金が財布になかったため、顧客から預かった現金を「あとで返せばいいよね」と手をつけてしまうことから始まる転落。確かに、お金には持ち主の名前が書いてあるわけではいから、ひとから預かったお金を使っても、後で自分のお金で補てんすれば一見問題はないように思えるが、ひとのお金に手をつけ、それで何事もなかったという事実は、そのひとの何かを狂わせるのだろう。怖い。実に怖い。
「ちょっと無神経だけどごく普通の夫がいて、なんで若い男のために他人の金を1億も横領するのか理解できない」という声もあるだろう。それはごく自然な感情だと思うが、梨花は若い男にのめり込んだのでも、大金に目が眩んだのでもなく、「ここではないどこか」へ行くことを欲したのではないだろうか。いわば、遠い国への旅を夢見るように。

「ここではないどこか」への旅のチケットが、梨花にとってお金であり恋愛だったのかもしれない。
前回採り上げたドラマの中では、『ロストデイズ』(フジテレビ 土曜23:10~)が、やや展開がゆるく、いまひとつといった印象。演出は『古畑任三郎』『マルモのおきて』などを手掛けた河野圭太なのだが、サスペンスの演出は不得意なのか。山小屋に泊まる大学のテニスサークルの男女をめぐるサスペンスなのだが、ホラー映画ならば開始10分で殺されるような軽~いノリのリア充男女の恋のかけひきが描かれるのみで、2話の時点でメンバーのうちの誰も死んでいない。人気番組『テラスハウス』みたいなルームシェアドラマを見せられているような気分なのだが、屈託がなさそうに思えた面々の裏の顔が徐々に表れ出したので、これからどう物語が転がるか、もう少し様子を見よう。
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公式HPより
その代わりといっては何だが、期待せずに見た『私の嫌いな探偵』(テレビ朝日 金曜23:15~)が思いのほか楽しかった。原作は『謎解きはディナーのあとで』の東川篤哉による「烏賊川市(いかがわし)シリーズ」なのだが、安定感のある二枚目芝居も堂にいった玉木宏に剛力彩芽が「鳥みたいな顔」といじられたり、『33分探偵』『コドモ警察』を手掛けた福田雄一の脚本がふざけまくっていて痛快だ。これまで剛力ちゃんの代表作はランチパックだと思っていたが、これはハマり役ではなかろうか。
『ダークシステム 恋の王座決定戦』(TBS 月曜24:28~)については初回放送がギリギリ間に合わず、次回あらためて書くことにする。次回は2週間後くらいに更新予定。
では、いいドラマを。
BACK NUMBER
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2014 JAN~MAR VOL.01
通常、テレビドラマは3カ月に一度入れ替わるが、新ドラマの初回を見逃すと、次回以降見る気が失せるのはよくある話。ということで、2014年1月スタートの新ドラマの中から、「とりあえず初回だけでも予約録画しておいたほうがいいドラマ」をセレクトしておく。もちろん、リアルタイムで見ることが可能であればなるべく録画せずに見るべし。録画が溜まるとだんだん見るのが億劫になるものだ。
フタを開けてみないと何とも言えないのがドラマの面白さであり怖さでもあるのだが、事前情報や過去のデータなどから読み解くと、こんな感じになる。
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公式HPより
『なぞの転校生』テレビ東京 1/10スタート 金曜24:12~
原作は1967年発表の眉村卓によるSFジュブナイル小説。1975年、NHKがウイークデイの夕方放送していた帯番組「少年ドラマシリーズ」枠でドラマ化され人気を博した作品なのだが、そんな昔の話をなぜ今? と、まさにクラスに突然なぞの転校生がやってきたかのごとく不思議がっていたら、企画プロデュースと脚本を映画監督の岩井俊二が手掛けると知り、ははーんと腑に落ちた。
岩井俊二はまさにこのドラマをリアルタイムで見ている世代だし、しかも、「高度に進んだ文明を築いたがゆえに核戦争を引き起こし別次元の世界から避難してきた民」という設定は、福島の原発事故とそこから避難した人たちをどうしたって想起する。岩井は宮城県の出身で、NHKの東日本大震災復興支援ソング『花は咲く』の作詞も手掛けている。当然、今この話をやる上で、核に対する危惧を込めるであろうことは想像に難くない。
もちろん原作小説もNHKのドラマも、あからさまな反核思想などではなく、ある日突然やってきた異能者が日常に揺さぶりをかけるという、基本的にはSFやサスペンスのかたちを取りつつ、行き過ぎた現代文明に警鐘を鳴らすというメッセージが背後に置かれている。実は、まさに今描くべきテーマが内包された話だといえる。
主人公・岩田広一に中村蒼、なぞの転校生・山沢典夫に本郷奏多という若いけれどキャリアのある2人を配しているが、注目は岩田と幼なじみの香川みどりを演じる桜井美南(みなみ)。これがドラマ初出演となる桜井は、鈴木杏、北乃きい、南沢奈央を輩出したキットカット受験生応援キャラクターの5代目にあたる16歳(ちなみに4代目は2013年注目を集めた刈谷友衣子)。
しかも岩井俊二といえば、自身の映画で奥菜惠や蒼井優をブレイクさせた「女の子を見る目が確かな」監督。予告動画以外、動いている姿をまともに見たことがないうちからこんなことを言うのもナンだが、おそらく逸材に違いない。
とはいえ、岩井はプロデュースと脚本のみで、演出は『夜のピクニック』などで知られる映画監督の長澤雅彦が手掛ける。これまで大根仁監督の『モテキ』、園子温監督の『みんな!エスパーだよ!』などを放映してきたテレ東深夜の「ドラマ24」枠で岩井俊二&長澤雅彦とくれば映画好きも必見だ。
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公式HPより
『失恋ショコラティエ』 フジテレビ 1/13スタート 月曜21:00~
いわゆる月9。と言っても、最近の月9はかつてのトレンディドラマの流れを汲む王道の恋愛ドラマを放映する枠では既になくなっていて、『鍵のかかった部屋』『ビブリア古書堂の事件手帖』などライトなミステリィ物も多く、バラエティに富んでいる。
2012年夏、この枠で放映された『リッチマン、プアウーマン』(小栗旬、石原さとみ出演)も一見王道の恋愛物のようでいて、「就職が決まらない高学歴女子とIT企業を起ち上げ成功を手にした若き経営者との格差恋愛」を題材にした、恋愛+起業物というあたらしい手触りのドラマだった。Facebookの創業者、マーク・ザッカーバーグをモデルにした映画『ソーシャル・ネットワーク』に韓流ドラマをプラスしたような、と言ってもいい。
とりわけ、一筋縄ではいかない安達奈緒子の脚本が秀逸だったのが、『失恋ショコラティエ』は、その安達が脚本を手掛けていることからも要注目。原作は累計100万部を記録する水城せとなの人気コミックだが、こういう場合、何かと原作ファンからは厳しい声が上がるものと想像される。むしろ原作を未読のひとのほうがすんなり入れるかもしれない。
ある意味ストーカー的な妄想恋愛に邁進する主人公・爽太を嵐の松本潤がどう体現するのか。『リッチマン~』では子犬のような愛らしさ全開だった石原さとみが爽太を思わせぶりに振り回す「性格悪子ちゃん」のサエコをどうリアルに演じるのか。20代男子の4割が恋愛経験ナシといわれる現代において、あからさまにベタな恋愛ドラマをつくるとは思えず、かなりヒネリや毒のある展開になるものと思われる。
原作では爽太のセフレとして描かれる加藤えれな役が水原希子というのもグッとくるし、爽太の妹・まつり役に有村架純が配されているあたりも抜かりがない。
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公式HPより
『明日、ママがいない』 日本テレビ 1/15スタート 水曜22:00~
日テレ水曜10時といえば、芦田愛菜が注目されるきっかけとなった『Mother』や満島ひかりがシングルマザーを演じた『Woman』(いずれも脚本は坂元裕二)など、母と子の葛藤の物語に象徴されるヘビーながらも見応えのあるドラマを放映してきた枠だ。この枠に、ふたたび芦田愛菜が降臨。そして、大河ドラマ『八重の桜』のチビ八重で人気を集め、『Woman』では満島ひかりの娘を演じた鈴木梨央も加わり、何やらまたしても見る者の涙を枯らそうという魂胆らしい。
親の虐待などによって児童養護施設に預けられた子どもたちがサヴァイヴしていく話と知り、安達祐実の『家なき子』リターンズか!? と思ったのだが、予告動画を見たら、「親なき子たちの物語」というフレーズを使っていて納得。施設の子どもたちが「ポスト」だの「ボンビ」だのとあだ名で呼び合うのは、親からもらったものは名前も含めてすべて捨てるためだというからすさまじい。
「親に虐待されてかわいそう」なんていう良識ある視聴者のうわべだけの感傷を吹っ飛ばし、捨てられたほうだって黙っちゃいないぜ、というタフな生き方を見せてもらいたい。はたして「同情するなら金をくれ」に匹敵するキラーフレーズは出るのだろうか。
今のところ公式サイトに脚本家のクレジットはない。普通に考えれば『Mother』『Woman』の坂元裕二なのだろうが、どうやら新海誠のアニメーションの脚本に参加している松田沙也の線が濃厚。未知数のひとだけに期待と不安が入り混じった状態で放映を待つしかなさそうだ。
他には、TBS深夜の「ドラマNEO」枠で放映される『ダークシステム 恋の王座決定戦』(TBS 1/20スタート 月曜24:28~)も、まさにダークホースとして押さえておきたい。何しろ、自主映画でありながら異例の高評価を得た幸修司の映画『ダークシステム』に惚れ込んだ映画監督の犬童一心(『ジョゼと虎と魚たち』『のぼうの城』)が演出を買って出たというのだ。
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公式HPより
好きな女の子を恋敵に奪われた男が手づくりマシンを駆使して反撃に出る...という恋愛バトルコメディだが、『失恋ショコラティエ』がフランスで修行してショコラティエになってあのコを見返してやるんだ!というシャレオツなリベンジであるのに対し、『ダークシステム』の主人公・加賀美はあくまで負のエネルギーをマシンに搭載してライバルに暑苦しく立ち向かう。
加賀美を演じるのは、これがドラマ単独初主演のHey! Say! JUMP・八乙女光。自分勝手で小心者というイケてない主人公をどう演じるのか見ものだが、加賀美が惚れ込むヒロイン・白石ユリを昨年のミスiDグランプリに輝いた玉城ティナが演じるのも大注目。すでにモデルとして各方面から引っ張りだこだが、ファムファタル(運命の女)と言うべき役柄をドラマ初出演の玉城がどう魅せるのか。低予算の自主映画だからこそ生まれる馬鹿馬鹿しい情熱のようなものが映画版の魅力だったが、ドラマ版にもその熱量が受け継がれていることを期待したい。
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公式HPより
他にも、瀬戸康史主演、石橋杏奈、小島藤子、三吉彩花など注目の若手女優が揃い、1日1話、10日間を10話で描くというミステリー『ロストデイズ』(フジテレビ 1/11スタート 土曜23:10~)あたりも初回は押さえておきたい。角田光代の小説のドラマ化で原田知世が主演を務める『紙の月』(NHK 1/7スタート 火曜22時~)も、全5話と短いが、巨額横領して男に貢ぐ女を原田知世がどう演じるのか興味をそそられる。
ということで、1月スタートのドラマをピックアップしてみたが、岩井俊二、長澤雅彦、犬童一心と、複数の映画監督が連続ドラマに進出しているのも今期の特徴のひとつ。ドラマ好きの間ではここしばらく「脚本家は誰か」でドラマを見る傾向があったが、それに加えて今度は「演出は誰か」に注目が集まるとすれば、さらに見方は多角的になる。
『医龍4』がないじゃないか!とか、向井理と綾野剛という当代人気イケメン共演の『S 最後の警官』はどうした!とか、各所からツッコミが聞こえてくるが、まあ気のせいだろう。人気シリーズや人気俳優のドラマは放っておいても見るひとは見るでしょ。というのがこのコーナーのスタンスだ。
次回は、新ドラマの初回が出そろったタイミングで更新する予定なので、ぜひそれまでにおのおの課題(?)をクリアしておいてほしい。
では、いいドラマを。
BACK NUMBER
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ドラマから流行語が生まれたり、なにやらテレビドラマの周辺が騒がしい。実際見応えのあるものも多く、「映画は観るけどドラマはちょっと...」なんて言って食わず嫌いしているのはもったいない。でも、すべての連ドラをチェックするのは物理的に無理。しかも、高視聴率だから面白いかといえば、実はそうでもなかったりするから話はややこしい。そこで、ほんとうに面白い、いま見ておくべきドラマを独自の視点で採り上げていくのがこのコーナー。ブッタ斬りでもメッタ斬りでも重箱の隅つつき系のツッコミ芸でもなく。そのドラマの「何がどう面白いのか」「どこをどう面白がるべきか」をふんわり提示する、普段ドラマを見ないひとにこそ読んで欲しいドラマ・ウォッチ・ナビ!

Text_Shin Sakurai
Design_Shogo Kosakai[siun]

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2014 April-June vol.03 6/18up
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公式HPより
『BORDER ボーダー』 テレビ朝日 木曜21時~ 8~9話(終了)
今期のドラマのなかで、予想を超えて面白く見ていたのが『BORDER』だった。
もはやさんざんやり尽くされたと思える刑事・事件ものにあたらしい質感をもたらした功績は大きい。小説『GO』やドラマ『SP』で知られる作家・金城一紀の原案・脚本、『相棒』や映画『探偵はBARにいる』の橋本一がメイン演出というふれこみから、ある程度のクオリティは保証されていたものの、こればかりは実際に見るまでわからない。
小栗旬が演じる刑事・石川安吾は、ある事件で頭に弾丸を撃ち込まれ、死の恐怖に直面したからか、頭に残ったままの弾が脳の神経のどこかに作用したのか、それをきっかけに死者と会話ができるようになる...というアイデアの大元は、おそらく死者と話すことができる少年が登場する映画『シックスセンス』(99年)に由来するのだろう。ところが、その設定を刑事・事件ものに投入することで、生と死の境界、ひいては正義と悪の境界の話になっていくため、もちろん物語自体はまるで異なった色を帯びる。
9話とややショートに終了してしまったが、この設定ならいくらでも(というのは言い過ぎにせよ)エピソードがつくれるだろうし、最終話は続編を匂わせる終わり方だったし、ましてや視聴率も良かったとなれば、パート2がつくられることはほぼ間違いない。
※初回視聴率9.7%からスタートし、宮藤官九郎がゲスト出演した5話が13.1%、7話が16.7%、最終話は14.4%と大健闘した。逆に開始前は下馬評が高かった裏 場組の『MOZU』は13.3%からスタートし、9話では7.7%にまで落ち込んだ(最終話は13.8%)。
終盤の8話では、石川が頭を撃たれた事件の真相が明らかになる。話自体は、昨年放送された「3億円事件=警察内部の犯行説」をとなえたドラマ『クロコーチ』(TBS)を思わせる警察組織の暗部を描いていたものの、石川が上司である監理官に「おまえも遅かれ早かれ正義の階段を踏み外すことになる。その時、ひどい転げ落ち方をしないように下で受け止めてやる人間が必要だ。俺がその役目を果たしてやるよ」という予言めいたことを言われ、「俺は絶対に正義の階段を踏み外さない」と反発するくだりが、そのまま最終話のエピソードへと連なるという展開が巧みだった。
死者(望まずして命を絶たれた者)と対話ができるようになった石川には、彼らの無念が痛いほど分かる。そして、殺された者から誰が犯人なのかを教えられることによって、何が何でも自分が犯人を逮捕しなければならないという正義に駆り立てられるわけだが、暴走する正義は悪と紙一重なのだということを明示するのが最終話「越境」だ。
大森南朋が演じる安藤という男は、絶対的な悪を実現するためにさまざまな研究を重ね、職業をも変えていく。おもちゃメーカーの社員としてショッピングモールに出入りし、おもちゃで子どもの気を惹き、誘拐・殺害する卑劣な人物だが、用意周到に計画された犯行に一切の証拠は残っておらず、殺された子どもから犯人だと教えられた石川をイラつかせる。こいつが犯人だと分かっているにも関わらず捕まるこずとが出来ず、その男が引き続き惨たらしい事件を起こすのを指を咥えて眺めるしかないのか。
石川の特殊な能力は、もちろん他言していないため、同僚や上司はそのことを知らない。波瑠演じる検視官の比嘉だけがうすうす感付いているのだが、誰にも相談することなく、石川はひとりで犯人と対峙することになる。これが最終的に大きな悲劇を生む、というのが最終話なのだが、「越境」というサブタイトルからも分かるように、まさに石川は最後にボーダーを越えてしまうのだった。
大森南朋は、淡々とした態度で平然と殺人を繰り返す男・安藤を不気味に演じていた。いわゆる「狂気を内包した」といった分かりやすい芝居ではなく、何を考えているのか分からない体温の低い佇まいだからこそ、見る者はゾッとするのだ(どことなくTBSの安住アナを思わせるキャラクターだった。かねてから安住アナが殺人犯を演じたら最高だと思っているのだが、これはまったくの余談)。
安藤の持論は、どこにでもいる平凡な子どもを殺すことで、「私があの子に光を与え、世の親たちにモラルを与えた」という理不尽極まりないものだ。「闇があるからこそ光がある。悪があって正義がある。どちらか一方しかない世界なんてつまらないですよ。私がいるからこそ、あなたは輝けるんです。もしそれが気に入らないなら、あなたもこちら側にくるといい」と石川を挑発する安藤。「いつから悪に染まった? 何がきっかけだ」と問い詰める石川に、「さあ、いつからでしょう。ところで、あなたが正義に染まったのはいつからですか。何がきっかけですか? 分かったでしょう。実は正義と悪に大した違いはないんです」
悪と正義はコインの裏表、合わせ鏡だという話は古今数多く見られ、バットマンとジョーカーの例を持ち出すまでもなく、特別目新しいものではない。「私は悪を成すためなら人を殺せます。でも、あなたは(正義のために人を)殺せないでしょう。この差は永遠に縮まらないんです」と安藤が言うように、悪よりも正義を成すことのほうが難しい。なぜなら、正義のために行動を起こすことは、容易に悪へと転ぶ危険をはらんでいるからだ。
絶対的な悪は存在しても、絶対的な正義はあり得るのか。そうした問いが、ドラマの終盤で見る者に突き付けられる。そして、答えのないままエンディングを迎えた。問いは問いのまま、見る者のなかにあり続ける。靴に入った小石のように。
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公式HPより
『続・最後から二番目の恋』フジテレビ 木曜22時~ 7~9話
「鎌倉を舞台にしたスローライフなオトナの恋愛劇」という入れ物のなかに、仕事論・ドラマ論をも盛り込みつつ、多彩な世代の登場人物それぞれの「しあわせのありよう」を見つめていくという、じつに複雑なことをさらりとやり遂げているのがこのドラマ。
いや、「さらり」というのは見ているほうの勝手な言い分であって、作り手は四苦八苦かもしれないが、そのくらい「いい風が吹いている」ドラマであることは間違いない。
恋愛ドラマではあるものの、ここで提示されているのは「あたらしいホームドラマ」でもある。中井貴一演じる長倉和平を主とする長倉家のリビングダイニングには、家族はもちろん、隣に住む吉野千明(小泉今日子)が毎朝、朝食を食べにやって来るし、嫁いだはずの長女・典子(飯島直子)も何かとやってくる。昼間はカフェとして営業し、和平の娘・えりな(白本彩奈)のボーイフレンドの母親・薫子(長谷川京子)が手伝いに来たりもする。つまり、長倉家のリビングダイニングは内と外がゆるやかに連なる縁側であり、「あたらしいお茶の間」なのだ。
かつて、向田邦子が脚本を書いた『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』などに登場したお茶の間。家族ですらバラバラに食事をすることが当たり前のようになった現代、向田邦子的お茶の間空間はもはや幻想に過ぎないのかもしれないが、バラバラの人間がかろうじてひとまとりになれる空間が、長倉家の食卓にはある。
7話では、長倉家の面々がリビングダイニングで親戚の叔母さんのエピソードを延々と語り合うシーンがあった。若い頃、長髪にした和平を見て、床屋に行く金がないのかと憐れんだ叔母さんが泣きながら5千円札を握らせてくれた、という話から叔母さんの家で食べたカレーがおいしかった、というエピソードに着地する、とりとめのない話を、家族でも親戚でもない千明が同じテーブルで笑いながら聞いている。
カメラは、家族の思い出を懐かしそうに語る長倉家の面々から、次第にそれを聞く千明の顔を捉えていく。「なんだよ、そのいい話は。サザエさんか? ちびまる子ちゃんか、あんたたちは。何、日曜日の夕方感出してんだよ。まだ午前中だよ」などとツッコむ千明だが、「くだらない話を懐かしんだり笑い合える家族っていいよな」と思っているでろあろうことが、その表情からくみ取れる。
庭でまったりする千明が、隣に来た和平に向かって、「私がおばあちゃんになった時、日曜日の夕方にどんな顔してサザエさん見てるんでしょうね。笑ってますかね。笑っていたいな。っていうか、やってますかね、サザエさん、その頃」とつぶやくと、「きっと、あなたは笑って見てますよ」と和平が答える。じいさん、ばあさんになった時、サザエさんを笑って見ている自分でありたい。それは、日本に住む者にとって、いわば究極的な意味で理想の老後の姿かもしれない。そして、「あなたはおばあさんになった時、きっと笑ってサザエさんを見ていますよ」と言うのは、究極の愛情表現ではなかろうか。こんなことをさらりと言える和平は、大人の男だと思う。
とにかく、どれほどすったもんだがあろうとも、いや、あればあるだけ、和平と千明がふたりでしっぽりと語るシーンの良さが際立つのだ。
8話では、「またまだ分からないことだらけ、探してるものだらけ。そのほうが前に進めるというか、この先、もうちょっとだけ成長できる気がしません? でも、まだまだなのに、残された時間はどんどん少なくなっていく。やれやれですよ(和平)」「歳をとるのも面白いなと思って。分からなかったことが分かるようになって、分かったと思ったことがまた分からなくなって。まだまだですね、私たち(千明)」なんていう会話もあった。
9話では、「男の前で泣くくらいなら切腹する」とまで言っていた千明が、和平とサシ飲みしながら思わず泣いてしまう。ツラいことがあった千明の話をずっと黙ってうなずきながら聞いていた和平が、ぽつりと言う「私は好きですけどね。吉野さんみたいな、泣けない、系?」のひと言で千明の涙腺が決壊。ここでは、千明の愚痴とも心情吐露ともつかない話を和平が黙って聞くのがポイントなのだ。普段はああ言えばこう言うのふたりでも、いざという時にはじっくりと相手の話を聞く。ほんと、大人げないのに大人なのである。長倉和平って男は。
毎回書き起こしたくなるような珠玉のセリフの数々だが、きりがないのであとは本編をご覧いただくとして、「大人げないままこんな大人になりました」と歌い出す横山剣作詞・作曲のエンディングテーマ「T字路」(貴一・キョンキョンのデュエット)の通り、いつまでも大人になりきれない大人たちのしあわせの行方を見守りたい。
それにしても、鎌倉市の市長(柴田理恵)が市長秘書の和平に恋するエピソードは誰得なのだろう。美男美女のすったもんだだけだと視聴者が感情移入できないから、という理由なのだろうか。そこだけは謎。
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公式HPより
『リバースエッジ 大川端探偵社』 テレビ東京 金曜0時12分~ 7~9話
何かに囚われて生きている男たちがいる。それは、過去に出会った自分の人生を変えたある女だったり、一度も姿を見たことはない声の持ち主だったりするのだが、そのひとを探してほしいと探偵社に依頼を持ちかける男たちの物語が7話から9話とつづく。
7話「夏の雪女」の依頼者は、20年前の夏の夜、白いワンピースを来た若い女(國武綾)にいきなり路上で「助けてください」と懇願され、自分のアパートにかくまった経験がある中年男・蓑田(田窪一世)。仕事から帰ると、「冷蔵庫にあるものだけで作ったんですけど」と言って女は手料理を作って甲斐甲斐しく待っていた。今まで女性とそんな時間を過ごしたことのない男は、この突然の押しかけ女房的存在に心酔する。
3日目の夜、女は「抱いてください」と男に体を預けて...という、実にありえへん性的ファンタジーが繰り広げられるわけだが、この夜を最後に突然女は去っていく。そりゃあ、こんなことがあれば、男はこの女のことがずっと忘れられなくなるかもしれず、ある意味で人生を狂わされてしまうことにもなろう。この男は20年もの間、どこの誰かも分からない白い服を着た雪女のような女の幻とともに生きてきたのである。原作のマンガでは、この依頼者はその後結婚して子どももいるということになっているが、ドラマでは今も独身のさえない中年男として描かれる。明らかに過去の時間に囚われたままなのだ。
大川端探偵社の村木(オダギリジョー)は、依頼者の持参したバーのマッチを頼りに女の居所を探そうとするが、そのマッチを擦ろうとするとしけっていてうまく点かないことで20年の時間の経過を示す演出が冴える。
結局、依頼者がたまたまテレビで見た女優がその「雪女」だということに気づき、村木は女優と会う機会を得て過去について問いただすも、女優は否定。原作のマンガでは、村木が女優の脇の下にほくろがあることに気づく、という結末だったが、ドラマでは脇の下のくだりはナシ。その代わり、かつて女が男の部屋で最後の夜にすき焼きを食べるくだりで、「私、すき焼きだと卵たくさん食べちゃうんです」と言いながら生卵を6個も食べるというシーンがあるのだが、村木の前で女優が生卵の乗ったタルトだかパンケーキだかを食べることによって、やはり雪女はこの女優だったのか、と見る者が気づく仕掛けになっている。さらに、最後に女優が村木の元をもう一度訪ねて来ることで、依頼者だけでなく、女もまた過去の出来事に囚われていることが分かるというオチも。
8話の「女番長」では、空手の師範・梶原(橋本じゅん)が、かつて荒んだ高校で不良のいじめに遭っていた少年時代、女番長(吉倉あおい)に救われたことで強い男になる決意したことから、その人生の恩人に会ってあらためて礼が言いたいと願う。中年になった元・女番長はかつての梶原少年のことを良く覚えていないというあたりが切ないが、人生を変えた出会いなんて案外そんなものかもしれない。変えられたほうはいつまでもそのひとのことを憶え、囚われているが、変えたほうはすっかり忘れてしまっている、というような。
9話の「命もらいます」の依頼者は、遊園地の場内アナウンスの「声」に囚われ、その主に会いたいと渇望するオタク男(ボブ鈴木)だ。探偵社の村木と秘書のメグミ(小泉麻耶)の電話攻勢でアナウンスを担当した声優を突き止めるが、当然キモいオタクに会う理由などなく面会を断られてしまう。村木らは苦肉の策で替え玉の老婆を用意し、「あのアナウンスは60年前に録音したものだった」と言い張ってごまかそうとする。原作では、依頼者はこの作戦にまんまと引っかかるのだが、ドラマでは、アナウンスのあるフレーズが60年前に流通しているはずがないことを依頼者が見抜き、嘘が見破られてしまうのだった。
結局、依頼者は声の主に会いたいというリアルな欲望より、これまで通り遊園地に通ってアナウンスの声に繰り返しうっとりと陶酔することを選ぶ。生身の声優は年老いていくが、録音された声は永遠に若いまま。ここにもまた、幻とともに生きようとする男のいびつな姿がある。
過去の時間を巻き戻そうとする者、あるいは、ある時間のなかに永遠にとどまろうとする者。いずれもまた、同じくらい切なく、もの悲しいのである。
BACK NUMBER
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2014 April-June vol.02
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公式HPより
『続・最後から二番目の恋』フジテレビ 木曜22時~ 4~6話
「鎌倉を舞台にしたアラフィフの恋愛ドラマ」という設定を借りつつも、さまざまな世代の恋愛や仕事、すなわち人生を複層的に描く本作。2012年のファーストシーズンからスペシャル版、そして今シーズンと見続けてきた者としては、時間経過とともに歳を重ねる登場人物たちに対してもはや奇妙な愛着が生まれているわけだが、思えばそれは同局の長寿ドラマ『北の国から』をも彷彿とさせる。朝ドラや大河ドラマは別にして、基本3ヶ月で切り替わってしまう連ドラではなかなかここまで辿りつけるものではないが、海外ドラマを見れば分かる通り、長く続けることで生まれる愛着というものは確かにあるのだ(もちろんその一方でマンネリの危険も)。
さて、テレビプロデューサー千明(小泉今日子)の元に舞い戻ってきた年下の元カレで「食えない脚本家」の涼太(加瀬亮)。千明の大抜擢で新作ドラマのホンを任されたまでは良かったものの、出来上がったのは「死ぬほどつまらないホン(by千明)」だったという笑えない展開に。クリエイティヴな仕事をしている恋人同士、あるいは夫婦にも当てはまる、「もしパートナーがヒドいものをつくってしまった時に何と言えばいいのか問題」がここで浮上する。はっきりと言うのが愛情なのか、否定せず励まして奮い立たせるのがやさしさなのか。迷う千明の気配を察し、涼太はみずから口を開く。
「つまんないよね。ひとりよがりでどうにもならない、チラシの裏にでも書いてろって感じ。恋愛ドラマとか言ってるのにドキドキもなければキュンともこない。セリフに魅力もないし、意味ありげなかっこつけたセリフが続いてるだけで、陳腐だしイライラするよね。それに登場人物全員トラウマだらけでトラウマ頼りかよ、みたいな。自分で読み直して、こいつ辞めたほうがいいなって」
そんなにヒドいのか? 長年温めてた話とか言ってたのに!? と思わずズッコケてしまったが、まあ「俺まだ本気出してないだけ」と思うのは自由でも、実際に本気出した結果がヒドかった場合、果たしてどうなるのか。涼太の場合、若くしてシナリオ大賞を受賞してデビューという華々しい過去があるだけに、自分の書いたものがつまらないと認めるのはかなりしんどいことだったに違いない。
しかし、早朝の海を眺めながら千明の元を去る涼太の姿は、どこか吹っ切れたようにも見える。海岸でたまたま出くわした鎌倉市役所勤務の長倉和平(中井貴一)は、海に向かって手を広げながら「鎌倉は、いつまでもこのままで待ってますから」と涼太を見送る。鎌倉に来ておのれの才能のなさと向き合うことになった涼太は、それでも鎌倉という街と人に少しだけ癒されて去って行ったのだろう。「本当に疲れたら、また来ます」と言い残して。
このドラマは、鎌倉という街と、和平を主(あるじ)とした長倉家とその隣にたまたま住む千明を含めた疑似家族の小さなコミュニティの話でもある。そういえば、カマクラとナガクラは似ている。長倉家と千明の家は、もはや別棟のシェアハウスのようだ。
和平は妻に先立たれた独身の52歳、千明は「未婚のプロ(byジェーン・スー)」の48歳。職場や男女間のすったもんだがあっても、家に帰るとすぐ隣に同世代の異性の飲み友だちがいるというのは案外悪くないものかもしれない。ふだんは言い合いが絶えない和平と千明がしっぽりサシ飲みするシーンには、毎度しみじみとした雰囲気が漂う。
今後、このふたりが結婚するのかしないのかは分からない。が、仮に千明が急に家で倒れても絶対に孤独死にはならないだろうな、と考えると、こうした血縁なきコミュニティはこれからあちこちで増えていくのかもしれないし、そうしたとき、長倉家と千明の関係性は一種のロールモデルになり得るのかもしれない。まあ、現実には恋愛が絡むともっとドロドロするのだろうが。
第6話では、長倉家の二男・真平(坂口憲二)と和平の部下・知美(佐津川愛美)の結婚式が描かれていたが、さながら友だちや知り合いの結婚式を見ているような幸福な気分に包まれるドラマ前半のクライマックスといえる回だった。新婦が長倉家の女性陣たちと女子版バチェラーパーティーで盛り上がるなか、真平が兄の和平に「今までありがとうごさいました」と涙ながらに感謝のことばを告げるという男女逆転の構図もおかしかった。
○歳で結婚して○歳で子どもが生まれて〇歳で子どもが独立して...などというイメージ通りにいかないのもまた人生だったりするわけだが、本作は「人生はこうでなければいけない」という既存の価値観とは別の「もうひとつの価値観」の尺度を提示しながら、家族とも会社とも異なる「もうひとつの場所」のありようを示しているようにも思える。
大人のファンタジーかもしれないが、どこかリアルでもある。
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公式HPより
『リバースエッジ 大川端探偵社』 テレビ東京 金曜 0時12分~ 4~6話
「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」とはチャップリンのことばだったろうか。このドラマの真骨頂は、悲劇と喜劇が表裏一体となった世界観にある。
たとえば、4話「アイドル・桃ノ木マリン」、5話「怖い顔グランプリ」、6話「がんばれ弁当」に漂うおかしみと哀しみはどうだろう。
昔、ナマで見て以来ファンになったアイドルにどうしてももう一度会って人生をやり直したいと願うリストラされた中年男、顔が怖すぎてテロリスト呼ばわりされる手作りパン屋さん、留守中に弁当を届けるファンとあわよくばヤリたい売れない芸人。事件でも何でもない珍奇な依頼を持ちかける者ばかりが大川端探偵社を訪れるのだが、いずれも笑えるのに、どこか哀しくて切ない。まるで上質の落語を聴いたあとのようなじんわりとした余韻が残るのだ。無理に笑わせるでも無理に感動させるでもない、「そこはかとなく」の塩梅がいい。
基本ワンアイデアといえる1話完結の原作マンガ(作・ひじかた憂峰、画・たなか亜希夫)のどこを膨らませ、どう改変したのかを原作と照らし合わせながら見ていくのもひとつの楽しみ方といえるだろう。脚本・演出の大根仁はディープなマンガ読みとしても知られ、『モテキ』等のマンガ原作の映像化が多いこともあり、原作のテイストを最大限に活かしたうえで映像として立体化させる手さばきには唸るしかない。
たとえば、「アイドル・桃ノ木マリン」は、原作では離婚したばかりの中年男が現在のマリンと再会してただ茫然とするところで終わるのだが、ドラマでは設定をリストラされた中年男(マキタスポーツ)に変え、マリンとの再会だけでなく、その後の第2の人生をも見届けようとするやさしさが光る。
「怖い顔グランプリ」は、原作では秘書・メグミ(小泉麻耶)の付けているウサ耳に特に意味はないのだが、ドラマではメグミのいたずらでウサ耳を付けられた所長(石橋蓮司)と村木(オダギリジョー)が「かわいいー」とからかわれていると、とてつもなく怖い顔の依頼者が訪ねてくるというツカミになっている。「かわいい」から「怖い」への対比が一瞬にして鮮やかに描かれ、メグミがバニーガールの店で働いているエピソードへと連なり、そのバニーの衣装がクライマックスの怖い顔グランプリのステージで活かされることになる。しかも、メグミから怖い顔のパン屋への贈り物もカブリもの(自分をキャラ化するアイテム)つながりになっているという巧妙さ。
上手い! おーい山田くん、座布団やってくれ。である。
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公式HPより
『BORDER ボーダー』 テレビ朝日 木曜21時~ 5~7話
刑事もの・事件もののドラマが乱立するなか、俄然本作が面白い。仕事が生きがいの刑事・石川安吾(小栗旬)は、事件発生の連絡を心待ちにするようなワーカホリックゆえ、友人や恋人と疎遠になってもさして気にしない人間味の薄い男だった。ところが、ある事件をきっかけに死者と話すことができる能力を身に付けてしまったことで、次第に人間としての感情を取り戻していくのだが、それが正義という名の暴走と化していく辺りがこのドラマの面白さであり恐ろしさだ。行き過ぎた正義は悪とイコールという危うさもきっちり描いている。
脚本家の宮藤官九郎が死者の役でゲスト出演した5話は、これまでの流れからすればやや異色のコメディタッチの回だったが、ここでは石川と死者の岡部はさながらバディのように事件の真相を追うことになる。石川は死者の姿が見え、話すことが出来るが、岡部は死んだ瞬間に頭を打って記憶喪失になってしまったため、なぜ自分が死んだのかが分からない。そもそも自分がどこの誰だかすら分からないのだから、死者と対話が出来てもただちに真相には辿り着けない、というなんとも皮肉な展開に。
「コンビニをあたってくれ」との班長(遠藤憲一)の指令に、石川らと交じって神妙な面持ちで「はい」と返事をして走り出す岡部。完全に捜査班の一員のつもりなのがおかしいが、究明しようとしているのは他でもない自分の死なのだ。結局、岡部が死んだのは思わずズッコケるような理由によってなのだが、しかし、案外人間はこんなことで死ぬこともあるのではないかとも思える不思議な説得力がある。そして、実は岡部が死んだ理由の伏線となるシーンが前半の石川のあるアクションに隠されいるのは決して偶然ではないだろう。このドラマでは、伏線や裏の意図があちこちに仕込まれているからあなどれないのだ。
なにより、「死者と会話が出来る」という設定を毎回手を変え品を変え多面的に転がしていく金城一紀の脚本がすばらしい。1話完結のなかに2時間ドラマか1本の映画でも使えそうなプロットを惜し気もなく投入し、「そうか、こういう展開の仕方もあるのか!」と驚かせる辺り、まだまだアイデアは尽きそうにない。
抑制のなかに感情の起伏を覗かせる小栗旬のたたずまい、検視官を演じるクールビューティー波瑠の意志を感じさせるまなざし。気が早いかもしれないが、ぜひともシリーズ化を期待したい。
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公式HPより
『ロング・グッドバイ』NHK 1~5話
土曜ドラマ枠の『ロング・グッドバイ』は5月17日に全5話の放送が終了してしまったが、今期の注目作のひとつだったこともあり、少し触れておきたい。
「ハードボイルドの金字塔」といわれるレイモンド・チャンドラーの小説『長いお別れ』(1953年発表)を、舞台を戦後の日本に置き換えてドラマ化すると知ったときには驚いた。しかし、脚本を映画『ジョゼと虎と魚たち』や『メゾン・ド・ヒミコ』、朝ドラ『カーネーション』などで知られる渡辺あやが手掛けるというのでかなりの期待をもって見始めたのだが、1話を見た時点で少々面食らってしまったのも事実だった。
私立探偵フィリップ・マーロウは増沢磐二、富豪の娘のヒモ亭主テリー・レノックスは原田保など、登場人物はすべて日本人に置き換えられてはいるものの、ストーリーはほぼ原作に忠実。面食らったのは、まず、増沢がある事件と深く関わるきっかけになる、保との出会いのシーンだ。保が上半身裸の上にシャツを羽織る背中をカメラがスローモーションで捉え、その姿をねっとりとしたまなざしで増沢が見つめるのである。原作では、探偵と「憎みきれないろくでなし」のテリーとの奇妙な友情が描かれ、マーロウはテリーとの友情のために事件に深く関わることになるのだが、ドラマでの描写では、友情というよりもむしろ性的なニュアンスが濃厚だったのだ(少なくともそう見える演出になっていた)。
いや、そもそも原作にもそうしたニュアンス(今でいうBL的な)があるという意見もあるかもしれないし、なぜマーロウがほんの数回会っただけのテリーにそこまで肩入れするのかという理由も、「惚れたから」といわれれば済む話なのかもしれないが、「え? そういう話だったっけ?」というのが1話を見た正直な感想だった。女性脚本家がハードボイルドを描くとBLになるのか。自身のフェティッシュな欲望を解放するためにチャンドラーが引用されているのではないか、とすら思えた。
思い出したのは、ジュリーこと沢田研二が3億円事件の犯人を演じたドラマ『悪魔のようなあいつ』(1975年)だ。超絶美青年だった頃のジュリーが演じる可門は3億円強奪犯の男娼で、その仕事をあっせんするバーの経営者・野々村(藤竜也)は可門に惚れているというとてつもない設定のドラマだった。スタッフ、キャスト全員が何らかの物質をキメて撮影に臨んでいるのではないかと思うほどドラッギーかつダウナーなドラマなのだが、どうもそれと同じようなスメルを嗅ぎ取ったりもした(あくまでもイメージです)。という目で見ると、綾野剛がジュリーに、浅野忠信が藤竜也に見えてくるから不思議だ。
もっとも、話が進むうちに、事件のカギを握る流行作家の美人妻・上井戸亜以子(小雪)に増沢が魅了されるようになるので、どうやらゲイではないらしいことは分かるのだが、1話の耽美的ともいえるトーンはそのまま踏襲されているので、なかなか当初のイメージから抜け出せずにいた。物語のテイストは、実業家・原田平蔵(柄本明)が増沢と対峙する辺りで変わり始める。新聞社と出版社を持ち、テレビ局をつくり、政界にも進出しようと目論む原田のキャラクター設定は、どこから見ても読売新聞とジャイアンツと日テレをつくり原発を推進した正力松太郎を連想させる。街頭テレビをスタートさせた原田は、増沢を前にこう持論を展開する。
「戦争でこの国にはどでかい穴が開いた。それをこれからこのテレビジョンが埋めるのだ。かつて信じられていた仁義、礼節、忠誠は戦争によって灰になった。大衆はそれで不安になっている。それは一種の癖だ。みんな血眼になるものを探しているが、その癖そのものを直せばいい。せんないことに思いわずらうことをやめ、ただテレビジョンを見る。プロレスに興奮し、音楽とともに踊り、落語に笑い、頭をただからっぽにするのだ。そこにテレビジョンという風が流れていく。悩みを忘れ、笑いと興奮に満たされる。ゴミが詰まるよりは、からっぽのほうがずっとマシなんだよ」
メディアによる大衆洗脳論を得意げに披露する原田に、増沢は噛みつく。「それが自分の使命だなんて正気ですか? 飢えた子どもに酒を与えるようなものですよ。それは人間にとってもこの国にとっても最も大事なものを奪い取るのと同じだ」と。
この辺りでようやくこのドラマがハードボイルドという入れ物を使って何を言おうとしているのかが見えてくる。戦争という国家による「右向け右」の時代が終結したと思ったら、今度はテレビジョンというあたらしいメディアを携えた巨大な権力が台頭して大衆を洗脳し始める。長く大きなものに巻かれ、「豊かさ」「明るい未来」という名の夢に希望を託し、頭をからっぽにして突き進もうとする国民たち。過去の教訓は活かされず、宗教的な熱狂は何度でも繰り返される。
最終話、街角に貼られた原田平蔵の選挙ポスターには「原子力」の文字が躍り、東京オリンピック開催決定に大衆が浮かれる。映像はそのまま一気に50年もの時を超え、カメラは2020年の東京オリンピック開催告知を映し出す。問題は解決されず、大衆は何も変わらない。戦後と今はそのまま地続きなのだ。
時代の波に翻弄され、押しつぶされる者もいれば、その波をかいくぐり、したたかにサヴァイヴする者もいる。翻弄され、押しつぶされる者の象徴が上井戸亜以子だろうか。ちなみに彼女が握りしめていた蘭の花言葉は「変わらぬ愛」だ。つまり、この物語は「誰かが誰かに対する思いを貫き通す」という意味で純愛の物語だともいえる。
増沢磐二という男は、そのいずれにも属さず、あくまでも「個」として得体の知れぬ薄気味悪い巨大な何かに抗おうとしている。その結果、時代からスポイルされたとしても、損得ではなく、個としての生き方を貫く。つまり、ハードボイルドとはそうした生き方のことであり、言ってみれば「やせ我慢の美学」なのだ。
というメッセージは、全5話を通して見るとヒシヒシと感じることはできるし、
これをテレビで言うのは勇気のいることだろう。日テレだったらこの脚本は通らなかったかもしれない。だが、どうしてもメッセージだけが浮いているというか、すんなり物語のなかに溶け込んでいないようにも思えるのだ。チャンドラー風の比喩を使えば、まるで鍋のなかでカレーのルーが溶けずに欠片が残っているかのようだ。←違う気がする。
ハゲタカ』『外事警察』を演出した堀切園健太郎による凝りまくった映像は見応え十分だし、ただそのフェティッシュな画面に浸っていればいいのかもしれないが、見ていて増沢磐二という男の人物像にあまりかっこよさが見出せなかったのは、包容力やユーモアが希薄だったせいだろうか。どんな客にも(招かれざる客にも)必ずコーヒー豆を挽いて出す増沢の流儀は、とても良かったが。
そして、『あまちゃん』の音楽で大人気となった大友良英も、プッチーニのオペラから映画『タクシードライバー』まで、さまざまなオマージュを散りばめた劇伴で今回もいい仕事をしていた。それにしても、戦後の闇市を舞台にした黒澤明の映画『酔いどれ天使』の挿入歌『ジャングル・ブギー』(作詞・黒澤明、作曲・服部良一、歌・笠置シヅ子)を使うのは誰のアイデアだったのだろう。
BACK NUMBER
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2014 April-June vol.01
4月スタートのドラマについて、4月半ばには第1弾を書くはずが出遅れてしまったのは、何を採り上げるべきか今ひとつ決めかねていたからだ。『モテキ』『まほろ駅前番外地』の大根仁が脚本・演出を務めるテレ東深夜の『リバースエッジ 大川端探偵社』、前シリーズも面白く見ていた小泉今日子・中井貴一共演のドラマの続編『続・最後から二番目の恋』の2本はすぐに決まったのだが、あと1本が難しい。とりあえず、ほぼすべてのドラマの初回をチェックしたが、ドラマとしては面白く見たものの、ここでわざわざ掘り下げるべき何かが足りない気もしつつ、2話、3話と回を重ねていくうちにこんな時期になってしまった。
視聴率的には、朝ドラ『花子とアン』も絶好調だし、『半沢直樹』の池井戸潤原作、杏主演の『花咲舞が黙ってない』(日本テレビ・水曜22時)も好成績、『半沢』と前期朝ドラ『ごちそうそん』の余波はいまだに続いているようだ。あるいは、「脱のだめ化」に苦戦している感のあった上野樹里主演の『アリスの棘』(TBS・金曜22時)も、私怨をはらすために組織内部に入り込み復讐を目論む主人公という、これまた『半沢』路線と言うべき設定で高視聴率をマーク。
が、当初から宣言している通り、ここで採り上げるドラマは視聴率の高さや話題性というよりは、語るべき意味のある(と思われる)ドラマについて語ることを旨としている。「俳優の〇〇さんかっこいいー」「続きが気になるー」といった見方こそが純粋なドラマの楽しみ方なのかもしれないが、時には深読みをしたり、裏の意図を読み解いたり、ディティールを楽しむこともまたドラマ視聴の醍醐味でもあるのだから。
といったことをひっくるめて、今期は次のようなラインナップになった。結果的に、数字も評価もそれなりに高いドラマになったのは偶然ではなく、今のテレビドラマの充実ぶりを示す証拠だろう。
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公式HPより
『リバースエッジ 大川端探偵社』金曜0時12分~ 1~3話
むかし食べたワンタンの味が忘れられず、どうしてももう一度食べたいと願うヤクザの組長。昭和50年代ごろ、浅草界隈にあったという「鏡越しに隣の部屋のセックスが覗けるラブホテル」を探している変態夫婦。自分を指名するものの一切プレイはせず、ある日いきなりプロポーズをしてきたエリートサラリーマンの身辺調査をしてほしいと言うデリヘル嬢......。
東京・浅草、隅田川沿いに事務所を構える「大川端探偵社」には、普通の探偵社や興信所にはまず来ないであろう、一癖も二癖もある依頼者が日々おとずれ、奇妙な依頼ごとを持ちかける。
脚本・演出は深夜ドラマ界で異彩を放ちつつ、2011年の『モテキ』以降は映画にも進出している大根仁。(※大根監督にこちらでインタビューをしているので、ドラマのお供に、ぜひ)。
裏社会に精通しているらしい所長(石橋蓮司)は持ち前の情報網を駆使し、調査員の村木(オダギリジョー)はひたすら街を歩き聞き込みをする。受付嬢のメグミ(小泉麻耶)はセクシーな衣装でウロウロし......いや、依頼者にお茶も出すし、時には調査のサポートもする。
事務所のメンバーはこの3人のみ。「お互いのことは干渉しないことにしている」と所長が言うとおり、彼らにどのような背景があるのかは、ほぼ描かれない。かつて所長が裏社会に人脈を持つきっかけになった仕事に就いていたらしいことや、メグミが探偵社の仕事の他に夜は風俗嬢をしていることが分かるくらいだ。その代わり、依頼者の側の奇妙で、おかしくて、そして哀しい人生が色濃く起ち上がってくる。主役はむしろ依頼者側と言っても良い。
しかし、一通り調査が終了し、EGO-WRAPPIN'が奏でるメロウなエンディング曲が流れる頃には、依頼人の人生が、所長や村木、メグミという3人を通して切り取られ、一瞬だけあぶり出されていることに気づく。この3人なくして、この話は成立しなかったのだ、と。『探偵ナイトスクープ』でいえば、依頼の内容も重要だが、誰が調査するのかもまた重要なのだ。
第1話の「最後の晩餐」は、原作コミックではFile.06にあたるが、この話を初っ端にもってきたところに、大根監督の「このドラマはこういう話です」という意図を明確に感じる。
浅草に進出した関西の大規模なヤクザ組織に、もはや組長と組員2人きりになった地元の弱小組が殴り込みに行く。その最後の晩餐にどうしても忘れられない味のワンタンを食べたいと組長は願う。
ところが、そのワンタンは、高級食材を駆使したものでもなければ一流シェフの手によるものでもなく......おっと、ここから先はオチになるので避けるが、そのワンタンこそが『リバースエッジ』というドラマの象徴であり、深夜ドラマのありようだといえる。絢爛たる高級感で勝負するわけではないのに、人々の記憶に残るフックのある味わい。
さらに、巨大組織にたった2人で殴り込みをかける組長と組員の姿は、プライムタイムに対する深夜ドラマの立ち位置そのものではないか、などと深読みすらしたくなるのだ。
プライムタイムの枠組みから解き放たれたオダギリジョーは、大根監督が用意した世界を実に気持ち良さそうにたゆたっているように見える。所長を演じる石橋蓮司の含蓄ある物言いにもシビれるし、小泉麻耶ののびやかな肢体はドラマに躍動を与えている。各話のゲストも絶妙な配役がなされ、申し分ない。
深夜ドラマのひとつの到達点を示す快作だ。
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『続・最後から二番目の恋』木曜22時~ 1~3話
2012年1月期に連続ドラマが放送され、同年11月には単発のスペシャルドラマとして復活、この度めでたく続編の放送がスタート。この流れからしても、本作がいかに数字的にも内容的にも好調なのかがわかるだろう。連ドラの初回から欠かさず見ていた筆者も、続編決定の報を知り小躍りした。
設定としては「アラフィフの恋愛ドラマ」ではあるものの、多種多様な登場人物のすったもんだが繰り広げられるため、幅広い世代が楽しめるつくりになっている。脚本は、『ビーチボーイズ』や『ちゅらさん』、最近では『泣くな、はらちゃん』も記憶に新しい岡田惠和、演出は『風のガーデン』などの倉本總ドラマの演出や『それでも、生きてゆく』『最高の離婚』などで知られる宮本里江子(ご存じのひとも多いだろうが脚本家・山田太一の娘である)。おそらく、このドラマの発想の原型はビリー・クリスタルとメグ・ライアンが出演した映画『恋人たちの予感』(1989年、ロブ・ライナー監督)だと思うが、エピソードを重ねることで、もはや別の次元に辿り着いていると言えるだろう。
テレビドラマのプロデューサー千明(小泉今日子)は、仕事仕事で生きてきて、気づいたらアラフィフのおひとりさまになっていた。「老後」なんぞも頭をよぎり、憧れの鎌倉の古民家でひとり暮らしを始めることにする。隣家の長倉家には、鎌倉市観光課に勤務する堅物の長男の和平(中井貴一)、寂しそうな女性を見るとつい相手をしてしまうことから「天使」と呼ばれる次男の真平(坂口憲二)、コミュ障気味の真平の双子の姉・万里子(内田有紀)など、個性的な面々が暮らしている。アラフィフ同士の千明と和平は顔を合せれば口論ばかりだが、どこかシンパシィを感じ合う同志のようでもある。
というのが物語の入口なのだが、とにかく千明と和平の減らず口合戦が最高におかしい。中井貴一と小泉今日子だから成立するであろう小気味いい掛け合いのテンポ、アドリブではないかと思われるフレーズの応酬など、たかが「おとなのけんか」がエンターテインメントに昇華されていることに毎度感心させられる。
続編の第1話でも、初っ端からおよそ15分にわたって千明と和平の口論が描かれていた。
結婚が決まった真平の引き出物を決めるために本人の代理で千明と和平が式場を訪れる。名前入りの鎌倉彫はもらっても邪魔になるし実用的じゃないと文句を言う千明に、「思い出であり、縁を再び結びつけるもの」と主張する和平。裏に名前が掘ってあるからこそ、もらったひとは何年もしてからその結婚式のことをなつかしく思い出すのだ、と。あるいは、仕事に疲れたサラリーマンが引き出物を下げた集団とすれ違う。そうか、今日は日がよかったのか。大安かな。俺はこんなに疲れてるけど、今日幸せな日を迎えた人がいたんだ......。「そういうささやかなことが日本人のもっている情緒なんじゃないですかね」と鼻息を荒くする和平に、「向田邦子か!?」「昭和を懐かしむ、ちょっといい話のエッセイかっつってんですよ」とツッコむ千明。
このやりとりがおかしいのは、小泉今日子自身は向田邦子ファンを公言しており、かつて向田ドラマの演出で知られる久世光彦作品にも出演したことがあるからだ。こんなセリフをキョンキョンに言わせるとは、なんという皮肉!
続編では、千明は管理職となり、現場から離脱。和平は鎌倉市が世界遺産登録を逃した懲罰人事(?)で観光課と市長秘書を兼任させられるハメに。前シリーズでは45歳だった千明は48歳に、50歳だった和平は52歳となり、もはやふたり合せて100歳になってしまったわけだが、登場人物が時間の経過とともにきちんと歳を重ねていくところがこのドラマの良さでもある。もちろん、視聴者も彼らと同じように歳をとっているわけだが。
第1話では、千明のこんなモノローグもある。
「人が大人になるということは、それだけ多くの選択をしてきたということだ。何かを選ぶということは、その分、違う何かを失うということだ。大人になって何かを掴んだよろこびは、ここまでやったという思いと、ここまでしかやらなかったという思いを同時に知ることでもある。だからこそ、人は自分の選んだ小さな世界を守り続けるしかない。選択が間違っていると認めてしまったら、何も残らないから」
大人になることで、何を得て、何を失ったのか。アラフィフでなくとも、思わず自分の胸に問い掛けてしまう言葉ではなかろうか。このドラマでは、時おりこちらの人生を問うようなシリアスなモノローグが聞こえてきてハッとさせられる。
第2話で、かつて千明をポストイットに書いたメモ一枚でフッた男・涼太(加瀬亮)が千明の前に舞い戻ってくる。千明が務めるテレビ局の脚本コンテストで大賞をとったものの、その後はくすぶっている「書けない脚本家」だ。千明をサポートしたい一心で脚本家になる決意をした万里子ともども、彼らにまつわるエピソードは明確なドラマ論、ドラマ脚本論になっていて興味深い。ドラマが「ドラマづくり」を描くなると、ともすれば内輪受けというか楽屋落ち的になりがちなところ、そこは岡田惠和、物語の中に実に巧みに持論を落とし込んでいる。
第3話では、千明の隣の班が進めていた次クールの連ドラが主役の都合で飛び、その空白を千明たちが埋めることになる。放送日が迫っているため、企画、役者ゼロの段階で急遽つくらねばならず、急場の仕事ゆえ、管理職の千明がプロデューサーに復帰。何やら最近実際にあった件を連想させるエピソードでもあるが、事故処理みたい形でつくらなければならないドラマも実際にあるんだろうな。
千明が脚本に抜擢したのは、涼太と万里子だった。ふたりを前にして千明は言う。
「万里子は構成力があってストーリーを緻密に組み立てるのが得意。いろんな意見を臨機応変に採り入れてつくり上げる力がある。ただ、最初から現場に必要なホンを提供してきたから自分から発信したことがない。高山涼太は、ゼロから自分の書きたいものを書いて認められたひと。でも、それだけ。最初は書きたいものがいっぱいあったけど、これは嫌だ、こういうのは好きじゃない、ありがちだ、くだらない、大衆に迎合し過ぎだと言って、やりたくないものが増えて、何が書きたいのか分からなくなってしまった。ドラマは、万里子的なものと高山涼太的なものの両方がないとつまらない」
千明が、自分から逃げて行った涼太をふたたび受け入れ、仕事に抜擢したのは、過去の痛い記憶を新しい思い出で塗り替えようという意志の表れでもあった。ツラい、痛い過去の記憶を上書きすることで、それを克服しようとしているのだ。
ところで、高山涼太がコンテストで大賞をとった脚本のタイトルが『絶望の国の恋人たち』で、その後自分で何が書きたいのか分からなくなったという設定は某脚本家を連想させもするのだが、考え過ぎだろうか。
しかし、本筋とは関係がない部分でのくすぐりもまた、このドラマの魅力だ。たとえば、第3話では、和平がなかなか昼飯にありつけない様子が繰り返し描かれていたのだが、あれはサラリーマンの昼飯を取材する番組『サラメシ』(NHK)のナレーターを中井貴一が務めている前提があってのことだろう。こうした遊びを入れる余裕があるのも、ドラマづくりがうまくいっている証かもしれない。
クレイジーケン バンドの横山剣が作詞・作曲し、小泉今日子と中井貴一がデュエットする『T字路』をバックに出演者がミュージカル風に踊るエンドタイトルも実に楽しい。
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『BORDER ボーダー』 木曜21時~ 1~4話
今期もあいかわらず刑事物、事件物のドラマは多く、若干食傷気味な視聴者も多いかもしれないが、丁寧に見ていけば、そうしたカテゴリーの中でもちょっと変わったことをやっていたり、「お!?」と思わず前のめりになるドラマもあるからあなどれない。今期でいえば本作がまさにそう。テレ朝の木曜21時という鉄板の『相棒』枠で「あたらしいこと」をやろうとしている感がビシビシと伝わってくる。
原案・脚本は作家の金城一紀。直木賞受賞作『GO』は2000年に窪塚洋介主演で映画化され、当時の映画賞を総なめにし、ここ最近ではヒットシリーズになった『SP 警視庁警備部警護課第四係』の原案・脚本を手掛けたことでもおなじみだ。
メイン演出は、ドラマ『相棒』シリーズや映画『探偵はBARにいる』などの橋本一が手掛けている。第1話から、予定調和的ではない練られたセリフとモノローグ、映像の緊張感でグイグイと物語を引っ張っていく。
ある事件で犯人に銃で撃たれたものの、奇跡的に命をとりとめた刑事・石川安吾(小栗旬)は、これをきっかけに死者との対話ができるという不思議な能力が備わってしまう。果たして本当に石川には死者の声が聞こえているのか、はたまた頭に撃ち込まれたままの弾丸が脳の何かを刺激して幻覚を見せているだけなのか、真相はわからない。
1話では、殺された一家と対話することで速やかな犯人逮捕に成功した石川だったが、2話では石川らに踏み込まれた監禁殺人事件の犯人が目の前で自殺、石川の前にだけ死んだ犯人が姿を見せ、まだ殺していない被害者がいると挑発してくるというトリッキーな展開となる。
死者と対話ができるということは、殺された被害者に「あなたを殺したのは誰ですか」と直接聞くことができるということに他ならない。だったら話は早いでしょ、すぐに犯人を捕まればいいんだし......と考えるのは性急過ぎる。もちろん確固たる証拠がなければ逮捕には踏み切れないし、「証拠はないけど俺には犯人がわかってるんです」と周囲に訴えたところで頭がいかれたと思われるだけだ。ここから、石川のジレンマがはじまる。
死者と対話ができるようになって以来、最短距離で犯人を逮捕したい一心の石川の捜査は、怪しげな情報屋やハッカーなど、裏社会に生きる者たちに接近するヤバいものになっていく。死の恐怖を目の当たりにし、そこから再び生還したものの、頭に弾丸を抱え、いつ死ぬかもしれない恐怖と隣り合わせの石川にとって、人の命を奪う者は何があっても許さないという純粋な正義が芽生える一方、その手法はダークサイドに足を突っ込む違法なものになっていくという矛盾が面白い。生と死のボーダーをさまよった男が、善と悪のボーダーをもさまようことになるのだ。
ともすれば、警察の活躍をヒロイックに描こうとするあまり、段取り的に次から次へと人が殺されていく刑事ドラマがはびこる中、本作が異色なのは、殺人という絶対悪を死者の無念を通して掘り下げようとしている点だろう。「人が人を殺すというのはどういうことなのか」「人は死んだらどうなるのか」という大前提を、一見トリッキーな設定の物語に落とし込むことに成功している。
「個人的にはあまり親切に何でも説明し過ぎるのはどうかと思うんです。観終わった後に異物感が残るというか、ドラマを見てベッドで眠りに落ちるまでストーリーに描かれなかった部分をずっと想像してしまうような、余韻のあるラストを残しておきたい」と金城一紀は番組公式サイト内の「BORDERの作り方」で述べている。単に「はい殺人事件です、はい警察が活躍します、犯人捕まりました、めでたしめでたし」という勧善懲悪とは一線を画す、まさにボーダーを行き来するスリリングなドラマだといえる。
2話から登場する石川が捜査の協力を仰ぐ2人組のハッカー、サイモン&ガーファンクルのキャラクターもユニークだ。演じるのは浜野謙太と野間口徹(お互いをサイ君、ガー君と呼び合う)。サイモン&ガーファンクルのアルバム『ブックエンド』でお馴染みの黒のタートルネックを着用し、事務所にはジャケットを模した2人の写真が飾られていたりする。
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金城いわく、「ハッカーっていうと、美少年か太っているか、みたいな定番があるじゃないですか。それはやめようと」(公式サイトより)ということだが、確かに銀縁メガネのいかにもオタク然としたハッカーというステレオタイプを覆すキャラクター設計だ。こういう細かいディティールが予定調和的ではないところも好感が持てる。
他にも特別検死官・比嘉ミカ(波瑠)は沖縄出身で祖母はユタ(巫女)という裏設定などもあるらしい。だから、比嘉だけが石川の死者と対話できる力に唯一気づいていて、しかもどこか羨ましくも思っているのだという。こうした物語上では直接描かれない背景がしっかりあるからこそ、各々のキャラクターに厚みが出るのだろう。
「また刑事物か」と言って見過ごすには実に惜しいドラマであることは間違いがない。
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2014 January-March vol.05
2014年1月スタートのドラマが3月で軒並み最終回を迎えた。本稿は、最終話の結末にも触れているので、各ドラマを録画したまま見ていないひとや、今後DVDなどで視聴するつもりのひとは注意されたし。ただし、結末が分かったからといって面白さが半減するわけではないと思う。筆者はこの原稿を書くにあたって録画したものを各話2、3回繰り返して見ているが、初回よりも筋を知っている2回目以降のほうが、より深く内容を理解することができた(大抵の場合、初回は展開を追うことに終始する)。ここで採り上げたドラマは、いずれもリピート視聴に十分耐え得る良作揃いである。
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公式HPより
『明日、ママがいない』8~9話  日本テレビ 水曜22:00~
このドラマでは、登場人物たちの本音や本心はなかなか表面には表れない。象徴的なのが、児童養護施設「コガモの家」の子どもたちが里親候補の家に行く、いわゆる「お試し」のくだりだろう。子どもは理想的な子どもを演じようとし、里親になるつもりの大人たちもまた、理想的な親を演じようとする。いわば、お互いが共同でフィクションをつくり上げようとするわけだが、そこに果たして一筋の真実は生まれるのかどうか、というのが本作の重要なテーマでもあった。
8話で、里親候補の川島(松重豊)と美鈴(大塚寧々)のもとへお試しに行ったドンキ(鈴木梨央)は、美鈴に向かって「ねえ、私を産んだとき、痛かった?」と聞く。もちろん、美鈴はドンキを産んではいないから痛いはずはないのだが、話を合せて、いかにも本当の親が幸せな思い出を語るようにふるまう。つまり、両者とも芝居をしているのだが、こうしたやりとりは、逆にドンキを不安にさせる。「幸せすぎて、いつかそれがまた壊れるんじゃないか」と。
コガモの家では、ピアノの腕前が天才的なピア美(桜田ひより)が、ピアノコンクールの全国大会への出場を控えていた。「ピアノの腕前とこの美貌で美人ピアニストとしてデビューして...」と夢想するピア美だが、本音はそんなことより、自分を見捨てた父親とたとえ貧乏でもいいから一緒に暮らしたいと願っている。その思いがコンクール当日、ステージの上で爆発、こっそり会場に来ていた父親の胸を激しく揺さぶることになる。
そうこうするうちに、里親が決まりかけたドンキのもとに実の母親がふらりとやってきて連れて帰ると言い出す。話を聞きつけ、里親候補の川島夫妻も慌てて施設を訪れ、実の親とドンキの手を引っ張り合う格好になるが、痛がるドンキの声を聞いて里親候補の美鈴は思わず手を離す。ようするに、『大岡越前』で有名な「大岡裁き」の「子争い」(『本当の親なら痛がる子の手を離すものだ』)が展開するわけだが、そこで魔王こと施設長(三上博史)はこう言い放つ。
「産んだのが親ではありません。いっぱいの愛情で育て上げるのが親なんです。事実の親と、真実の親は違うんです。」 そして、突然地べたに頭をこすりつけ、「私はコウノトリです。」と言いながら、「時々間違えて赤ちゃんを別の人の所へ届けてしまうんです。そこであなたにもう一度、本当のママを選び直していただきたいんです。」と、ドンキに向かってほんとうの親はどちらなのか、選択をうながす。
実の母親の手を振り切り、里親のもとへ駆け寄るドンキに母親は激昂し、「なんて子なの!誰が産んであけだと思ってるのよ。恩知らずにもほどかあるわ!」となじるが、里親はその罵声がドンキに聞こえないようにそっと耳をふさぐ。その様子を見て、「勝手にすればいいわ。どうせ私の足手まといになるだけなんだから」と捨て台詞を吐いて母親は去っていく。
昨年ヒットした『そして父になる』という映画もあったが、ひとは最初から親として存在するわけではなく、時間をかけて、愛情を注いでようやく「親になっていく」のだ。血がつながっていない里親も、そこに愛情があれば「親になる」ことはできる。
本来「虚」であるはずの里親の愛情が実の親に勝利し、「虚構が現実を上書きし、嘘が真になる瞬間」を捉えた本作のピークとも言える圧巻のシーンだった。
こうして、ピア美は本来の名前である直美へ、ドンキは真希へ、ボンビは優衣子へと戻っていく。
残されたポスト(芦田愛菜)は、学校の先生・朝倉の家に通い、ポストのことを事故で亡くした娘・愛だと思い込む朝倉の妻・瞳(安達祐実)の前で娘になりきろうとしていた。現在の天才子役が元・天才子役の前で巧みな芝居を打つという何重にもアイロニカルなシーンだが、果たしてここでも虚構が現実を上書きし、嘘が真になるのか、と思いきや、かりそめの母子の関係は魔王の声で一蹴されてしまう。
結局、生まれてすぐに赤ちゃんポストに預けられたポストを事実上親代わりでずっと育ててきた魔王がほんとうの父親になる決意をするのだが、魔王がポストに言う「一度しか言わないからよく聞け。さびしい。おまえがいなくなると、俺がさびしいんんだ。」の台詞は完全に愛の告白めいていた。
この台詞を口にするのはオレンジ色に染まる夕日の中なのだが、これにはちゃんと理由がある。魔王が、別れた妻・香織(鈴木砂羽)と初めて会ったとき、結婚式帰りの香織は夕日のようなオレンジ色のドレスを着ていて、そのとき魔王は「夕日に染める」と「見初める」を掛けて口説いたらしい。8話で語られたこの何気ないエピソードがまさか最終話のクライマックスで効いてくるとは思わなかった。つまり、魔王はふたたび「夕日に染める」と「(自分の娘として)見初める」を掛けてポストに告白したのだ。
色彩に着目すると、他にも、瞳の娘・愛が事故に遭って亡くなった踏切のランプの赤、線路に転がる靴の赤、ポストが愛用していた髪留めの赤との対比など、実は効果的な設計がなされていたことが分かる。
そして、ラストにポストの本当の名前がはじめて視聴者に知らされるところで物語は終わる。本作は、親に捨てられた子どもたちが、親から付けられた名前を自らの意志で捨てることによって強く生きていこうとする態度を表明し、もう一度、自分たちの意志によって本当の名前を取り戻すまでの物語だ。
当初、各方面から問題視されたポストやドンキといったあだ名が物語上きわめて重要な意味をもっていたため、制作側もここだけは何があっても変更したくなかったのだろう。
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公式HPより
『失恋ショコラティエ』9~11話 フジテレビ 月曜21:00~
旦那と揉めた人妻・紗絵子(石原さとみ)が仕事場の2階に転がり込んでくるという怒涛の展開によって、ショコラティエ・爽太(松本潤)の片思いは突如として両想いに。ベッドをともにしながら、相変わらず「バックバック食べられて気分が良くなるチョコレート、つくってくださいな。」と甘ったるい声でに爽太におねだりする紗絵子は自身の欲望に忠実な魔物だ。もはや爽太も紗絵子に対して無駄な駆け引きをしたり、わざと冷たいそぶりをする必要もない。あれだけ手に入れたかったものが、やっと手に入ったのだ。
しかし、紗絵子がよろこぶショコラをイメージし、それに追い付こうと躍起になってきた爽太にとって、遠くにあったはずのあこがれの存在に手が届いてしまったことによって、不思議なことにショコラづくりのインスピレーションが湧かなくなってしまうという皮肉な事態が起こる。手に入ったと思ったが、結局何もわからない。どこまでいっても、紗絵子という女を知り尽くすことなどできないのだ。
「正も誤もない。これが恋だ。」と突き進もうとする爽太だが、依然としてショコラのインスピレーションは湧かず、紗絵子との未来も思い描けなくなった矢先、紗絵子に夫との間に子どもができたことを知らされる。ふたりにとって、帰るべき場所へ帰るリミットが迫っていたのだ。
「爽太君が好きだったのは本当の私じゃなくて、ただの幻想だったんだよね。だから、私たち帰らなきゃ。いつまでも幻想の中では生きられないよ。」
紗絵子にそう言われた爽太は、ようやく気づく。「あのとき、俺は紗絵子さんを手に入れたんじゃない。失ったんだ。ショコラがつくれなくなったのは、あのときからだったんだ。」 つまり、いま手のなかにいる紗絵子ではなく、幻想のなかの紗絵子こそが、爽太のインスピレーションの源だったのだ。爽太は、未知のショコラをつくるために、幻想を愛しつづけていたのである。
爽太と紗絵子が現実の時間へと戻ろうとするなか、爽太に片思いする同僚・薫子(水川あさみ)と紗絵子の間に奇妙な友情が芽生えはじめる辺りも面白い。
「結局、ずうずうしい女が勝つんだって。」と悪態をつきながら紗絵子をDisっていた薫子だったが、男からのメールの返信について紗絵子に相談した際、的確なアドバイスに思わずうなってしまう。
「お菓子だって、味がいいだけで十分なのに、それでも売るためには形や色をかわいくしたり、愛される努力が必要なんだなって思うし、意識的にでも無意識的にでも、人の気を惹く努力をしている人が好かれてるんだと思うんですよね。」と実体験に基づく恋愛論を展開する紗絵子に、「しごくまっとうだわ」と内心うなずく薫子。「少なくともこの女は、私よりは確実に前や上を向いている人だわ。」と。
石原さとみの説得力のあるビジュアルと相まって、紗絵子が単なるヒールではなく、同性から「好きじゃないけど分かる」あるいは「私もこんな風に振る舞えたら」と思わせるキャラクターとして描かれている点は、本作の大きな特徴だろう。ツッコミ要員として視聴者目線に最も近い立ち位置の薫子、モデルという華やかな仕事をしているにも関わらず好きな男の本命になれない哀しい女・えれな(水原希子)など、女性は誰かしらに自分を投影しながら見ることができたのではないだろうか。
今度こそ紗絵子にちゃんと失恋した爽太は、幻想と決別し、新しい自分を見つけるために旅立つ。勢いで爽太に思いを伝えてしまった薫子は、「初めてちょっとだけ自分を好きになれた気がする」と清々しい顔をしている。爽太との関係にケリをつけたえれなは、まっすぐ前を見てランウェイを颯爽と闊歩する。それぞれにとって、現実と向き合うための第二幕が開いたのである。
恋愛とクリエイションの親密な関係に迫った良作だった。
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公式HPより
『なぞの転校生』9~12話 テレビ東京 金曜24:12~
私たちのいるこの世界だけが、世界のすべてではない。これは、フィクション、とりわけSF(サイエンスフィクション)と呼ばれるジャンルにおける最も重要なテーゼだ。
それを現実逃避と言うのは簡単だが、のっぴきならない現実を生きるひとびとにとって、逃避も時には必要なのである。かつて中学生の殺伐としたいじめを題材にした映画『リリイ・シュシュのすべて』を撮った岩井俊二がこのドラマで描こうとしたのは、「君のいるその小さな世界だけが世界のすべてではない。世界はもっと複雑で、多様で、無限に広がり、つながっている」というメッセージだろう。
そこに「高度に進んだ文明の滅亡」「放射能による被ばく」「行き場をなくし次元をさまよう民」という原作小説&オリジナルドラマのモチーフを引用し、3.11以降の物語として読み替えようとした点が、宮城県出身でNHK東日本大震災復興プロジェクトソング『花は咲く』の作詞も手掛けた岩井ならではといえる。
最終話、SF研の面々がつくる自主映画『なぞの転校生』の撮影で、D‐8世界からやってきた姫のアスカ(杉咲花)は、広一(中村蒼)に向かってシナリオにはないこんな台詞をしゃべる。
「文明とは、人類とは、思っているよりも、もろいものなのだ。この世界の人類も、いつかはこの星から消えることもあろう。だからこそ、大切にしてほしい。この星を、仲間を、友だちを。」
ふつうのドラマや映画では青臭く思えることばがじんわりと胸に響くのは、劇中劇の台詞というかたちを借りて登場人物が「ほんとうの気持ち」を語っているからだろう。
それは、そのシーンの前に置かれた転校生・典夫(本郷奏多)とみどり(桜井美南)のやりとりにも表れる。典夫は、「日曜日に君から花をもらったときから、君のことが忘れられなかったよ。」と告白するも、「ああ、だめだ。結局、ぼくは君のことばを聞いて、こういう風に答えるようにしかできていないのです。」と嘆く。
「モノリオ」と呼ばれる感情をもたないヒューマノイドである典夫が、相手ののことばに反応するかたちでしかコミュニケーションできないことを告げると、みどりは「私だって、あなたにそんな風に言われたら、こんな気持ちになるようにしかできてません。」と、なぞの転校生への淡い恋心を吐露するシーンは、ぎこちなさの残る桜井美南(本ドラマがデビュー作となる)の佇まいと相まって、大林宣彦版『時をかける少女』を彷彿とさせるリリシズムに満ちていた。
「異なる世界で営まれる、もうひとつの可能性」について象徴的に描写されるのが「アイデンティカ」だ。それは、別の次元にある一定の確率で存在するとされる「自分の分身」。D‐8世界からやってきた王家に仕えるアゼガミ(中野裕太)とスズシロ(佐藤乃莉)のアイデンティカがD‐12世界では仲のいい夫婦だったことを彼らが知るシーンはグッとくる。ありえたかもしれない、もうひとつの可能性。
広一たちのいるD‐12世界には「ショパンがいない」ことから、我々の住むこの世界ではないことが早い段階で示されていたわけだが、かといって王妃やアスカの住んでいた滅亡の道を辿ったD‐8世界もこの世界ではない、となると、一体このドラマを見ている我々の世界はどこにあるのか、と思いながら迎えた最終話で、ようやくそのなぞに対する答えが用意される。
「我々の知るこの世界」はD‐15世界と呼ばれ、広一とみどりのアイデンティカはかつてそこで異次元人の典夫と出会っている。やがて広一のアイデンティカは異次元調査団の隊長となる。おそらく、D‐15世界で広一とみどりのアイデンティカが典夫と出会ったのは1975年。つまり、眉村卓の小説『なぞの転校生』がNHK少年ドラマシリーズで映像化された年に違いない。
訳が分からないって? まあ、早い話が、自分たちの分身であるアイデンティカが住む異次元の世界の側から物語を描いておいて、そこを最後にぐるっと反転させるという「めくるめく感」をやりたかったのだと想像する。これもまた、「いまいる世界が世界のすべてではない」というメッセージの表れだろう。
そして、D‐15世界では、広一とみどりのアイデンティカは夫婦となり、みどりと瓜二つの娘を授かっていることもわかる。D‐12世界のみどりとD‐15世界の広一とみどりの娘・みゆきが握手をした瞬間、世界が一直線につながる。
それは、39年の時を超え、伝説のドラマのリメイクがこれ以上ない形で見事に達成されたことを示す瞬間でもあった。
それにしても、11話の王妃が崩御するシーンで、それまで何度も流してきたラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』を流さないどころか、テーマ曲以外、いっさい劇伴を流さない演出にも震えた。そして、岩井俊二、桑原まこ、椎名琴音(SF研のメガネのコ。要注目!)からなるユニット・ヘクとパスカルの『風が吹いてる』も、心の琴線をぶるぶる振るわせた。
というわけで、2014年の1月から3月末までのドラマを3カ月にわたって追ってきたわけだが、世間的には『あまちゃん』『半沢直樹』が当たった2013年と比較して「ドラマ不調」などといわれたものの、当然ながら、きちんと見ていけば見応えのあるものも少なくなかった。視聴率的にはNHKの朝ドラ『ごちそうさん』やテレ朝『相棒』枠の『緊急取調室』などが良かったのだが、このコーナーでは数字が高い=いいドラマとは考えない。もちろん、数字のいいドラマが悪いというわけでもない(実際、『ごちそうさん』は全話面白く見ていた)。ようするに、数字の心配など局のひとたちや広告代理店に任せておけばいいのだ。4月スタートのドラマもなかなか粒ぞろいのようなので、レコーダーのHDをパンパンにして見まくる所存であります。このコーナーも、引き続きごひいきに。
では、いいドラマを。
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2014 January-March vol.04
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公式HPより
『失恋ショコラティエ』6~8話 フジテレビ 月曜21:00~
人妻になった紗絵子(石原さとみ)にずるずると思いを寄せる爽太(松本潤)の妄想恋愛は、セフレ・えれな(水原希子)の行動によって別の文脈へと移行する。えれなは、片思いの相手・倉科に告白し、あっけなくフラれたことで相手への思いを断ち切ろうとする。片思い中は「実在しないファンタジーの世界のひと」のように思えた倉科が、告白してはっきりフラれたことではじめて現実に存在するひとに思えたと、えれなは言う。
その姿を見た爽太も、ずっと自分のなかの「妖精さん」だった紗絵子に「ちゃんと告白して、ちゃんとフラれるんだ」と誓う。バレンタインデーにこれまでの紗絵子への思いのすべてを注ぎ込んだチョコをつくり、真正面から告白して玉砕し、吹っ切ろうと決意した爽太の表情はいっそ清々しい。爽太にとって紗絵子はインスピレーションの源であり、クリエイションの源泉なのだ。バレンタイン用のチョコをつくりながら爽太はこうつぶやく。
「まるでパックリ開いた傷口からひらめきが溢れ出すみたいだ。滲みないわけじゃない。でも、それよりうれしい。何かを生み出せる力が沸くことがうれしい。」
妖精さんに告白してちゃんとフラれることで、紗絵子という現実に存在するひととして捉えて脳内から追いやり、次へ行こうとする爽太のもくろみは、しかし幸か不幸か叶わない。なぜなら、冷酷で、ときに暴力的になる夫との関係に嫌気がさした紗絵子は、爽太のつくったチョコをうっとりと口にしながら爽太への思いを募らせていたのだから。
ファンタジーと決別しようと思ったら、そのファンタジーがあっさりと現実のものになってしまう戸惑い。もちろん、そのままで済むはずもなく...。
と、筋を追いながら書いていると、「恋愛ってたいへんだな」とつくづく思う。恋愛とは、食べ物や飲み物のようになくても困るものではないが、あることで人生に彩りや華やぎがもたらされるという意味では、まさにこのドラマで扱われるスイーツのような嗜好品に近い。そして、一度その甘美なる世界に触れた者は、中毒になる可能性がある。
紗絵子のような女性は、同性からすれば「ブリッコ」「つくってる」などと言われ忌み嫌われる存在の典型のはずなのだが、本ドラマにおける石原さとみの圧倒的な女子度の高さも手伝ってか、同性の視聴者からも支持されている点は興味深い。爽太に片思いしている地味系女子(酒癖悪し)の薫子(水川あさみ)には自分に近い親近感を抱きつつも、注視すべきなのは紗絵子だ、ということか。
女性が女性アイドルのディープなファンになることもごく当たり前の時代、男心を自在に転がす紗絵子を否定するのではなく、むしろその技に学ぼうという姿勢の表れなのかもしれない。それは昨今の若い女性の貧困問題などとも実は密接な関係があり...などと言い出すと話がややこしくなりそうなのでやめておく。
それにしても、嵐ファンの小学生も見ている時間帯でこれだけ「セフレ」というワードが頻出するのもすごい。「ママ、セフレって何?」「間男って?」と聞かれたら親はどうリアクションするんだろうとも思うが、心配しなくてもイマドキの小学生はとっくに知ってるか。
爽太のやっていることは要するに不倫なのだが、松潤で、月9で、こういうドラマをやってしまうと、もうぬるい恋愛ドラマはつくれなくなるだろう。という意味では、間違いなく『モテキ』以降の恋愛ドラマのひとつの到達点といえる。
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公式HPより
『なぞの転校生』6~8話 テレビ東京 金曜24:12~
4話以降、不良グループの鎌仲(葉山奨之)らが登場し、突如として不良マンガテイストを帯びたが、なぞの転校生・山沢にアステロイドなる特殊なバイオアプリであっけなくコントロールされて骨抜きになり、そうこうするうちに山沢の住むD-8世界から容体の悪化した王妃一行が時空を超えてやって来て...と、見ていないひとには何のことやらさっぱり分からないであろう怒涛の展開が繰り広げられている。テレビドラマの枠でできるSFの限界に挑戦したともいえる、実に見応えのある野心作だ。
我々の良く知るこの世界のすぐ横に「平行世界」なるものがあり、良く似てはいるが少しだけ違う世界が無数に存在しているというパラレルワールド物の映像化は案外ハードルが高く、下手をするとチープなものになりがちなのだが、本作はカメラワークやライティング、節度あるCGの使い方によって独特の世界観の表出に成功している。ようするに、全編ゾクゾクする「SF的リアリティ」に溢れているのだ。そして、「日常とは何か」について考えさせられる。空が、夕日が、花が、教室が、そこにあることの意味について。
D-8世界からやってきた姫のアスカ(クックドゥのCMで豪快に中華料理を頬張っていた杉崎花)のいかにも超然とした佇まいも「別の世界から来た感」に満ちているし、アイデンティカだのキャトルミューティレーションだのといったよく分からないがソレっぽい用語が飛び交う様もワクワクする。
岩井俊二、長澤雅彦という映画界からの使者によって、従来のテレビドラマでは味わったことのない肌触りを体感させられる。まさにこのドラマ自体が、ドラマ界にやってきた「なぞの転校生」だ。
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公式HPより
『明日、ママがいない』5~7話  日本テレビ 水曜22:00~
『国家なる幻影』とは石原慎太郎の著書のタイトルだが、このドラマを見ていると「家族なる幻影」というフレーズが脳裏をよぎる。親に捨てられた子どもは、どこかにいるかもしれない理想的な親の幻影を追い求め、何らかの事情で子を失った、あるいは子に縁のなかった大人は理想的な子どもの幻影を探しつづける。
放送中止を求める声を受けて、元々の脚本のどこをどう変えたのかは分からないが、たとえば以下のようなくだりは、世間なるものに対する辛辣なアンチテーゼとして逆に付け加えられたのではないかと想像できる。
6話、児童養護施設「コガモの家」の職員・ロッカー(三浦翔平)が暴力沙汰を起こし、施設の子どもたちから拒絶されそうになったとき、施設長(三上博史)は子どもたちを前にこう説く。
「大人の中には、価値観が固定し、自分に受け入れられないものはすべて否定し、自分が正しいと声を荒げて攻撃してくる者もいる。それは胸にクッションを持たないからだ。 そんな大人になったらおしまいだぞ。話し合いすらできないモンスターになる。だが、おまえたちは子どもだ。まだ間に合うんだ。」「つまらん偽善者になるな。」
話し合いすらできないモンスター。「子どもたちがかわいそう」という一見まっとうな意見の裏にある上から目線と差別。そうした世間なるものの見えない暴力に真っ向から立ち向かう反逆性がこのドラマには当初からあったが、それがクレームを受けてより強いものになっているとすれば、むしろそれはドラマの勝ちだろう。キービジュアルでThe Whoをモチーフにしたり(vol.1参照)、芦田愛菜演じるポストがモッズコート風のアウターを着ているのはダテじゃないのだ。
7話では、ついに伝説的ドラマ『家なき子』(脚本は本ドラマ脚本監修の野島伸司)で主演を務めた安達裕実が、子どもを事故で失ったもののいまだに死を受け入れられず精神に変調を来している母親役で登場。かつての名子役と当代の名子役・芦田愛菜の共演が実現した。
野島伸司といえば、初のマンガ原作である『NOBELU-演-』(『少年サンデー』連載中。作画・吉田譲)では、「生きていくために演じる」子役の世界を過激に描いている。当初、『明日ママ』でも児童養護施設を子役の世界のメタファーとして描いているフシがあったが、回が進むごとにその要素は影を潜めていった。ようするに、メタファーなんていうものが通用しないのが世間なのかもしれない。
子どもたちがポスト(赤ちゃんポストに預けられていたから)、ドンキ(母親が恋人を鈍器で殴ったから)、ボンビ(家が貧乏だから)といったあだ名で呼び合うことが問題視されたが、複数の人物が入り乱れる群像劇で視聴者に名前と顔をすみやかに覚えさせるうえで、この手法はとても効果的だった。もしこれがマナミだのユカだのといった名前だったら誰が誰やらという感じだったかもしれない。
たとえば、『ロストデイズ』(フジテレビ 土曜23:10~)では7人の同世代の若者たちの名前と顔が一致するまで時間がかかったことを思えば、あだ名をつけたのは正解だったし、それによって各キャラクター像も明確化された。ピアノがうまいからピア美、とかね。
そういえば、何人もの養子をとっていることで有名なアンジェリーナ・ジョリーとブラッド・ピット夫妻の養子になることを夢見ていたボンビ(渡邊このみ)が「ジョリピ~」と腰をくねらせながら叫ぶのは、『時間ですよ』で樹木希林が沢田研二のポスターの前で「ジュリ~」と叫びながら腰をくねらせる有名なポーズのパロディだと思うのだが、ネタが古すぎて「あのジョリピ~のくだり意味不明」などといわれているらしい。さすがに昭和すぎたか。
では、いいドラマを。
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2014 January-March vol.03
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『なぞの転校生』3~5話 テレビ東京 金曜24:12~
ドラマでも映画でも、どこにでもある風景や何気ない人々の生活が描かれるとき、それを観る者は、「ああ、自分たちの良く知っている日常が描かれている」と思う。いわゆる「淡々とした日常の描写」だと捉えるわけだが、本作も、「ごくありふれた日常」の描写が積み重ねられ、そこにある日突然、別の次元から不思議な転校生がやってくる話として観ていたら、3話で衝撃の事実が明らかに。主人公の岩田広一(中村蒼)らのいる世界のほうが、どうやら別の次元だったらしいのだ。
原作の同名小説では、高度に進んだ文明をもつ別の次元に住む民が、核戦争による放射能汚染でその世界を追われ、「次元ジプシー」として時空をさまよい、並行世界として存在する現代の日本に「避難」してくる、という設定になっている。当然、このドラマでも広一らがいる世界を「我々の知っているこの世界」だと思い込んで観ていたのだが、3話のラスト、音楽室のピアノでショパンの『雨だれ』をつま弾く転校生・山沢典夫(本郷奏多)に向かって、音楽教師がこう言い放つ。「何て曲?」 問われた典夫は「この曲、知らないんですか?」と驚くが、「そうか、ここにはショパンの『雨だれ』がないのか」とつぶやく。
音楽教師が、あまりにも有名なショパンの『雨だれ』を知らないはずがない。我々のよく知っている日常だと思っていた世界が、実は微妙にズレた異世界だったことが明らかになるこのシーンには鳥肌が立った。モーツァルトは存在しても、ショパンはいない世界。しかも、ドラマの第1話から『雨だれ』は劇中で繰り返し流れていて、「いかにも岩井俊二な世界」などと呑気に聴いていたのだが、これがとんだミスリードだったわけだ。
5話の時点ではまだ明らかにされてはいないものの、転校生の典夫たちのいた世界のほうが、実は我々のいるこの世界の未来の姿という設定なのかもしれない。高度に進んだ文明をもち、その結果、核による最終戦争が起こり、放射能汚染されてその世界に住むことができなくなった人々こそが、我々の未来像なのではないか。
原作を反転させたこのアイデアは見事だし、3.11以降の世界の行く末に警鐘を鳴らすメッセージが込められていることはどうやら間違いがない。
単に「少年ドラマシリーズ懐かしいよなあ」でも「岩井俊二観たよなあ。『打ち上げ花火』とか」というノスタルジー目線でもなく、70年代の伝説のドラマを2014年の映像作品としてアップデートする意味がきちんとそこにある、ということが重要だろう。
今期ベストの予感十分だ。
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公式HPより
『失恋ショコラティエ』3~5話 フジテレビ 月曜21:00~
『ハチミツとクローバー』が打ち出した「片思いも立派な恋である」というテーゼに『モテキ』以降の恋愛のリアリティをプラスしたのが本作だといえる。
昨今の「彼氏・彼女ナシの20代が増えている」なんていうマーケティングデータを真に受けるべきではないのは、特定の彼氏・彼女がいないだけで実はセフレはしっかりいたりするという現実があるからだ。セフレがいても、付き合っているひとがいない場合はアンケートで「彼氏・彼女なし」と書くのだから。という意味では、片思い中である、あるいは彼氏・彼女はいないがセフレはいる、という数を足せば、いまの時代もかなりの人数が恋愛しているといえる。
『失恋ショコラティエ』は、そんな時代の恋愛ドラマだ。主人公の爽太(松本潤)は、人妻となった紗江子(石原さとみ)にいまでも片思いをしている。実は紗絵子も冷えた結婚生活に満たされずに爽太への思いを募らせているのだが、その気持ちを爽太は知らない。どうせまたいつものようにもてあそばれているだけなんだ。だから俺は俺でセフレとよろしくやってやるんだと悪ぶって、モデルのえれな(水原希子)の元へ通う爽太なのだが、爽太の店で働く薫子(水川あさみ)はそんな爽太に絶賛片思い中。ほぼすべての登場人物の思いはすれ違うが、何かの拍子にわずかに触れ合う瞬間がある。その瞬間のことを恋とか愛と呼んでもいいんじゃないか。というのがこのドラマの世界観だ。
女子力全開のゆるふわ系・紗絵子、爽太のセフレだが他の男に片思い中のえれな、爽太の成長を見守りながらも恋心を抑え切れない薫子。おそらく一般の女性視聴者にとってもっとも感情移入できるキャラクターが薫子だろう。演じる水川あさみの地味可愛さも相まって、「こういうひと、いるだろうな」という妙な説得力がある。
そして、このドラマがユニークなのは、恋愛物でありながら、シリアスな仕事論がときおり顔を出すところだ。その辺りは脚本家・安達奈緒子カラ―といえるが、越川美埜子が脚本を書いた4話にもこんなやりとりがあった。
ネットで評判が広まった爽太の店に対して父・誠(竹中直人)が言う。「おまえはいい時代に生まれたな。俺がやってた頃は、口コミで評判が広がるまで何年もかかったもんだ。分かるひとにだけ分かってもらえばいいなんて言ってたら、あっという間に店は潰れちまう。でも、いまは違う。大勢の人間に媚びなくても、たった一人の誰かに死ぬほど愛してもらうことができれば、ちゃんと結果につなげることができる。それはすごく幸せで、恵まれた環境だってことだ。」
これに対して爽太は、チョコレートの貴公子と称されるショコラテイエ・六道(佐藤隆太)も同じようなことを言っていたと言い、「さすがに10も歳が上だと言うことが違うなあと思った」と笑うが、そんな爽太を父は一喝する。「それは違うぞ。歳は関係ないだろ」と言い残して去っていく。
10歳上だったら負けてもしかたがない。そう思うことで安心しようしていた爽太は、「でも、それってその時点で勝負に負けてるってことなんじゃないのか」と気づく。六道が、世間に迎合することで「自分自身のビジョンが消えてしまうことのほうが怖い。どんなものをつくりたいのか分からなくなって何もできなくなることが怖い」と語っていたことを思い出し、「あのひとは凄い。完全に自分の世界を構築している。」「俺はあと10年であんな風になれるのか」と自問する。
これは、どんな仕事にも通じる葛藤ではないだろうか。時折、こんなセリフが飛び出すからあなどれないのだ。
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公式HPより
『紙の月』NHK 3~5話 火曜22時~
全5話を通して、勤務先の銀行の金・1億円を横領した梨花(原田知世)はモノローグで何度もこうつぶやく。
「私は何でもできる。どこへでも行ける」
平凡な主婦が大金を自由に扱える立場になったことで手に入れた「万能感」が、人生の歯車を狂わせる。そして、第1話の冒頭、横領が発覚しそうになって逃亡したタイの町をさまよい、梨花は圧倒的な万能感を憶えながらも、「私は何かを得てこんな気分になっているのか、それとも何かを失ってこんな気分になれたんだろうか。」と考える。
顧客の預貯金を横領するという犯罪によって得た大金を湯水のように使いまくる梨花の姿は、しかし決して満たされているようには見えない。若い恋人に好きなように金を使わせ、みずからも高級ブランドを買いまくり、一流レストランで贅沢な食事を満喫しても、心は空洞のままだ。
結局、大金を手にしたことによって「何でもできるし、どこへでも行ける」と思った万能感自体がまさに薄っぺらな紙幣のようなものだったと気づいた梨花は、「誰かに必要とされたい。誰かに愛されたい」と他人に期待するのではなく、自分自身をまるごと認め、愛してあげようと思う。ここではないどこかへ行こうとしたが、いまここにいる、あるがままの自分と向き合うことを決めた彼女の表情はいっそ清々しさに満ちている。そこからが、ほんとうの旅のはじまりなのだ、と。
梨花の女子高時代の同級生だった木綿子(水野真紀)と亜紀(西田尚美)も、実は同じように金に翻弄されていたのだった。専業主婦の木綿子は、スーパーの特売に血眼になり、夕飯のおかずも風呂の湯もケチる「すてきな奥さま」だが、そのギスギスした家庭に息が詰まって旦那は若い部下と浮気をして高級レストランで大盤振る舞いしていたりする。亜紀はバツイチのベテラン編集者だが、実は買い物依存症でカード破産寸前までいったことが原因で離婚、元夫と暮らす娘に見栄を張っているうちに買い物依存症が再発してしまう。
ケチケチした節約主婦と買い物依存症のバツイチ女。金を使わないのか使うのかの違いだけで、いずれにしても金やモノに振り回されていることに変わりはない。梨花の大金横領・逃亡の物語を縦軸に、同級生だった2人が梨花はなぜそんな大それたことをしでかしたのか想像する様が物語の横軸になっている。そして、最初は理解し難かった梨花の行為が、実は自分たちと同じ心持ちに根差したものであることを知るのだ。
梨花が預貯金を横領するのはオレオレ詐欺に騙されるような高齢者ばかりというのもリアル。金はあるが子や孫には渡したくないがめつい老人が、話し相手になり、切れた電球を換えてくれるようなやさしい銀行員のことは疑おうとしない。梨花に対して下心丸出しだった平林(ミッキー・カーチス)は事件発覚後も「金のことなら言ってくれりゃいくらでもやったのに」と言い、認知症が進行する名護(富士眞奈美)は「梨花さんは天使様」とうっとりした表情で答えるあたりはゾッとする。
1話の冒頭が最終話のラストとつながる構造はストーリー的な意外性はないものの(つまり1話の時点で最後が分かっている)、横領~証書偽造のプロセスや若い恋人との次第に変わっていく関係性をじっくり見せることで心理的なサスペンスをうまく成立させていた。
NHKの夜のドラマ枠は、『セカンド・バージン』以降、熟女と若い男の組み合わせが定番化しているが、そのなかでも頭ひとつ抜けた作品だったのではないか。同枠で向田邦子ドラマのリメイク『胡桃の部屋』も手掛けた脚本家・篠崎絵里子はなかなか達者な書き手だと再確認した。
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公式HPより
『明日、ママがいない』2~4話  日本テレビ 水曜22:00~
第1話の冒頭から「これから始まる物語は現実に即したリアルな話とは異なりますよ」という表現をあからさまにしていたにも関わらず、その意図を読み取れないひとが多数いたことによって、本来の物語の主題とは別の文脈で騒動になってしまったある意味不幸なドラマ。
もし、養護施設の子どもたちに対して施設のスタッフや学校の同級生らが「ポスト」だの「ドンキ」だのとあだ名を付けてからかう場面があればそれは確かに問題かもしれないが、ここで重要なのは、親に捨てられた子どもたちがお互いをあだ名で呼び合うのは、親からもらった名前を自らの手で捨て、忌まわしい過去をネタ化した上で乗り越え、助け合って生きていこうという意志の表れだということだ。子どもたちの決意が、そのあだ名には込められている。
芦田愛菜演じるポストの漢気(おとこぎ)と垣間見える母性。各キャラクターの描き分けも明確で、ドンキ役の鈴木奈央、ピア美役の桜田ひより、ボンビ役の渡邊このみら子役陣の芝居も見事。
今となっては、1話で問題になった施設長のセリフ「お前たちはペットショップの犬と同じだ」に代表される、いかにも往年の野島伸司と言うべき挑発的なセリフはなくても十分に成立したのではないかとも思える。ことさら過激さを前面に出すことで余計な物言いがついたのではないかと、その点は残念だ。
『ロストデイズ』(フジテレビ 土曜23:10~)は全10話中5話まで進んだもののサスペンスとしていまだ盛り上がらず。『私の嫌いな探偵』(テレビ朝日 金曜23:15~)は金曜の夜に何も考えずに見る分にはたいへん楽しい。
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公式HPより
『ダークシステム 恋の王座決定戦』(1~4話 TBS 月曜24:28~)は、独特の世界観と脱力系のテンポ感がじわじわくる。が、『時効警察』を手掛けた三木聡のようなシュール演劇テイストではなく、あくまで予算がないがゆえに自ずとシュールになってしまう自主映画のソレ。これは決して批判などではなく、幸修司が手掛けた同名の自主映画が「原作」であり、それに惚れ込みシリーズ構成と監督を買って出た犬童一心と小中和哉は元々自主映画の出身だから、全編に漂う自主映画臭はむしろ確信犯なのだ。
もちろんHey! Say! JUMPの八乙女光の初主演ドラマだし、最近では『のぼうの城』などの大作も手掛けた犬童一心が関わるのだから、それなりに予算はかけているはずなのだが、あくまでもテイストはチープな自主映画然としている。寝起きのようなボサボサ頭に銀縁メガネで主人公・加賀美を演じる八乙女君のイケメンぶらなさ具合にも感心するし、ドラマ初出演の玉城ティナの棒読みのセリフすら好ましい。
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公式HPより
単発だが、2013年1~3月に放送され人気を博したドラマの待望の続編『最高の離婚special 2014』(2月8日 フジテレビ 21:00~)も見応えがあった。一度は離婚したものの、籍は入れずにずるずると一緒に暮らす光生(瑛太)と結夏(尾野真千子)。友人の上原諒(綾野剛)と灯里(真木よう子)夫妻に子どもが生まれ、光生の姉のおめでたを知った結夏は、光生に子どもが欲しいと打ち明ける。
落ち着いたら再び婚姻届を出そうと言う光生は恋人同士のような今の暮らしを維持したいので、「新婚さん始まろうとしてるんだよ。行くならまずIKEAでしょ。IKEA行ってソファ買おうよ、カフェ風のやつ。」と反論。「そんな雑誌に載ってるみたいな生活いらないの。あなたと私の子どもが欲しいの。分かる?女が男の人に思う気持ちにそれ以上はないの」と詰め寄る結夏に、子どもが生きる将来の日本経済を懸念する光生は、「大就職難ですよ。ブラック企業どころじゃないよ。ブラックホール企業に就職することになりますよ」と叫び、「ブラックホール企業って何よ」とツッコまれると「天文学的な残業時間ですよ。うちの子ボロボロになりますよ。吸い込まれますよ。そこに送り出していいものなの!?」と意味不明の理屈をまくし立てる。
この結夏の「子ども、ほしいね」発言に果たして光生は応えることができるのかを主軸に、諒の元カノ(臼田あさ美)との邂逅や結夏の不倫旅行騒ぎ(相手は光生に『ヤング宮崎駿』と茶化される岡田義徳)などを挟んで物語は進んでいく。膨大なダイアローグが浮き彫りにする人生の悲喜劇。まさくし脚本家・坂元裕二の真骨頂だ。連ドラ版は、ウディ・アレンを思わせる瑛太の神経症的な屁理屈トークが笑いを生み(さながら目黒川はアレン映画におけるイーストリバーか)、「毎度ばかばかしいお笑いを」という落語の夫婦(めおと)物のようなテイストを醸しつつ、ラストは桑田圭祐が歌う『Yin Yang(イヤン)』のイントロが流れ「チャンチャン!」というオチで終わる、という趣向だったが、今回はそれを踏襲しつつ、映画『ブルーバレンタイン』のようにヘビーな男女の対峙が真正面から描かれる。
不倫旅行をしかけた結夏に光生は激昂、二人の仲は最悪に。すったもんだの末、仲直りして婚姻届を出そうと歩み寄る光生に対して結夏は涙ぐみながらこう返す。「光生さんはひとりが向いてる。ほら、逆うさぎだよ。寂しくないと死んじゃうの。馬鹿にしてんじゃないよ。そういう光生さんのとこ好きだし、面白いと思うし。そのままでいいの。無理して合せたら駄目なんだよ。合せたら死んでいくもん。私が、あなたの中で好きだったところが、だんだん死んでいくもん。そしたらきっと、いつか私たち駄目になる。」
一見がさつで無神経に見えるズボラ妻の結夏がほんとうは愛に満ちた可愛いひとだったり、神経質で辛辣な光生がほんとうは相手の気持が分かるやさしいひとだったり。このドラマの凄さは、表面からは分からないひとの奥行や多面性がきちんと描かれているところだ。
光生は物語の冒頭で尿管結石を患い、いろいろあった末、その石が尿とともに流れ落ち、係長に昇進し、通院する歯医者の美人助手に言い寄られる。結夏と別れることで肩の荷が降りたのだろうか。けれど、お年玉年賀はがきの2等のふるさと小包が当たってもそのよろこびを分かち合うひとは、もう隣にいない。
ラストに、光生が結夏に宛てて書く長く叙情的な手紙(まるで小沢健二の詞のような)の文面から、光生がいまでも結夏の記憶ととも日々を暮らしていることが分かる。連ドラ版で結夏が光生宛てに書いた手紙は結局渡されることはなかったが、今回、光生の手紙はポストに無事投函された。その返事がどうなるのか、1年後(?)に期待したい。
では、いいドラマを。
BACK NUMBER
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2014 JAN~MAR VOL.02
前回、事前情報と勘でアタリをつけピックアップしたドラマが軒並み放送を開始した。もちろん、それ以外も初回はほぼすべて録画して見まくったのだが、結果的に採り上げたドラマに関してはハズレなし。レコメンドしたはいいが、実際に見たら「違った!」という事態にならずに正直ホッとしている。こればかりは見てみないことにはわからないわけで、そこがまた連続ドラマの面白さでもある。ちなみにここで言うアタリ・ハズレは視聴率とはあまり関係がない。あくまでも内容重視。
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公式HPより
『なぞの転校生』テレビ東京 1~2話 テレビ東京 金曜24:12~
映画『Love Letter』『リリイ・シュシュのすべて』などで知られる岩井俊二監督が企画プロデュースと脚本を、映画『夜のピクニック』の長澤雅彦監督が演出を手掛けるということで映画ファンからも注目が集まった本作。深夜枠のSFいうと、一歩間違えばチープなB級テイストになる可能性もあるが、フタを開けてみれば、まさしく岩井俊二の良さと長澤雅彦の良さの両方が掛け合わされた、みずみずしい青春SFドラマになっていた。
岩井俊二作品は独特のトーンの映像で知られ、特にやわらかい光の処理の仕方に定評がある。これは、岩井作品を初期から手掛けてきた撮影監督・篠田昇(2004年他界)の功績によるところが大きいのだが、本作ではその篠田の弟子筋にあたる神戸千木(かんべちぎ)が撮影を担当。AKB48の『桜の栞』(演出は岩井俊二)のMVやドキュメント映画『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued 10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?』でも、篠田昇直系というべき美麗な映像が印象的だった。
というように、思わず撮影の話から入りたくなるほど、冒頭から他のドラマとは明らかに一線を画す独特のトーンの映像が広がり、そこにショパンの『雨だれ』が流れるという、いかにも岩井俊二!な世界。「映画みたいな映像」だから良い、というわけではなく、映像自体が何かを雄弁に語るドラマを久しぶりに見た、という話。
今回はじめて連続ドラマを手掛ける岩井俊二の実験性と、映画『青空のゆくえ』や『夜のピクニック』で少年少女の群像劇を撮った経験をもつ長澤雅彦のバランスはかなり良いのではないか。
2話でついに登場したなぞの転校生・山沢典夫を演じる本郷奏多の透明感のある浮世離れぶりが見事だし、1975年に放送されたNHK「少年ドラマシリーズ」版で主人公・岩田広一を演じた高野浩幸が中村蒼演じる岩田の父親役として登場するのもオリジナル版のファンへの目配せを感じる。
そして前回、注目すべしと書いた桜井美南はいまのところまだ大きな見せ場はないものの、2話の花屋で山沢典夫とはじめて出会うシーンでさわやかな色気を覗かせるあたり、今後に期待がもてるというもの(ちなみにオープニング曲でもなかなかの美声を響かせている)。
伝説化しているドラマのアップデート版としては大成功といえるのではないか。
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公式HPより
『失恋ショコラティエ』1~2話 フジテレビ 月曜21:00~
2010年のドラマ版と2011年の映画版『モテキ』(大根仁監督)が恋愛物のリアリティを更新して以来、「そんな会話する?」というようなウソ臭いドラマや映画は急速に過去のものになっていった。とはいえ、生々しい現実的な設定や会話を採用するだけではあからさま過ぎるし、場合によってはゲンナリもする。それをどうコーティングして「恋愛の夢(あるいは悪夢)」を提示してくれるのかがカギになる。本作は片思いをこじらせて妄想恋愛へと突き進む男を『モテキ』以降のリアリティで描こうとしている。
「さあ、それじゃあ、ドロドロに汚れましょうか」
パリで修行してショコラティエとなった主人公の爽太(松本潤)は、こうモノローグで宣言する。ドロドロとはいえ、そこはチョコレートの海なので、甘美でほろ苦い。いわば甘い痛みの中へズブズブにはまり込んでいくのだが、ある種の男たちの中には、いい女に振り回されたいという欲求の強いひとがいる。
嘘か本気か分からない思わせぶりな態度に一喜一憂しながらも、それが仕事(爽太の場合チョコレートづくり)への情熱を増幅させていく。金持ちになりたいとか女にモテたいという漠然とした夢ではなく、「あのひとによろこんでもらいたい」というモチベーションのみで突き進めるひとはむしろ幸せだ。「あなたに褒められたくて」とは高倉健の著書のタイトルだが、爽太は紗絵子(石原さとみ)を笑顔にしたい一心でチョコづくりに励む。仕事というものの本質が、案外そこにあったりするのかもしれない。不特定多数に向けるのではなく、誰かのためにする何か。
紗絵子が爽太の学校の先輩だったという設定が思いのほか効いていて、手の届かないミューズを思いながらもつい身近な女に行ってしまうという構図には、夢と生活、アート(チョコづくり)と恋(生き方)の両立は可能かという問いが見え隠れする。
ふだん甘いものに関心のない男(自分のことです)ですら、見終ると無性にチョコレートが食べたくなるのも紗絵子の魔法なのか。 
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『明日、ママがいない』1話  日本テレビ 水曜22:00~
1話の放送直後、赤ちゃんポストを有する病院から「人権侵害」として局側に放送中止を求める物言いがついたことで思わぬ話題になってしまったドラマ。確かに「児童養護施設あたりからクレームが来なければいいが」と思いながら見ていたのだが、あんのじょう、という事態になってしまった。
が、ちょっと冷静に見れば、冒頭のホラー調の展開からして、かなり戯画化された寓話性の高い物語だということはすぐに分かるわけで、同じ枠で放送されていた『Mother』『Woman』のような現実に即したシリアスな路線でないことは一目瞭然なのだが。前回書いたように、親に捨てられた子どもたちが、「捨てられたほうも黙っちゃいないぜ、というタフな生き方」を見せるのがこのドラマのキモなのだからして、現実と乖離しているとか人権侵害といった指摘は当たらないのではないかというのが個人的な意見だ。
物語の設定から『家なき子』リターンズか!?などと前回も書いたのだが、なんと1話のエンドクレジットに「脚本監修・野島伸司」の文字が。そう、『家なき子』を手掛けた張本人が関わっていたのだ。公式サイトで事前に公表されていなかったこともあり、これには驚いた(実はネット上では噂されていたのだが)。あくまでも脚本は松田沙也で、野島は監修ということらしいが、かなり内容にコミットしているのではないかと思われる。
というのも、赤ちゃんポストに預けられていたから「ポスト」、家が貧乏だから「ボンビ」、母親が鈍器で男を殴ったから「ドンキ」というあだ名で子どもたちが呼び合う様子を見て、「昔の野島伸司ドラマみたい」とリアルタイムで放送を見ながらツイートしてしまったくらい、90年代の野島ドラマのフレイバーが濃厚だったからだ。もちろん、盛大なリバイバルというわけではなく、この設定なのに意外にも笑いの要素があったり、野島ドラマにあった、やたらとナイーブな「思いつめた感」のようなものはなく、サバサバとした印象(悪く言えば軽い)を受けるあたりが松田沙也テイストなのだろうか。
グループホーム「コガモの家」で、施設長を演じる三上博史が朝食を前に子どもたちに向かって「泣いてみろ。泣いたやつから食っていい」と鬼のようなことを言い放ち、子どもたちがうまく泣けずにいる中、芦田愛菜演じる「ポスト」が見事に泣いて見せる、というシーンは、明らかに現実の子役の世界を戯画化している。あるいは、理想的な里親に選んでもらえるかどうかを子どもたちが心配するくだりは、さながら「たくさんのオーディションの中からいかにおいしい仕事をゲットできるか」という過酷な子役の世界のメタファーだろう。
こうしたことからも分かるように、このドラマは「親に捨てられ施設で暮らす子どもたちの話」という設定を借りつつ、描こうとしているのは、ダメなオトナたちがつくったダメな社会を子どもたちがいかに自力でサヴァイヴしていくのか、という話なのだ。まさか放送中止などということはないと信じたいが、物言いがついたことで無難な脚本に書き直したりせずに初志貫徹してもらいたいと願うばかり。
そういえば、知人に言われて気がついたのだが、本作のキービジュアル(芦田愛菜たちが毛布にくるまっている写真)は、イギリスのロックバンド、The Whoのドキュメント映画『The Kids Are Alright』の引用だ。まさにこのタイトルが劇中の子どもたちへのメッセージになっているあたりがニクい。
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『紙の月』NHK 1~3話 火曜22時~
若い男に貢ぐために勤務先の銀行の金・1億円を着服する主婦を、いつまでも透明感を失わない原田知世46歳がどう演じるのか。本作への興味はほぼその一点にのみ集約されていたのだが、昼ドラ風の設定にも関わらず、生々しい性欲の話にならずに済んでいるのは(それが見たいというひとには物足りないだろうが)、やはり原田知世のたたずまいがあってこそだろう。
梨花(原田)の夫・正文(光石研)は、妻を傷つけることをポロっと口にするが、おそらく本人に自覚はない。暴力をふるうわけでも、浮気をしているわけでもない、ある意味ごく普通の商社マンなのだが(どうでもいいけど、こういう場合の夫は大抵商社マンだな)、梨花の中にオリのように少しずつ積み重なっていく疎外感が、自分を褒め、認めてくれた若い男・光太(満島真之介)へと向かわせる。
普段は見向きもしない高級化粧品を買おうとするとき、手持ちのお金が財布になかったため、顧客から預かった現金を「あとで返せばいいよね」と手をつけてしまうことから始まる転落。確かに、お金には持ち主の名前が書いてあるわけではいから、ひとから預かったお金を使っても、後で自分のお金で補てんすれば一見問題はないように思えるが、ひとのお金に手をつけ、それで何事もなかったという事実は、そのひとの何かを狂わせるのだろう。怖い。実に怖い。
「ちょっと無神経だけどごく普通の夫がいて、なんで若い男のために他人の金を1億も横領するのか理解できない」という声もあるだろう。それはごく自然な感情だと思うが、梨花は若い男にのめり込んだのでも、大金に目が眩んだのでもなく、「ここではないどこか」へ行くことを欲したのではないだろうか。いわば、遠い国への旅を夢見るように。

「ここではないどこか」への旅のチケットが、梨花にとってお金であり恋愛だったのかもしれない。
前回採り上げたドラマの中では、『ロストデイズ』(フジテレビ 土曜23:10~)が、やや展開がゆるく、いまひとつといった印象。演出は『古畑任三郎』『マルモのおきて』などを手掛けた河野圭太なのだが、サスペンスの演出は不得意なのか。山小屋に泊まる大学のテニスサークルの男女をめぐるサスペンスなのだが、ホラー映画ならば開始10分で殺されるような軽~いノリのリア充男女の恋のかけひきが描かれるのみで、2話の時点でメンバーのうちの誰も死んでいない。人気番組『テラスハウス』みたいなルームシェアドラマを見せられているような気分なのだが、屈託がなさそうに思えた面々の裏の顔が徐々に表れ出したので、これからどう物語が転がるか、もう少し様子を見よう。
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その代わりといっては何だが、期待せずに見た『私の嫌いな探偵』(テレビ朝日 金曜23:15~)が思いのほか楽しかった。原作は『謎解きはディナーのあとで』の東川篤哉による「烏賊川市(いかがわし)シリーズ」なのだが、安定感のある二枚目芝居も堂にいった玉木宏に剛力彩芽が「鳥みたいな顔」といじられたり、『33分探偵』『コドモ警察』を手掛けた福田雄一の脚本がふざけまくっていて痛快だ。これまで剛力ちゃんの代表作はランチパックだと思っていたが、これはハマり役ではなかろうか。
『ダークシステム 恋の王座決定戦』(TBS 月曜24:28~)については初回放送がギリギリ間に合わず、次回あらためて書くことにする。次回は2週間後くらいに更新予定。
では、いいドラマを。
BACK NUMBER
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2014 JAN~MAR VOL.01
通常、テレビドラマは3カ月に一度入れ替わるが、新ドラマの初回を見逃すと、次回以降見る気が失せるのはよくある話。ということで、2014年1月スタートの新ドラマの中から、「とりあえず初回だけでも予約録画しておいたほうがいいドラマ」をセレクトしておく。もちろん、リアルタイムで見ることが可能であればなるべく録画せずに見るべし。録画が溜まるとだんだん見るのが億劫になるものだ。
フタを開けてみないと何とも言えないのがドラマの面白さであり怖さでもあるのだが、事前情報や過去のデータなどから読み解くと、こんな感じになる。
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『なぞの転校生』テレビ東京 1/10スタート 金曜24:12~
原作は1967年発表の眉村卓によるSFジュブナイル小説。1975年、NHKがウイークデイの夕方放送していた帯番組「少年ドラマシリーズ」枠でドラマ化され人気を博した作品なのだが、そんな昔の話をなぜ今? と、まさにクラスに突然なぞの転校生がやってきたかのごとく不思議がっていたら、企画プロデュースと脚本を映画監督の岩井俊二が手掛けると知り、ははーんと腑に落ちた。
岩井俊二はまさにこのドラマをリアルタイムで見ている世代だし、しかも、「高度に進んだ文明を築いたがゆえに核戦争を引き起こし別次元の世界から避難してきた民」という設定は、福島の原発事故とそこから避難した人たちをどうしたって想起する。岩井は宮城県の出身で、NHKの東日本大震災復興支援ソング『花は咲く』の作詞も手掛けている。当然、今この話をやる上で、核に対する危惧を込めるであろうことは想像に難くない。
もちろん原作小説もNHKのドラマも、あからさまな反核思想などではなく、ある日突然やってきた異能者が日常に揺さぶりをかけるという、基本的にはSFやサスペンスのかたちを取りつつ、行き過ぎた現代文明に警鐘を鳴らすというメッセージが背後に置かれている。実は、まさに今描くべきテーマが内包された話だといえる。
主人公・岩田広一に中村蒼、なぞの転校生・山沢典夫に本郷奏多という若いけれどキャリアのある2人を配しているが、注目は岩田と幼なじみの香川みどりを演じる桜井美南(みなみ)。これがドラマ初出演となる桜井は、鈴木杏、北乃きい、南沢奈央を輩出したキットカット受験生応援キャラクターの5代目にあたる16歳(ちなみに4代目は2013年注目を集めた刈谷友衣子)。
しかも岩井俊二といえば、自身の映画で奥菜惠や蒼井優をブレイクさせた「女の子を見る目が確かな」監督。予告動画以外、動いている姿をまともに見たことがないうちからこんなことを言うのもナンだが、おそらく逸材に違いない。
とはいえ、岩井はプロデュースと脚本のみで、演出は『夜のピクニック』などで知られる映画監督の長澤雅彦が手掛ける。これまで大根仁監督の『モテキ』、園子温監督の『みんな!エスパーだよ!』などを放映してきたテレ東深夜の「ドラマ24」枠で岩井俊二&長澤雅彦とくれば映画好きも必見だ。
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『失恋ショコラティエ』 フジテレビ 1/13スタート 月曜21:00~
いわゆる月9。と言っても、最近の月9はかつてのトレンディドラマの流れを汲む王道の恋愛ドラマを放映する枠では既になくなっていて、『鍵のかかった部屋』『ビブリア古書堂の事件手帖』などライトなミステリィ物も多く、バラエティに富んでいる。
2012年夏、この枠で放映された『リッチマン、プアウーマン』(小栗旬、石原さとみ出演)も一見王道の恋愛物のようでいて、「就職が決まらない高学歴女子とIT企業を起ち上げ成功を手にした若き経営者との格差恋愛」を題材にした、恋愛+起業物というあたらしい手触りのドラマだった。Facebookの創業者、マーク・ザッカーバーグをモデルにした映画『ソーシャル・ネットワーク』に韓流ドラマをプラスしたような、と言ってもいい。
とりわけ、一筋縄ではいかない安達奈緒子の脚本が秀逸だったのが、『失恋ショコラティエ』は、その安達が脚本を手掛けていることからも要注目。原作は累計100万部を記録する水城せとなの人気コミックだが、こういう場合、何かと原作ファンからは厳しい声が上がるものと想像される。むしろ原作を未読のひとのほうがすんなり入れるかもしれない。
ある意味ストーカー的な妄想恋愛に邁進する主人公・爽太を嵐の松本潤がどう体現するのか。『リッチマン~』では子犬のような愛らしさ全開だった石原さとみが爽太を思わせぶりに振り回す「性格悪子ちゃん」のサエコをどうリアルに演じるのか。20代男子の4割が恋愛経験ナシといわれる現代において、あからさまにベタな恋愛ドラマをつくるとは思えず、かなりヒネリや毒のある展開になるものと思われる。
原作では爽太のセフレとして描かれる加藤えれな役が水原希子というのもグッとくるし、爽太の妹・まつり役に有村架純が配されているあたりも抜かりがない。
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『明日、ママがいない』 日本テレビ 1/15スタート 水曜22:00~
日テレ水曜10時といえば、芦田愛菜が注目されるきっかけとなった『Mother』や満島ひかりがシングルマザーを演じた『Woman』(いずれも脚本は坂元裕二)など、母と子の葛藤の物語に象徴されるヘビーながらも見応えのあるドラマを放映してきた枠だ。この枠に、ふたたび芦田愛菜が降臨。そして、大河ドラマ『八重の桜』のチビ八重で人気を集め、『Woman』では満島ひかりの娘を演じた鈴木梨央も加わり、何やらまたしても見る者の涙を枯らそうという魂胆らしい。
親の虐待などによって児童養護施設に預けられた子どもたちがサヴァイヴしていく話と知り、安達祐実の『家なき子』リターンズか!? と思ったのだが、予告動画を見たら、「親なき子たちの物語」というフレーズを使っていて納得。施設の子どもたちが「ポスト」だの「ボンビ」だのとあだ名で呼び合うのは、親からもらったものは名前も含めてすべて捨てるためだというからすさまじい。
「親に虐待されてかわいそう」なんていう良識ある視聴者のうわべだけの感傷を吹っ飛ばし、捨てられたほうだって黙っちゃいないぜ、というタフな生き方を見せてもらいたい。はたして「同情するなら金をくれ」に匹敵するキラーフレーズは出るのだろうか。
今のところ公式サイトに脚本家のクレジットはない。普通に考えれば『Mother』『Woman』の坂元裕二なのだろうが、どうやら新海誠のアニメーションの脚本に参加している松田沙也の線が濃厚。未知数のひとだけに期待と不安が入り混じった状態で放映を待つしかなさそうだ。
他には、TBS深夜の「ドラマNEO」枠で放映される『ダークシステム 恋の王座決定戦』(TBS 1/20スタート 月曜24:28~)も、まさにダークホースとして押さえておきたい。何しろ、自主映画でありながら異例の高評価を得た幸修司の映画『ダークシステム』に惚れ込んだ映画監督の犬童一心(『ジョゼと虎と魚たち』『のぼうの城』)が演出を買って出たというのだ。
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公式HPより
好きな女の子を恋敵に奪われた男が手づくりマシンを駆使して反撃に出る...という恋愛バトルコメディだが、『失恋ショコラティエ』がフランスで修行してショコラティエになってあのコを見返してやるんだ!というシャレオツなリベンジであるのに対し、『ダークシステム』の主人公・加賀美はあくまで負のエネルギーをマシンに搭載してライバルに暑苦しく立ち向かう。
加賀美を演じるのは、これがドラマ単独初主演のHey! Say! JUMP・八乙女光。自分勝手で小心者というイケてない主人公をどう演じるのか見ものだが、加賀美が惚れ込むヒロイン・白石ユリを昨年のミスiDグランプリに輝いた玉城ティナが演じるのも大注目。すでにモデルとして各方面から引っ張りだこだが、ファムファタル(運命の女)と言うべき役柄をドラマ初出演の玉城がどう魅せるのか。低予算の自主映画だからこそ生まれる馬鹿馬鹿しい情熱のようなものが映画版の魅力だったが、ドラマ版にもその熱量が受け継がれていることを期待したい。
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公式HPより
他にも、瀬戸康史主演、石橋杏奈、小島藤子、三吉彩花など注目の若手女優が揃い、1日1話、10日間を10話で描くというミステリー『ロストデイズ』(フジテレビ 1/11スタート 土曜23:10~)あたりも初回は押さえておきたい。角田光代の小説のドラマ化で原田知世が主演を務める『紙の月』(NHK 1/7スタート 火曜22時~)も、全5話と短いが、巨額横領して男に貢ぐ女を原田知世がどう演じるのか興味をそそられる。
ということで、1月スタートのドラマをピックアップしてみたが、岩井俊二、長澤雅彦、犬童一心と、複数の映画監督が連続ドラマに進出しているのも今期の特徴のひとつ。ドラマ好きの間ではここしばらく「脚本家は誰か」でドラマを見る傾向があったが、それに加えて今度は「演出は誰か」に注目が集まるとすれば、さらに見方は多角的になる。
『医龍4』がないじゃないか!とか、向井理と綾野剛という当代人気イケメン共演の『S 最後の警官』はどうした!とか、各所からツッコミが聞こえてくるが、まあ気のせいだろう。人気シリーズや人気俳優のドラマは放っておいても見るひとは見るでしょ。というのがこのコーナーのスタンスだ。
次回は、新ドラマの初回が出そろったタイミングで更新する予定なので、ぜひそれまでにおのおの課題(?)をクリアしておいてほしい。
では、いいドラマを。
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